第317話 真理の道

 目の前で、好奇心を隠そうともしない優子に対して、真理の口は一層重くなっていた。

 恋バナなどと呼ぶには、良いことも、悪いことも、いろいろなことが多くありすぎた。


 中学一年の終わり頃に転校してきた真理が、初めて冬希を見かけたのは、市役所へ向かうバスの中だった。

 自分と同年代だろうか、という少年が、バスの停留所で乗車口から乗ってきた女性に席を譲った。

 冬希から譲られた席に座ろうとする女性のカバンには、妊娠中であることを知らせるタグがついていた。おそらく、バスの中でそのことに気がついたのは、冬希だけだっただろう。真理は、なんとなくその少年に対して、負けたような気分になったのを覚えている。その後、冬希は終点直前の市民図書館前のバス停で降りて行った。

 中学二年になり、クラス替えでその時の少年、冬希と同じクラスになった。

 真理は、その時から興味を持って冬希を見ていた。不思議なことに、友達がいなさそうな雰囲気で、休み時間などは、大抵何かしらの本を読んでいた。

 彼に友達がいない理由はすぐにわかった。クラス内の団結を強める目的で4月に行われたクラスマッチの日の帰りのホームルームで、クラスのリーダー格の男子が、サッカーの試合でミスをしたクラスメイトを名指しで非難し始めた。真理にとっては、耳を塞ぎたくなるようなキツイ口調で、自分が言われているのではないにも関わらず、その場から逃げ出したいとすら思った。

 そんな中、冬希は

「親睦を深める目的のクラスマッチで、嬉々として失敗した人を吊し上げるべきではない。そういう態度は改めるべきだ」

 と言い放った。

 そこでようやく担任が事態の収拾に乗り出したが、明らかに冬希はクラスの男子から距離を置かれるようになった。いじめられる、というよりも冬希と距離を詰めようとするクラスメイトがいなかったというのが正しかっただろう。

 後から聞いた話だが、冬希が陰湿なイジメや悪口を公然と非難しているのは、

「姉の薫陶」

 ということだった。どちらにしても、冬希は意に介した様子もなく、休み時間にクラスメイトが校庭で遊んだり、雑談に興じたりしている中、一人で本を読んだり、ぼんやり外を眺めていたりした。

 冬希は、クラスメイトから暗いと言われていたが、話してみると、とても面白かった。誰かを貶めるような面白さなどではなく、真理が一番よく話す男子は、冬希となっていた。

 彼は、他人のことを決して悪く言わない。そして誰に対しても優しかった。

 クラスメイトたちは、好きな人や、仲がいい人には優しい、という人ばかりだった。それは単に相手に良く思われたいというだけで、本当の優しさではないと、真理は思っていた。

 クラスの中で浮いていた冬希のことが、気になって仕方ないと思うようになったのは、この頃だった。

 中学三年になり、クラスは違ってしまったが、顔を合わせれば話す間柄だった。

 寂しくもあり、新しいクラスでちゃんとやっていけているのかと、親鳥のような心境で心配していた。

 三年生ともなれば、高校受験もあり、心に余裕もなくなってきていた。県内にあるトップクラスの進学校、神崎高校を目指すと決め、模試での合格ラインに届くかどうか、という成績で停滞して、不安に押し潰されそうになっていた。

 そんな中、神崎高校を受けるということを唯一教えていた冬希が、推薦入試で先に神崎高校に合格していたことを、冬希以外から知らされた。そのショックは大きかった。

 真理は、数日勉強に集中できないほど怒りを覚えた。抜け駆けのようなことをされ、馬鹿にされたような気がしたのだ。

 気持ちの整理がつかなかった真理は、ことの成り行きを母親にぶちまけ、

「絶対に負けたくない」

 と言った。それに対して母は

「負けたくないも何も、その男の子はあんたを追いかけて神崎高校を受けたんでしょ。勝ち負けで言うと、もうあんたの勝ちでしょ」

 と呆れたように言った。

 その言葉で冷静になった真理は、伸び悩んでいた成績もむしろ徐々に上がっていき、神崎高校に合格することができた。

 冬希のおかげ、という側面があったのは完全には否定できないものの、真理はやはり簡単に冬希に許す気にはなれず、気持ちの整理がつくまで距離を置くことを宣言してしまった。

 怒りに任せて行動してもいいことは何もない、というのは大きな教訓になった。そのことを後から後悔することになったのだ。

 入学式の時、冬希な新入生代表の女の子と一緒にいた。美術品のような美少女でありながら、冬希に向けた笑顔は愛嬌があり可愛らしかった。真理は、二人の姿を遠くから茫然と見つめることしかできなかった。

 吹奏楽部に入ったのは、元々楽器を演奏できるようになりたかったからだ。中学の時は、転校してきたということもあり、途中から中学の吹奏楽部に入る勇気はなかったが、高校からでも始めることができるなら、と入部を決めた。だから、全国大会に出る冬希の応援に、福岡に行くことになったのは、全くの偶然だった。

