第285話 自転車のない生活

 手術を終えて退院した冬希は、驚いていた。

 肩の骨折箇所の痛みは、全く無くなっていた。

 手術の痕の塗っていた箇所も、若さ故の回復力の賜物か、縫ってくれた人の技術力の高さか、すぐに傷は塞がり、縫っていた糸も、体に吸収されていった。

 手術は、冬希を診察してくれた若いサーファー風の医師が担当してくれた。

「いやぁ、折れてたところが結構根元の箇所だったので、固定するのに苦労しましたよ〜。でも、綺麗に折れてたので、手術してよかったと思いますよ」

 医師が見せてくれたレントゲン写真を見た冬希は、固定するための金属のプレートと、釘なのかネジなのかわからない無数の何かが骨に刺さっているということだけ理解した。

 レントゲンを見ると、何かゲジゲジなのかそういう何かに見えた。

 そして、傷口が塞がった後、右肩だけ何か盛り上がったように見えていることに気がついた。

 最初は、その見た目に違和感を感じていたが、肩を動かしても全く痛みがないので、次第にそれにも慣れていった。

 手術をしたことで、骨折の痛みが全くなくなり、骨折前の同じ日常生活が送れるようになると、もう自転車に乗れるのではないかと、神崎高校自転車競技部の顧問兼理事長の神崎の元へ行き、練習を再開していいか確認をした。

「まだダメだよ。その状態で転んだら、大変なことになるよ」

 言われた冬希はゾッとした。

 神崎の話では、金属のプレートが曲がってしまう、という話だが、もっと恐ろしいことになるかもしれないということも、容易に想像できた。

 ただ、部室に顔を出すことと、自宅で固定ローラーで乗るなら、軽くペダルを回すぐらい良いということで、神崎が提示した練習量のパワーと時間の範囲内で、自宅で軽くローラーを回すことを始めた。

「実際に自転車に乗るのは、抜釘の後からね」

 神崎は冬希にそう言った。金属プレートを外すのには、また手術が必要となる。それは、3ヶ月以降と言われているが、念のために4ヶ月見て、ということで1月の下旬の予定となっている。

 それまで、ずっと固定ローラーで練習することになるのだ。

 転倒するリスクはないが、抜釘した後に、ちゃんと自転車に乗れるか心配になっていた。


「自転車ロードレースって、補助輪つけて走っちゃダメなの?」

 真理と通学するのも、冬希にとって日常となっていた。

 中学の頃は、住んでいる場所によって通う学校が決まっていたため、真理とは家が近所だ、などと思ったことはなかったが、神崎高校に通うにあたっては、最寄駅が一緒だということは近所だということだ、と思うようになっていた。

 待ち合わせしよう、などと決めたりはしていなかったが、学校に行くまでに乗り継ぎが便利な電車の時間は限られており、二人とも少し早く学校に着く、同じ電車に乗るようになっていた。

「どうだろう、明確に規定はなかった気がするけど、流石につけて走らないといけないような人は、レースに出れない気がするなぁ」

「せっかくだから、補助輪つけて出てみたら?」

「何がせっかくなのか、全くわからないんだけど!」

 一方で、放課後は部室に顔を出せるようになったので、時間を潰す場所については困らなくなった。

 冬希は部室の中で課題をやりつつ、外の練習から帰ってきた平良潤と柊の双子の雑用をこなしていた。

 二人が持ち帰った補給食のゴミなどを片付けていると、ヨガマットの上でストレッチをしていた柊が眠そうにうとうとしている。

 自転車のチェーンを掃除している潤に、冬希は耳打ちした。

「なんか、子猿のように寝てますね」

 潤が苦笑する。

 柊が飛び起きた。

「おい、聞こえているぞ」

「あ、起きていたんですか」

「もっとこう、先輩に対する敬意のある表現をしろよ」

「えっと、子猿じゃないなら、親猿ですか」

「大きければいいってもんじゃないだろ、猿から離れろ」

 ふむ、と冬希はしばらく考え込んだ。

「・・・まるで、人間のように寝ている」

「いや、最早それは逆に人間に対して言う言葉じゃないだろ!」

 なるほど、そうかもしれない、と冬希は思った。

 

 部活が終わる時間になると、冬希は真理と待ち合わせして、一緒に帰途についた。

 文化部は、部活動の終了時間が厳格に定められており、昇降口で待っていれば、文化部の部員たちは決まった時間に降りてくる。

 冬希以外にも、友人や彼女を待っている生徒たちが、出待ちのような形で大勢いるので、冬希もその中に紛れて、真理を待っている。いつしか、偶然を装うのもやめた。

 真理も、冬希の姿を見つけると

「お待たせ。帰ろうか」

 と、声をかけてくるようになっていた。

「肩の調子はどう?」

「全く痛みがないんだよね。固定したおかげだと思うんだけど骨折前と同じような生活が送れてるよ。折れた骨自体が痛いんじゃなくって、その部分がずれるのが以下かったのかも。ただ、抜釘までは自転車に乗ってはいけないと言われているんだ」

