第233話 父と娘
「兄貴、露崎さん、電車の時刻がやべえ」
坂東裕理は、慌てた様子でコンビニから出てきた。
レースがあったサーキットから最も近い駅は、比較的長閑な環境にあり、電車の本数も1時間に1本もない。ギリギリ乗り過ごすようなことがあれば、1時間ほど駅で待ちぼうけとなる。
まだ、電車の発車時刻までは20分ほどあるが、移動時間と自転車を輪行袋に入れる時間を考慮すれば、それほど余裕があるわけではない。
「まあ、間に合わなければ次の電車を待てばいいさ」
フランスでは電車の遅延が多いため、露崎は待たされることに慣れている。
無理に電車に間に合うように走るには、それなりにスピードを出さねばならず、公道でそれをやれば、事故などの危険性も大幅に上がる。電車に乗り遅れところで、別に命まで取られるわけではない。無理をする必要はないと、坂東は考えていた。
「普通に行って間に合うに越したことはないか」
坂東は、自転車にまたがった。
露崎もリュックを背負い直し、自転車にまたがる。
コンビニの前で、冬希と裕理が同じく自転車にまたがる。
「忙しくなりやがるぜ。マリトッツォを食う暇もねぇ」
「マリトッツォって、そこまでして食べないといけないものなんですか」
どうでも良い話をしながらこちらに向かってくる二人を見て、露崎は
「あの二人、仲が良いな」
と言った。
「ああ」
坂東もそう思うが、冬希とはここでお別れになる。
「青山、ご苦労だった」
坂東は、慰労の言葉をかける。
「何もやってないですけど」
冬希は苦笑する。
「いやいや、インターハイの時のスプリントステージでは、俺の1勝2敗だったけど、今日も含めるとこれで2勝2敗だ。気持ちよくフランスに戻れるぜ」
露崎は上機嫌だ。意外と根に持つタイプなのかもしれない。
「兄貴、露崎さん、もう行かんと。冬希、またな」
「はい、みなさん、お疲れ様でした」
冬希は、深々と頭を下げた。
3人は、冬希に軽く手を挙げて挨拶をして走り去っていく。
裕理とは、国体で会えるかもしれない。だが、坂東や露崎とは、会える日が来るかどうかもわからない。
急に一人になった冬希は、少し日が傾いてきた中、少し寂しい気持ちで帰路に着いた。
菊田は、自宅の駐車場に車を停めると、後部座席を倒してフルフラットにした自家用車のバックドアから、前輪を外したロードバイクを下ろした。
車内に立てかけてあった前輪を取り付けていると、ちょうど娘の菜々が帰宅した。
「おかえり、お父さん」
「ただいま」
「今日のレースどうだった?」
菊田は、年に4、5回はレースに出ている。その度に、菜々はもう挨拶がわりのように言うようになった。
「お父さん、5位入賞だったんだ」
菊田は、カバンから賞状を取り出して菜々に見せた。
「ええ、すごい!」
菜々は驚いた。菊田はレース好きではあったが、結果を残すことはほとんどなく、出ること自体を楽しむタイプだった。
菜々が生まれるまで、菊田は毎日トレーニングを欠かさないほど自転車を楽しんでいた。
しかし、菜々が生まれると、大好きだった自転車をぴたりと辞め、平日も朝は保育園へ送って行き、帰ってきてからは寝かしつけを行い、休日は公園への散歩や、レジャー施設へ行くなどして、菜々の遊び相手を積極的に買って出ていた。
菜々が小学校に上がり、休日も比較的学校の友達と遊び始めると、菊田は再びトレーニングを開始して、休日もレースに出るようになった。
妻も、献身的に娘に尽くしてきた夫に対して感謝しており、再び自転車に乗ることに対して、特に何も言わなかった。
自転車のトレーニングを行う菊田の体は、みるみる絞れていき、菜々の同級生の運動不足のお父さん達と比べると、格段にカッコよく見え、そのことは菜々の自慢でもあった。
「菜々の好きな、青山冬希も出ていたよ」
「ホントに!?」
菊田は、スマートフォンでレース結果を見せた。
5位の菊田の2つ上の3位に、冬希の名前があった。
「すごい。ねぇねぇ、青山選手どうだった??」
菜々が高校自転車ロードレースを見るようになったのは、父親の影響だった。クラスメイトの男子にも高校自転車ロードレースのファンが何人かいる。
「真面目で、良い若者だった。お父さんに対しても、とても礼儀正しかったよ」
菊田は、冬希と二人で撮ったツーショット写真をスマートフォンで見せた。
「ええ、良いなぁ!!」
菜々は、目をキラキラさせながら、菊田を見上げた。
「ねぇ、次にレース出る時、私も一緒に行っていい?」
「次のレースにも、青山くんが出るとは限らないよ」
「いいの。お父さんが走るところが見たいの」
菊田は、相好を崩し、心の中で冬希に感謝した。
数日後、主催者のサイトに掲出された写真の販売ページの中に、菊田が冬希を牽引している写真が掲載された。
菜々は、菊田にプリントアウトしてほしいとおねだりし、購入してプリントアウトした写真をランドセルに入れた。登校日に学校に持っていくつもりだ。
菜々が、クラスメイトに自慢できる事が、また一つ増えた。
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