 応援に行った初日のコース、一番速度が落ちるという場所で、演奏する先輩の横でまだ楽器を演奏できなかった真理は、大勢の選手の中にいる冬希を見つけた。

 冬希も、まっすぐ真理の方を見ていた。

 最後に冬希は、小さく頷いたように、真理には見えた。

 その日のレースで、冬希が優勝したということは、先輩が持っていたスマートフォンの映像で知った。

 真理は、冬希に活躍してほしいと思っていたわけではなかった。

 ただ、自分の方を見てくれて、自分がいることに気がついてくれて、ただそれが嬉しかった。

 冬希が活躍すればするほど、真理は冬希に話しかけるのが難しくなっていった。

 自分でも難儀な性格だと思うが、冬希が活躍し始めた途端、擦り寄っていくような感じに思えて、それが嫌だったのだ。

 7月になって、真理は春奈と知り合いになり、勉強を教えてもらう仲になった。

 春奈は、可愛いだけではなく、頭も良く、性格も優しかった。

 可愛く、頭も良いから性格が良くなるかもしれない、などと最初は捻くれたことも思ったが、仲が良くなるとそんなこともどうでも良くなった。

 春奈をきっかけに、冬希ともまた話しをするようになった。冬希は中学時代と変わらず真理に接してくれた。自分より春奈が大切にされている、と思った瞬間は、不思議なことに一度もなかった。

 3人の時間は、高校に入ってからのどの友達と過ごした時間より楽しかった。

 しかし、今は違っていても、最終的に冬希と春奈は付き合うようになり、自分は邪魔になるのではないかという不安を抱えていた。

 そこから、春奈が冬希と多少距離を置くようになり、最終的に、自分の夢のためにドイツに行くことを決めたという話を聞いた時、真理は春奈が自分の理解を超えるほど凄い女の子だったんだと思った。

 春奈は、可愛く、頭も良く、性格も良い。それだけではなく、芯の強さも持ち合わせているのだ。自分が春奈に勝っている点など、春奈より早く冬希に出会っていた、という点だけではないか。それを考えると、涙が溢れてきた。

 色々と考えた。

 今ならわかるが、春奈のその頭の良さと芯の強さが、春奈自身を冬希から引き剥がす結果となったのだ。

 親友になった春奈がいなくなり、真理は落ち込んだ。

 冬希も、同じように落ち込んでいるように見えた。

 春奈が去った後、冬希は真理のことを中学時代のように、荒木さん、と呼ぶようになった。

 二人でまた話すようになり、一緒に学校から帰るようになり、それからも色々あった。

 中学校の頃の教師である、安田先生との件ももう忘れたかった。

 冬希が守ってくれたという嬉しさはなく、ひたすら巻き込んで危険な目に遭わせてしまったという申し訳なさしかなかった。

 冬希とは、変わらない日々を送っている。周囲から、付き合っているのかと聞かれることもある。真理は否定している。

 今の冬希の感情は、真理には推し量ることは出来ない。春奈が自分たちの元を去ったことについても、どう思っているか、どこまで考えているのかも、わからなかった。

 ただ、国体から帰ってきた後に、神崎理事長と珍しく春奈の話をしたという話題になった時に、真理は特に深く考えたわけでもなく、自然に

「寂しいね」

 と言ってしまった。

 それに対して冬希は

「でも、遅かれ早かれ、春奈と俺と、荒木さんも含めた周囲の状況は、こうなっていたんじゃないかって気はするんだ」

 と言った。

 冬希は、鈍感なところはあるかもしれないが、決して馬鹿ではない。彼なりに、彼なりの答えに辿り着いたのかもしれない。

 冬希の言った、こうなっていた、という言葉が、春奈が離れて自分と冬希が一緒にいる状況を指しているのであれば、それが真理が求めていた答え、という理解もできる。

「告らないの?」

 優子の声で、真理は思考の沼の底から、現実に引き戻された。

「うーん、私から、っていうわけにはいかないんじゃないかなぁ」

 経緯が経緯なだけに、と真理は心の中でつぶやいた。

 告白するより告白されたい、などという頭の悪い理屈ではない。

 ただ春奈の存在が冬希に想像以上に深く刺さっているような気がして、真理から告白したら、今の状況でも付き合う事になるかもしれない。ただ、冬希自身が春奈のことについて「完全に」整理がついていなければ、結局春奈を選ぶ事になるのではないかと、真理は不安を覚えていた。

「私からっていうわけには、いかないなぁ、やっぱり」

 真理は、もう一度言った。

 複雑に絡み合っているのは、冬希の線一本なのだ。受験が終わった後に和解し、二人で仲良く学校に通っていたら、こんな状況にはなっていなかったかもしれない。だが、春奈と出会ったことは真理にとっても幸せなことだったので、時間を巻き戻せれば、などとは思わない。こんな事になってしまったのは、自分の気性にも責任があると思いう。ただ、冬希に対し、多少なりと不満に思うところがあるのは、春奈のような完璧超人ではないので、仕方ない事だと、今は割り切っている。

 自分の欠点を認め、割り切ることで、少し自分のことが好きになった。だから、良いことも悪いこともあった中で、後悔だけは残さずに済みそうだ、と真理は思った。

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