第297話 国体本戦3日目 天野と牧山
「一緒に行きませんか」
天野の申し出は、牧山には信じられないことだった。
途中まで長崎の選手と一緒に走っていたためか、少なくとも牧山には、単独で走り続けられないほど天野が苦しんでいるようには見えなかった。
一方で、100km以上逃げ続けてきた牧山は、脚も呼吸も限界に近い。
そんな牧山と天野とでは、ペースが違い過ぎるのだ。
後続との差を、1秒でも広げたい天野が、既に力を使い果たしつつある牧山を、連れて行く理由がない。
「見ての通り、俺はヘロヘロだぞ」
「構いません」
「何故なのか、理由聞いてもいいか」
天野は、少し考え込んだ様子にも見えた。
牧山にとって、悪い話ではない。もしかしたら、天野は理由を聞かれるとは思っていなかったのかもしれない。
「・・・少しでも、脚を温存しておくためです。この先全部を一人で行くより、残り距離の10%程度でも交代してくれる人がいた方が、後続に対して有利になると思っての事です」
周回コースに入って、1周目の登りを終えたあとの10kmの平坦区間の半ば、レースも残り25kmといったところに二人はいる。
この後は、5kmほど平坦を走った後、2周目の5kmの上りと5kmの下り、そして10kmの平坦区間が残っている。
「俺を見くびるな。10%だと?」
牧山の両目に光が戻った。
「半分は牽いて見せる」
それが返事だった。
天野は頷くと、牧山の前に出た。
「今すぐには無理でしょう。しばらくは後ろで脚を休めていてください」
牧山は天野の後ろにピッタリとつけた。
進行方向への空気抵抗が減り、格段にペダルが軽くなった。
「俺はお前と同じ1年だ。敬語を使う必要はないぜ」
「先輩にも同級生にも、同じ言葉遣いなので、気にしないでください」
牧山は、それ以上そのことについて何も言わず、ボトルの水を飲んだ。
気持ちが少し落ち着き、頭がはっきりして来るのを感じだ。
平良潤、植原博昭、有馬豪志、千秋秀正の4人は一塊で走っていた。
先ほどまでモトバイクが表示するホワイトボードに、彼らは第3グループと表示されていた。
しかし、現在では第2グループと表示されている。
これは、前にいた二人のどちらかがリタイアしたか、二人が合流して1つのグループを形成したということを意味していた。
先頭がグループという表記になったことで、先頭は単独ではない。つまり二人は合流したということだ。
何故二人が一緒に走っているのか。
勢いがある天野に抜かれる際に、ペースが落ちた牧山がなんとか食らいついたというのが、一番可能性としては高い。
ペースが遅い牧山に、天野が付き合う理由がないのだ。
この4人のグループは、先頭の牧山とは順調にタイム差を縮めていたが、天野相手には、タイム差はほぼ変わらない状態だった。
しかし今、天野と牧山の先頭グループは、遅い牧山にペースを合わせたかのように、潤たちのグループとのタイム差が詰まり始めていた。
現在、先頭を牽引しているのは潤だった。
潤は、自分が率先して集団を牽引することにより、植原と有馬も先頭交代に協力する契機になればと思っていた。
しかし、潤が先頭交代を要求しても、有馬と植原はお互いにチラチラと顔を伺うばかりで、前に出ようとはしない。千秋に至っては、最後方から動くそぶりすら見せない。
潤は、苦々しい気持ちで一杯だった。
TVで観戦している人たちから見れば、なぜ4人で協力して前を追わないのか、と腹立たしく思っていることだろう。
だが、潤は追うだけの脚が既に無く、千秋は他の3人に協力してやる理由がない。
有馬と植原は、天野を追いかけなければならないという気持ちはあるが、先頭との差が縮まり始めると、まだ前に追いついてすらいないというのに、追いついた後のことを考えて、お互い相手に少しでも余計に脚を使わせようと考えてしまっている。
4人が4人とも、それぞれ重責を背負っており、失うものの大きさを考えた時に、前を追うという行為に対して体が動かなくなっているのだ。
その気持ちは、当事者である潤も同じだった。
潤は、諦めきった表情で、力なくペダルを踏んだ。
再び3人を引き連れて先頭を牽き始めた。
真面目な男だ、と牧山は思った。
天野の後ろで脚を回復させた牧山は、天野に替わって先頭を牽き始めた。
一定以上の時間で先頭交代をしたが、替わった後の天野は、牧山が走ったのより長い時間を必ず走ってから交代した。
レース中にそこまで厳密にお互いの走った時間をチェックする選手はいないし、誰かがサボって短い時間しか牽かなかったとしても、余程の事が無い限り、めくじらを立てて文句を言う選手もいない。
ただ、天野は律儀に自分のノルマをこなし続けた。
すでに二人も後ろのグループも登りに入っており、牧山にとっては、ギリギリまで頑張ったペースを刻み続けてはいるが、実際のところペースはそこまで速くはない。
だが、不思議と後ろの集団とのタイム差は、縮まっては来なかった。
登りは、どうしても足の筋肉を使ってペダルを回さなければならず、牧山は、いずれ自分に限界が来るであろうことはわかっていた。
そして、後ろの集団も、例えお互いに牽制し合っていたとしても、下に入ると我先にと先頭に立って、一気に追いついてくるである事が予想された。
下りの場合は、誰かが前で落車した場合に、巻き込まれるリスクが少ない先頭で下っていきたいと考えるはずだ。
その時、この天野は自分を置いて一人でゴールを目指して行くだろう。
「なあ、天野」
振り返った牧山に、天野は顔を上げた。
「お前のような真面目な男が、よく弟の方の坂東さんのような、搦手が得意な選手に従っているな。何故だ」
「言っている意味がよくわかりませんが」
「お前は、どちらかというと正々堂々と戦って勝つことにやり甲斐を覚えるような人間に思えたんだ」
「貴方が自分や裕理さんのことをどれほど知っているかわかりませんが、想像もつかない作戦を思いつき、堂々と自信を持って実行する点については、裕理さんは自分などでは計り知れないほど大きな人物です」
「あの人のようになりたいってことか」
天野は、
「自分で決めた枠から出る事ができない自分には、逆立ちしても裕理さんのようにな真似はできませんよ」
天野のように、真面目であることに劣等感を持っている人間は、裕理のようによく言えば奔放、悪く言えば自己中心的な人間に、どこか憧れている部分があるのかも知れない。
牧山は、天野のことが少し好きになり始めていた。
ただ、真面目なだけの男であれば、牧山は天野に興味を持つことはなかっただろう。
裕理のような先輩にコンプレックスを抱く天野の、妙に人間らしい一面が、牧山は気になっていた。
「後続を寄せ付けずに逃げ切るぞ。しっかりついてこい」
どうせ負けるにしても、天野のような人間を勝たせて、ということなら悪くない。
牧山は、力強くペダルを踏んだ。
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