第309話 冬希の信頼

 理事長室の応接用のソファーで、神崎はできる限り丁寧に、冬希にトレーニングの意図を伝えた。

 高くない負荷での長時間のトレーニングにより、力まないペダリングや、無駄な脂肪を減らすこと、そして遅筋繊維と速筋繊維の違いなど。そして、それらの中で、今日の1500m走で冬希が、彼自身も驚くような成績を残せた理由と思われる点についても、神崎は、推測の範囲だけど、という前提の上で、説明を行った。

 神崎は思う。基本的に神崎高校の自転車競技部で走っていた選手達は、神崎が作ったトレーニングメニューについて、一切の異論を挟むことなく、とても律儀にこなしてくれてきた。

 目の前にいる冬希も同じで、今日、神崎を訪ねてきた理由も、どちらかというとトレーニングの成果に驚いて、一体自分の体で何が起こっているのか、という点を知りたがったためだ。

 本当に、生徒達に恵まれていると思う。

 冬希は16歳になるが、自分が16歳の頃は、どうだっただろうと思い出してみる。

 祖父が理事長を務める神崎高校の当時の自転車競技部の中で、特別にプライドが高く、周囲には、隙あらばかみついてやれ、というような人間だった。祖父が用意してくれた自転車競技部のコーチが、自分に提示してきたトレーニングメニューについても、色々と難癖をつけて、決して従おうとしなかった。

「先生、どうしたんですか?」

 冬希が心配そうに言った。

 昔の自分を思い出し、恥ずかしさから両手で顔を覆ってしまっていた。

「いやぁ、君たちは凄いなと思ってね」

 冬希は、首を傾げている。こういう自分の戯言についても、言葉の意味を真剣に考えようとしてくれている。本当に素直でいい子達だ、と神崎は思った。

「そういえばね、僕からも青山くんに聞きたいことがあったんだよ。聞きたいこと、というか確認かな」

 神崎は、先ほどの来賓達との会話を思い出していた。彼らが提案してきた、自転車競技部への寄付についてだ。

 神崎が祖父から理事長の座を譲り受け、学校の運営に携わって初めて知ったことだが、毎月入ってくる授業料というのは、教職員の給与で全て消えていく。

 学校というのは、校舎や机、椅子、その他諸々の設備を持っており、それらを維持管理しなければならないが、それは、生徒達が入学時に支払っている「施設拡充費」というお金で賄われているのだ。

 それと共に、OB達からの寄付金というのも、馬鹿にできない。

 神崎高校は、学力で言うと県内トップクラスであり、社会的に地位に就く卒業生も少なくない。

 彼らには彼らの事情があり、個人で大金を手に入れる人の中には、使い道として、母校への寄付という選択肢を採るという人もいる。特に今年は自転車競技部が全国で活躍することで、神崎高校という学校名を目にする機会が多かったのだろう。活躍を喜んでくれたOBから、自転車競技部を強くするために使ってほしいということで、寄付を申し出る人たちが複数人いた。

 ただ、これについては、神崎は素直に喜べない理由があった。

 自転車競技部は、ほとんど神崎個人が自分の過去を清算するために作った、酷く個人的なものだったからだ。

 極力、他者からの介入を排し、自分の思う通りの選手を集め、自分の思い通りのチームを作る。自分の人生の集大成と言っても過言ではない存在だった。

 寄付金をくれるというのであれば、それは自転車競技部の設備や、高性能なロードバイクを準備することができるようになるだろう。だが、寄付をしてくれた人々の意向を無視できなくなる。

 神崎は、体育祭が終わった後、冬希が自分を訪ねてきたのを良い事に、一旦保留にして逃げるようにその場を離れた。即答できなかったのだ。

 神崎が自転車競技部を作った目的は、今年遂に達成されることになった。

 目の前にいる、青山冬希の功績だった。

 全国高校自転車競技会では、展開の綾もあったが第1ステージでいきなりゴールスプリントで全国の強豪たちを相手に優勝し、夢にまで見た、神崎高校の名前の入った総合リーダージャージを獲得した。

 その後、冬希が囮になることで総合エースであるライバルたちを出し抜き、船津に総合リーダーを引き渡すと、チームに協力をして船津の総合優勝をアシストした。

 神崎に悪夢のように付き纏っていた、自身が高校生の時に犯してしまった失敗に対する後悔は、払拭された。

 それだけを考えると、もう自転車競技部を自分勝手に扱いたいという感情は、捨ててもいいのではないかと思い始めていた。

 むしろ、自分の長年の悪夢を消し去ってくれた冬希のために、できる限りのことをすべきなのではないかという気持ちさえ出てきていた。

「来年、青山くんには総合エースとして全国高校自転車競技会に出てもらいたいという話はさせてもらっていたね」

「はい、潤先輩自身も、それを希望しているということでしたので」

「彼は、自分の在り方は、アシストであると思い定めたみたいだからね」

 同じ総合系の選手として出場するにしても、アシストとエースでは必要とされる性質に大きく違いがある。平良潤は、国体に出場してエースである自分に見切りをつけたようだった。

「もうすぐ、推薦入試があってね」

「ああ、それぐらいの時期でしたね」

 冬希が懐かしむような目をした。彼自身、スポーツ推薦で入ってきた。

「今年は多めに採って、なるべく優秀な選手を集めて、青山くんのアシストを選ぼうと思っているんだよ。選考には、君の意見も聞きたいので、立ち会ってもらいたいと思ってるんだ」

 神崎は、まだ若者たちの中には、多くの可能性を秘めた子たちが多くいるのではないかと、冬希を見て思ったのだ。神崎自身、冬希に自転車選手としての能力をそこまで期待して合格させたつもりはなかった。ただ、他の理事が定めた学力の最低ラインを突破できたのが冬希しかいなかったというだけだったのだ。

 しかし、そんな冬希ですら、ここまでの選手に成長することとなった。育ててみなければわからないことが多いと、神崎は思い知った。

 冬希のような、原石を探すには、なるべく多くの生徒を合格させ、育ててみるしかない。そして見つけた選手を、冬希のアシストとしてつけることが、冬希への恩返しとなると思った。

 多くの部員を抱えるためには、それなりにお金もかかるし、OBたちの寄付に頼る部分も出てくる。

 だが、神崎はこれで良いと思ったし、そういう決断をした自分に、満足もしていた。

「うーん」

 ところが冬希は、考え込んでいる。

「どうしたんだい?」

「去年のように選考会を行うのであれば、当然お手伝いに行くつもりでした。でも」

「でも?」

「選考に自分の意見は必要ないと思います。神崎先生の思うがままに選ばれた人が、きっと最高の選手ですから」

 神崎は、はっとなった。

 そして、目頭が熱くなるのを感じた。

 神崎は、ソファーから立ち上がり、冬希に背を向け、理事長の机の後ろに回った。

 そして窓の方を見ながら

「そっか・・・」

 とだけ呟いた。


 二週間後、神崎高校のスポーツ推薦入試が行われ、その数日後に合格者が決まった。

 国体を東京代表として戦った伊佐雄二と、同じく千葉代表として冬希の代わりに出場した竹内健。

 70名を超える受験生の中、神崎が自分の目を信じて選んだのは、結局この2名だけだった。

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