「そういえば、自転車はどうなったの?」

「今、家にあるよ」

 自転車の方は、ほとんど破損もなく、ペダルやディレイラーの表面に傷が入った程度だった。リアの変速機であるディレイラーと自転車のフレームを繋ぐ、ディレイラーハンガーは曲がってしまっていたので、交換が必要だった。

 冬希が着ていたジャージを含め、傷が入った部品は全て交換ということになったが、必要以上に事故の相手にお金を使わせることを、冬希自身は好まなかった。

 自転車は、寺崎輪業の店主が家まで運んでくれた。今は、自室で固定ローラーに繋げられている。

「ネットでニュースになっていたのには、驚いたよ。すっかり有名人なんだね。中学の頃の同級生からも、なんか連絡きた?」

「あ・・・いや・・・」

 冬希は、目を細めて虚空を見ながら、絞り出すようにつぶやいた。冬希には中学の頃、友達がいなかった。

「なんかごめんなさい」

「それは謝ってないよね!?」

 真理は、カラカラと笑いながら

「でも、私がいるから良いじゃない」

 といった。

 冬希の胸に、グッと込み上げてくるものがあった。

「中学の2年生の時、覚えてるよ。其畑くんが川上さんの悪口を言ってた時のこと」

 クラスの中で喧嘩が強く、影響力もあった其畑という男子がいた。クラスの中心的な位置にいる彼は、川上という大人しい女子の外見を揶揄するようなことを、クラスの全員に聞こえるように大声で言っていた。

 其畑に、悪気はなかったのかも知れない。周りのクラスメイトを笑わせたかっただけだったのだろう。ただ、川上が傷ついていたのは、その表情を見れば明らかだった。

 周りの生徒たちは、其畑に追従するような笑いを顔に浮かべていたが、当時クラスの副委員を引き受けていた冬希は、それを注意した。

 姉から、女の子には優しくしろ、他人のことを悪く言うな、と普段から厳しく言われてきた冬希には、その状況が我慢できなかったのだ。

 悪いことをしたという自覚がない其畑と冬希は、その場で睨み合いになった。

 其畑は、相手を萎縮させるほどの迫力で冬希を睨み付けたが、冬希は泰然として真っ向から其畑に相対した。

 喧嘩には自信があった其畑も、当時は柔道部で身長でも勝る冬希にはそれ以上何も言わず、次の授業の担当教師が教室に入ってきたこともあって、その場はうやむやになった。

 ただ、冬希は明らかにクラス内で孤立し、冬希もそういった状況を改善しようとする努力をしなかったため、卒業まで浮いた存在となっていた。

「あの時、転校してきて間もなかった私は、本当に感心していたんだよ」

「そうだったんだ」

 真理は転校してきたばかりで、学内の人間関係に影響されることもなかった。

 真理と真理の友達二人は、冬希とよく話すようになった。班決めの時、真理たちは孤立していた冬希を同じ班に誘ったのだ。冬希が真理を見て一目惚れしたのは、その時だったかも知れない。

 3年になっても、真理は別のクラスになったにも関わらず、よく冬希と話していた。

 己の信念を貫いたとはいえ、友人関係の輪から孤立しているという状況は、それなりに精神的にくるものがあった。無論後悔などはなかったが。

 他の誰でもない、真理が話しかけてくれることは、冬希にとって本当に救いだった。

 それがなければ、冬希やもっと暗い人間になっていたかも知れない。

「そうだね。荒木さんがいれば、俺はそれでいいや」

 冬希は、ボソッと呟いた。

 真理が、口元を押さえて俯いてしまった。

 なんでだ、自分から言ったことじゃないか、どうしてそういう反応になるんだ、と冬希は思った。

 しかし、それ以上は何もいえず、冬希も口元を押さえてソッポを向いていた。

 ドキドキして、真理の反応を見ていられなかったのだ。


 自宅の最寄りの駅で二人は電車を降りた。気持ちも少し落ち着いた。

「明後日から、国体に行く潤先輩たちに帯同して高知に行くことなってるんだ」

「そうなんだ」

 自身は出場できないが、その戦いは見届けておきたいと冬希は思っていた。

 3年生たちはほとんど引退したとはいえ、1、2年の強力なスプリンター、クライマー、オールラウンダーたちはほとんど全員出場する。

「自分が出ないと、気楽だなぁ」

「冬希君、心の声が漏れているよ」

 真理は、嬉しそうに言う冬希を見て、笑っている。

 冬希は、真理と一緒に通学する日々も楽しい、と思っていた。

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