第236話 優子の違和感

 冬希は、優子の部屋の前まで、優子の母に案内された。

 優子の母は、リビングに戻って行く際、ありがとうございます、と冬希に言った。

 それが、優子と話をしたいと言ったことについてなのか、優子を叱りつけようとした父親を止めたことについてなのかは、冬希にもわからなかった。

 冬希は、大きく深呼吸をしてドアをノックした。

「誰」

「青山です」

「どうぞ。鍵はないから」

 冬希が扉を開けると、意外にも小ざっぱりした部屋が広がっていた。

 ベランダに出られる広い窓からは、外の光が目一杯差し込んでいる。

「カーテンの閉め切った真っ暗な部屋で、ゴミ屋敷のように踏み場のない部屋を想像してたでしょ」

 机に向かって、何かを描きながら、冬希の方を振り向きもせずに言った。

 優子の言葉は、当たらずとも遠からず、といったところだ。

 その言葉には答えずに、冬希は窓際まで歩いて行った。

「すごい景色だね」

「何の用?」

「俺が、蛾の生態調査なんてやってないことが、君のお父さんにバレた」

「なんで」

「君のお姉さんの友人たちが、面識のある人たちだったんだよ」

 冬希は、微妙に自分のことを誤魔化して言った。嘘ではないはずだ。

 優子は、小さくため息をついた。

「仕方ないわよ。貴方の所為じゃない。それで何、お父さんに言われて私を連れに来たの?」

「いや、ちょっと君と話をさせてもらいたいと言ってね」

「何か話すことがあるの?」

「君の分の寿司を食べてしまった」

 初めて、優子は冬希の方を振り返った。

「そんなことのために。別にいいわよ。私はお寿司食べられないし」

「そうなのか」

「酢飯が食べられないの」

 生魚が苦手とかじゃないのか。冬希は思った。

「だから、私はこれを食べてるの」

 机の上に、透明なビニールに入ったバターロールがあり、優子はそれを袋から取り出し、むしゃむしゃと食べ始めた。スーパーやコンビニで売っているようなものではなく、おそらくはパン屋で購入されたものなのだろう。

 冬希は、優子が座っている椅子の後ろまで来た。

 優子は、光る板のようなものの上に紙を重ねて、めくっては描いて戻し、めくっては描いて戻しという作業を繰り返していた。

「なに」

 後ろから覗き込む冬希の視線に気づいた優子が無愛想に言う。

「いや、なんか病院でお医者さんがレントゲンを見せるときに使う奴みたいだと思って」

「これはトレース台」

「このポッチが3つある文鎮みたいなのは?」

「アニメーションタップ。紙がずれないように固定するの」

「本当だ、紙に穴が開いている」

「それが原画用紙」

 少しだけ、優子の態度が和らいだ気がした。アニメーションについての話をするのは楽しいのかもしれない。

「今までにも描いたものってあるの」

「これ」

 優子は、引き出しから紙の束を取り出し、トレース台に乗せてパラパラとめくって見せた。

 3人、一人は子供で、二人は大人と思われる人たちが、買い物籠のついた自転車を漕いでいる。

 冬希の目には、ちゃんと3人が自転車を漕いで、走っているように見えた。

「すごい」

「これぐらいなら、誰でも描ける」

 冬希はそうは思わなかった。先ほど優子にも言ったことだが、普通の高校生がアニメーションなどというものを書くことが可能なのか、ということだ。

 高い専門知識と技術力が必要なことではないかと思うのだ。

「でも、これも何か違うの。何かがおかしいっていうことはわかるのだけれど、その違和感の正体がなんなのかわからない」

「おかしいかな」

 なにがおかしいか、冬希にはわからなかった。

 しかし冬希は、以前自分の父親がやはりよくわからないことを言っていたのを思い出した。


 冬希の父が、リビングでアニメを見ている。

 父に右側で、冬希は父が見ているアニメをぼんやり眺めていた。

 父の左側で、姉がバイト雑誌を流し読みしている。

「なんだこれは!」

 冬希の父が、突然立ち上がった。

「なんかあった?」

 冬希が父を見上げて言った。

「見たか冬希。この女の子のもみあげを。何か感じないか!?」

「長い」

「そうだ」

「そういうキャラなんじゃないの」

「そこはそれでいいんだ。では、この女の子の後ろ髪はどうなっている」

「風に靡いてるね」

「そうだ。後ろ髪が風に靡いているのに、もみあげは風に靡いていない!前から風が吹いていれば、首や背中に隠れている後ろ髪より、もみあげの方が強く風に靡くはずだ。だが、先ほどのシーンはそうはなっていなかった!」

