第284話 手術
冬希は入院した。
手術の前日だ。
腕を動したときに肩が痛い、以外には健康そのものであるので、準備や手続き、売店でのふんどしの購入など、全て自分で行なった。
ふんどしを購入するときに受け取ったレシートは財布の中に保管してある。
冬希が欠場する情報は、最初に報道部活連が運営するサイトにスポーツの記事として掲載された。
冬希は、部活の先輩でもあり国体自転車ロードの千葉県のエースでもある平良潤に
「佐賀は、総合狙いみたいですね」
と伝えた。
佐賀の坂東裕理に怪我のことを伝える時、佐賀が平坦ステージ狙いなら、その情報を可能な限り隠そうとするだろう、そして総合狙いなら積極的に情報を広めようとするだろう、と考えていた。
結果は後者となった。報道部活連を利用するところまでは、冬希は想像していなかった。その発想は、流石は坂東裕理、といったところだろう。
ただ、この時には冬希も潤も、5人で出場する東京チームよりも2名だけの佐賀が脅威になるとは、どうしても思えなかった。冬希自身、潤に佐賀が総合狙いであると伝えながらも、その情報にどれほどの価値があるか、よくわかっていなかった。伝えた時点で、そのことは忘却の彼方へ消え去ってしまっていた。
金曜日の朝に入院し、手術は土曜日の午前中になる。どうやらこの病院では、手術の曜日、時間帯が決まっているようだった。
定期的に看護師さんが検温や調子を観に来る。それ以外は特にやることもないので、借り物の詰将棋の本を読んで時間を潰した。病院食も、噂で聞くほど味気ないものではなく、冬希は十分に美味しいと感じていた。
夜から絶食となった。
不思議と、冬希は空腹は感じなかった。
朝起きると、そこからは絶飲食となり、水も飲めなかった。
手術の時間の前に、冬希の母が来た。
気を遣ってくれているのか、当たり障りのない会話しかしなかった。
病院に来るまでに迷ったとか、どの病室に行けばいいのかわからなかったとか、そんな話だけだった。
手術の時間になり、冬希は歩いて手術室まで行った。
ストレッチャーなどに乗せられて、頑張ってね、などという光景を想像していたが、自分で歩けるのだから当然か、と思った。
手術台に横になるように言われ、言われるがままに横になる。
全身麻酔をするということで、点滴を腕に刺される。
点滴が始まれば、10秒以内に眠ると言われて、冬希は兼ねてからやってみようと思っていたことを実行に移すことにする。
麻酔で眠らないように、抵抗してみよう、ということだった。
点滴が始まる。
冬希は、目をいっぱいに広げ、眠るものかと、思った。
そして、難病ぐらい抵抗できるか、カウントしてみることにした。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10・・・
10秒以内と言われていた時間は耐え切った。
11、12、13、14、15・・・
全然眠くならない。
16、17、18、19、20・・・
まだ大丈夫だ。
ここで冬希は不安になった。
もしかして、このまま麻酔が効かないのではないか。
そうなった場合、意識がある状態で手術を受けることになるのではないか。
流石にそれは怖い。
全然眠さはない。
頼む、麻酔効いてくれ、と思いながら、自分から目を閉じた。
少しずつ目が開いてきた。
視界はぼやけているが、そこは手術前に入っていた3人部屋の病室の真ん中のベッドだった。
何も考えられない。
視界の端、ベッドの左側、とても素晴らしいものが見えた気がした。
中学の頃から冬希がずっと好きだった女の子、荒木真理だ。
冬希は、左手を差し出していた。
真理は、戸惑いながらも冬希の手を握ってくれた。
ベッドに仰向けになったままの冬希は、手を自分の顔に引き寄せて頬擦りし、
「荒木さん、好・・・」
と言おうとした瞬間、スパンと頭を何かで殴られた。
「そういうことはちゃんとした状況で言いなさいよ」
看護師さんらしき女性の悲鳴が聞こえた。
冬希は、再び無意識の中に沈んでいった。
目が覚めると、ベッドの右側で冬希の姉が何やら雑誌を読んでいるのが見えた。
「あれ、ねーちゃん」
姉が、黙って冬希の方を見た。
「お母さんは?」
「もう帰ったよ。あんたの手術中に、退屈で辛すぎるから助けてって連絡が来て。途中から私がいてあげたのよ」
時計を見ると、手術の時間から5〜6時間経っている。
腕には、点滴用の針が刺さっている。何の点滴かはわからないが、麻酔ではないのだろう。
手術前に目を閉じた瞬間ぐらいに、どうやら意識は失っていたようだ。眠るとかではなく、本当に意識を失っていたのだろう。
母については、恐らくどれぐらい時間がかかるか、ということがわかってない状況できたのだろう。
時間潰しの準備もなかったのだろうと思った。そういえば、どれぐらい時間がかかるか、母に伝えていなかったし、来てくれるようにお願いした冬希自身も、手術にどれぐらい時間がかかるか知らなかった気がする。
「そうか、申し訳なかったなぁ。ねーちゃんもありがとう」
「そういえば、あんたの同級生っていう子が来てたよ」
「そうなの?」
「女の子。あんたの好きそうな真面目そうな可愛い子」
そういえば、なんとなく荒木真理と会えたような、ぼんやりとした記憶がなくもない。
「あれは本物の荒木さんだったんだ」
「ビックリしたわよ。あんたいきなり告白しようとしてたんだから」
「・・・本当に?」
朧げに、何かを口にしようとしていた記憶もある。
「あんたねぇ、告白するときは、もっとちゃんとした状況でやりなさいよ。寝ぼけてたとか、ぼーっとして思わず口にしちゃったとか、後で言い訳したり逃げたりできる状況でするんじゃないわよ」
「はい・・・」
「私が止めたからよかったけど」
姉は、雑誌を丸めて右手にもつと、ぽんぽんと左手を叩いてみせた。
もしかしたら、これで頭を叩かれたのかもしれない、と冬希は思った。
「お陰で看護師さんに怒られたわ。手術した後に頭を殴られるまでの最短時間の世界新記録だって」
あの悲鳴は、冬希が頭を殴られるのを見た看護師さんの、マジの悲鳴だったのだろう。
冬希は、姉と話しながら、だんだん周りの状況がわかるようになってきた。
パンツは手術前と同じもので、右肩には、手術の跡を覆うように何かが貼ってある。
肩に痛みは何も感じない。
「人工呼吸器を口の中に入れるときに、口の中を傷つけちゃったんだって。そこだけ謝られたわ」
姉の言葉に、口の中に違和感がないか探ってみるが、痛みもなく、どこかわからないレベルだった。
そのうちに、看護師さんがやってきた。
「お身体の具合はどうですか?」
「特に問題なさそうです」
看護師さんは冬希の点滴を外して、痛み止めの薬を置いて行ってくれた。
「じゃあ、私もそろそろ行くから」
「色々とありがとう」
姉が病室から出て行き、冬希はぼんやりと天井を見ながら、もう一眠りすることにした。
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