第315話 私立極光学院高等学校
神崎高校の理事長兼自転車競技部監督の神崎秀文が運転するセレナは、千葉方面への帰途についていた。
後部座席では、竹内と伊佐が寄り添うように眠りについている。神崎も冬希も、それを責める気は毛頭無かった。彼らは、もともと合格者の説明会のために学校に来ていたところを、群馬サイクルスポーツセンターまで連れて来られていたのだ。
冬希は、助手席で神崎の話し相手になっていた。
長距離走行中は、運転している人が眠くならないように、そうするものだと姉から教えられていた。
家族で出かける際も、父の運転する車の助手席は、冬希の定位置だった。父の運転で高速道路を走っている時など、眠くなってうとうとすると、よく姉に頭をポカリと殴られたものだった。
「黒川君は、どんなスポーツをやったとしても、一流と言っていいところまで行ったと思うよ。身体能力が高いんだね」
「だから、スプリントも登りもこなせるんですね。腕なんて夏ぐらいの自分より太かったですからね」
事故に遭う前は、冬希もウエイトトレーニングで上半身をかなり鍛えていた。そのころの冬希の腕より、はるかに黒川のでは太かった。
「夏までのようにスプリントで戦っていけるとは思えないのですが、なんで彼は」
「それは、戦いたくなるような何かを青山くんが持っているからじゃないかな。実は僕もよくわからないんだよね。黒川君は、随分と喧嘩っ早いようで、レース中でも何度か他チームの選手と喧嘩になっているみたいなんだ。そんな彼をどうやって止めたのかなってね」
「それは彼が」
「それだけじゃないんだ。君の中学時代の担任である安田先生との一件があった時、いい体格をした成人男性に掴み掛かられても、ビクともしなかった。ロードバイクで走っている時の体幹も、最初から郷田くんぐらいしっかりしていた。そんな君が、なぜ中学時代に柔道で中体連三年連続1回戦負けだったのかなって。まあ、これは興味本位なんだけどね」
少し興奮気味になりかけた神崎は、少し気持ちを落ち着けるように、ふうっと息を吐いた。
冬希は、言葉に詰まった。自分が柔道で強かった、思ったことは一度もなかった。それは事実だ。
「練習だと、それなりに戦えてはいたんですけどね。試合になると、体が動かなくなったんです。投げられたくない、という気持ちが強すぎて、体の動きが小さくなっていると先生には言われていました。結局、試合になると緊張してしまうということだと思います」
「ああ、いるね、そういう人」
「春奈・・・、浅輪さんも言っていました。信じられないほど技術が高い馬術選手で、競技会になると失権しまくる人がいたと。そういう話を知っていたら、もう少し違った気持ちで戦えたのかも知れないですけどね」
そうなっていれば、高校になっても自転車ではなく柔道を続けていたかも知れない。
「三年連続1回戦負けってことは、青山くんは一年から中体連の選手に選ばれていたってことだからね。強かったんじゃないか、とは思っていたんだ」
「強くはなかったようです。三年の時には、練習試合なら勝てるようになったのですが、中体連では結局一年生相手に一回戦負けだったので」
苦しい練習の思い出しかない3年間だった。柔道は自転車ロードレースと違い、1対1の戦いで、勝敗により力の優劣がはっきりと判明してしまう。記憶に深く刻まれているのは、逃げ場のない敗北感だった。
インターチェンジの出口が見えてきた。後部座席で伊佐が目を覚ました。
黒川は、地元の山口に戻るとすぐに、チームに辞める旨を伝えた。
監督は引き止めもせず、退団届を提出するようにとだけ、黒川に言った。
自転車ロードレーサーとしての黒川は、確かに能力は群を抜いていたが、極めて扱いにくい選手でもあった。そういう選手は、チーム全体の能力を破壊的に低下させていく傾向がある。黒川の起こすトラブルにより、監督も方々からの風当たりが強くなっていたのだろうと多田は思った。
多田は慰留された。だが、黒川と一緒に辞めた。
一瞬考えはした。だが、自分は黒川という男が思っていたより好きらしいと、この時初めて気づいた。
二人は、私立極光学院高等学校の自転車競技部に、本日付けで入部した。
黒川は、自転車競技者としても、一生徒としても、有名だった。部員たちは、二人を戦々恐々として見守っている。部室のテーブルも、まるで最古参の部員のように占拠している。
「青山は、中学時代は柔道部だったらしいぞ」
「俺の言った通りだったろ、多田」
黒川は、満足そうに言った。
多田は、人の悪い表情を浮かべながら続けた。
「だが、三年生の時の中体連では、一回戦で一年生に負けてるぜ」
「ふん、一年から試合に出てくるやつだ、相当な実力者だったんじゃないか」
黒川は、意に介した様子もない。多田としては面白くない。
「青山の相手はそれ以降、一年ながらにしてオール一本勝ちで全国で準決勝まで行っている。準決勝では、優勝した奴に判定負けだったからな。青山も判定負けだったから、実質」
「全国優勝クラスか?」
「それは流石に言い過ぎだが、くじ運が悪かったのは確かだな。違う相手なら、もうちょっといいところまで行っただろう」
「奴に腕を掴まれたときに感じた、あの感覚の理由がわかった」
黒川は席から立ち上がった。元からの部員たちがビクッとする。
「多田、青山に連絡しろ。来春まで待てん」
「無茶言うな、連絡先なんて知らないぜ」
「じゃあどうすればいいんだ」
「相手の学校宛に手紙でも書けばいいんじゃないか」
なるほど、と呟くと黒川は部室から出ていった。
すっかり寒くなり、暗くなるのも早くなってきた。
冬希は、相変わらず外で自転車に乗ることを許されず、ひたすら自宅でローラー台の自転車に乗り、ペダルを踏み続けた。
スマートトレーナーと呼ばれるローラー代は、トレーニング用のアプリケーションと組み合わせると、アプリ内の上り坂で重くなったり、下り坂で軽くなったりする。
一応、目的地に向かって走っているような気分は味わえる。だが、2時間や3時間を一定の負荷で走り続けるのは、流石に退屈をする。
その苦行に耐えていると、鍵のついていな自室のドアが、ガチャリと開いて姉が入ってきた。
「冬希、弁当箱出してないでしょ」
「あ、忘れてた」
冬希は、トレーニングを中断して学校のサブバッグから弁当箱を出した。
「ごちそうさまでした」
「はいはい、ん、なんか落ちたわよ」
バッグから弁当箱を出した拍子に、カバンの中に入っていた手紙がひらりと床に落ちた。姉が手紙を拾い上げた。
「極光学院高等学校って、宗教系の有名なところじゃない。大学にそこ出身の子がいるよ」
姉は、封筒に差し出し元の学校名が判で押されているのを見ている。
「いいとこの学校みたいよ。その子は大人しくって、虫も殺さないような、信心ぶかい子なのよ」
「そうなのね・・・」
冬希が知っている、そこの学校の生徒は、牛も殺すような、いかつい体格の男だ。
「なんの手紙だったの?」
差出人は黒川で、手紙の内容は、次に出場するレースを教えろと言うことだった。面倒なことにしかならなそうなので、無論冬希は教えるつもりなどなかった。
冬希はそっと、机の奥に手紙を仕舞った。
「返事出さなくていいの?」
「いいの。あれは、不幸の手紙だから」
「不幸の手紙?極光学院から・・・・・・??」
冬希は、心拍数が落ちないうちにローラー台の自転車にまたがると、またペダルを踏み始めた。
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