 嘆かわしい、と父は肩を落として座った。

「ネットで噂の作画崩壊ってやつ?」

 バイト情報誌を読みながら、姉が言った。

「違う。作画崩壊ではなく、アニメーションとして終わっているんだ」

「そんなことが気になるの?」

 冬希は、ストーリーが面白ければそれでいいのではないかと思った。

「気になる。気になりすぎて、今回のストーリーが頭に入っってこない!」

「知らんがな」

 冬希と姉は、異口同音に言った。


 優子が、もしそういうレベルのことを気にしているとすれば、冬希にもわかることがある。

「この3人。ペダルを回す速さも、前に進むスピードも同じになってる」

「え」

 優子が驚いて冬希の方を見る。

「先頭に小さな子が走っているけど、自転車も小さくて、車輪も小さい。二人の大人も、後ろの人の自転車の方が少しだけ小さい。多分女性なんだろうと思う。でも、全く同じ速さで漕いで、全く同じスピードで進んでいる。現実じゃあり得ないんじゃないかな」

 なにを言っているんだ俺は、と冬希は思ったが、きっと自分の父がこれを見たら、きっと言うだろうと思った。

「そ、そうかもしれない」

 優子は、何度もパラパラと紙を捲って動かしながら、見直す。確かに、指摘されてみれば不自然に見える。一度指摘されると、もう優子にはその事が気になって仕方がない。

「どうすればいい!?」

 優子は椅子から立ち上がると、冬希に掴みかかるような勢いで、詰め寄った。

「普通に考えると、小さい自転車の方が車輪が小さいので、1回のタイヤの回転で進む距離は短くなるはずだから、自転車が小さいほど、ペダルの回る回数を多くしてみればいいんじゃないかな」

「やってみる」

 優子は、原画用紙をトレース台におき、タップで固定してカリカリと消しゴムと鉛筆で修正し始めた。

 あまりの真剣さに、もう話しかけることはできないだろうと思った冬希は、優子の部屋を出て行った。


「上手くいかない。イメージが湧かない」

 自転車を漕ぐ3人のペダルを回すタイミングをずらすと言うのは、思いのほか難しかった。早く回っている子供の足の動きが機械的に見えた。

 イメージが湧かないのであれば、動画で実際の足の動きを見ればいいじゃないか。

 思い立った優子は、スマートフォンで動画アプリを起動すると、検索条件に「自転車」と入力した。

 幾つかの検索条件候補が出てくる。

「自転車の乗り方」「自転車 事故」「自転車 オリンピック」などの候補の下に、「自転車 高校 露崎 青山」「自転車 高校 青山冬希」などの検索条件候補が現れた。

「なにこれ・・・」

 なんで彼の名前が出てくるのか、優子には理解できなかった。

 優子は、候補に出てきた「自転車 高校 青山冬希」という条件で検索を行った。

 一覧表示された検索結果は、驚くべきものだった。


『全国高校自転車競技会 第1ステージ (優勝者:青山冬希)』

『全国高校自転車競技会 第2ステージ (優勝者:青山冬希)』

『全国高校自転車競技会 第3ステージ (優勝者:青山冬希)』

『全国高校自転車競技会 第8ステージ (優勝者:青山冬希)』

『インターハイ 自転車ロードレース 第2ステージ(優勝者:青山冬希)』

『インターハイ 自転車ロードレース 第6ステージ(優勝者:青山冬希)』


 動画の中には、冬希がサムネイルになっているものもあった。

 先ほど、公園でぼんやり池を眺めていた高校生、という雰囲気は微塵もなく、全身に力が漲っているような、堂々たる威容を誇った写真だ。

「どういうこと」

 優子は、スマートフォンを床に取り落とした。

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