第232話 袖ヶ浦サマーサイクルロードフェスタ ゴール後②

 ゴール後、冬希は呼吸を整えながら、ゴールラインの先をゆっくり走っていた。

 他の選手たちも同様にゴール後にしばらくクールダウンしているが、1コーナーを曲がる前に引き返し、コントロールタワーの間の退場口からコース外に出ていく。

 冬希も、ゆっくり引き返そうとしていると、1分ほど遅れた裕理がやってきた。

「お疲れ様です。裕理さん」

「おう。露崎さん、勝ったみたいだな」

「ええ、危なかったですけど」

「危ねぇのは、お前だよ。マルケッティの選手にゴールスプリント仕掛けるんだからよぉ。完全に目的を忘れてたろう」

 裕理は、ジトっとした目で冬希を見る。流石に冬希もこの裕理の言葉には一言もなかった。

 冬希が仕掛けた時の動きが、フェルナンドの邪魔をするような形になったのではあるが、それは結果論だ。

「まあ、良いけどよ。お前、ちょっと元気になったんじゃないか?」

「元気がないように見えていましたか」

「まあな。辛いことがあっても、時間が経てば苦しみは薄れていく。人間ってやつはそう出来てるんだ。問題はそれまでの時間をどう過ごすかだ」

 冬希と裕理は、並んで退場口へ向かって走り出した。

 高校自転車ロードレースの中で裕理は、決して評判の良い選手ではなかった。

 しかし冬希は、この男に対して、味のある人だと感じていた。言動も行動も小物感を漂わせているが、接していると、人としての深みと厚みを感じさせる時がある。

 露崎と坂東が話し込んでいる間、冬希は裕理と色々な話をした。裕理の風態はあまり賢そうには見えないのだが、見た目からは信じられないほど博識だった。

「四十九日っていうのが一つの区切りだな。そのタイミングで納骨をしたり、位牌に魂を入れる、開眼供養ってやつをやるんだ」

 ばあちゃんが言ってた、と裕理は最後に言った。

 冬希は、郷田のことを伏せながら、葬儀の後にどういうことをするのかを聞いていた。

 郷田本人のいないところで、郷田の母が亡くなったことをベラベラと話すことは、憚られた。

 裕理に教えてもらった事からすると、郷田はどちらにしても四十九日が終わるまでに、何かを決めるということはないだろう。

 それまでは、そっとしておくべきだと思った。

 

 表彰式が始まった。

 1位の露崎、2位のフェルナンド、3位の冬希が表彰台に上がる。

 4位以下は、本部で賞状と賞品を受け取る事になる。

 表彰式の後、5位に入ったビーシーシーの菊田が尾美工業の江口、ハセガワの落合と共にいたので、冬希は挨拶に行った。彼らの力無くしては、冬希の表彰台はあり得なかった。

 3人は、それぞれ冬希と握手を交わすと、一人一人と記念撮影を行う事になった。

「いやぁ、俺もまだまだ戦えるって事だな」

 上機嫌に菊田は言った。

 菊田は、全ての社会人クラブチームの選手たちの中で、最高位だった。チームも菊田を見る目が変わるだろう。

 冬希が、ピットの自分達のスペースに戻ると、露崎、坂東、裕理の3人がいた。

「へっへっ、どうもどうも」

 裕理が下卑た笑いを浮かべながら、自分のリュックを開いて、露崎の優勝賞品を詰め始めた。

 露崎のエントリー代は、裕理のお財布から出ているため、優勝賞品をもらう権利も裕理にあると、露崎は考えていた。どのみち、全てをフランスに持っていけるわけではない。

 露崎の優勝賞品は、箱入りの補給食、自転車用の靴下、ドリンクボトル、そしてブランド物のサイクルジャージだった。サイクルジャージだけで全員分のエントリー代を差し引いてもお釣りがくる。裕理が上機嫌なのもわかる。

 3位の冬希の賞品は、靴下、ドリンクボトルは同じだが、かなりの大きさのクーラーボックスがついてきた。

 冬希はロードバイクで自走してここまでやってきたので、流石に持って帰ることはできない。

「クーラーボックスは持って帰れないので、返してこようと思います」

「なにっ」

 裕理が勢いよく振り向いた。

「じゃあ、俺がもらっても良いんだな」

「良いですが、裕理さんも駅まで自走でしょう。持って帰るのは無理なんじゃないですか」

 露崎、坂東、裕理の3人は、最寄りの駅まで自走し、そこで自転車を輪行バッグに詰め、ホテルや自宅に帰る事になる。ロードバイクでクーラーボックスを運ぶのは不可能だ。

「じゃあ、クーラーボックスは俺がもらってやる。返せって言われても返さねぇぞ」

 裕理は、そう言い残すと、他のチームのピットに向かって行った。

 しばらくすると、数本のタイヤのチューブを持って帰ってきた。

「どうしたんですか、それ」

「パンクしていた選手のいるチームに行って、貰ってきた」

 裕理は、レース中にパンクで自転車を降りた選手のジャージを覚えており、それらのチームを回ってパンクしたチューブを集めてきたのだ。

「でも、それをどうするんですか」

「まあ、見てろ」

 裕理は、チューブを切ったり結んだりして、クーラーボックスに取り付けると、背負い籠のようになり、チューブはちょうどその肩紐のようになっている。

「チューブってやつは、色々使えるんだよ」

 裕理は、クーラーボックスを背負った。


 露崎、坂東、裕理、冬希の4人は、一応の帰途にはついた。

 しかし、タイヤのチューブで作られた即席の背負い籠など、背負ってそれほど長く走れる物ではない。

 どうするのかと思っていたら、裕理は近くのコンビニに寄った。

「兄貴、もう使わんのがあったら出しちゃって」

 裕理は、クーラーボックスからチューブを外して開けると、その中にレースを終えて使わなくなった道具などを詰め始めた。

「露崎さん、これにサインしてくださいよ」

 裕理は、油性マジックを取り出すと、露崎がレース中に着ていた、安物のジャージを手渡した。

 露崎は、スラスラとペンを走らせると、それっぽいサインがジャージに描かれた。

 そういえば、インターハイの時も、露崎はサインを求められていた。

「冬希、お前もだ」

 冬希が着ていたジャージとサインペンを渡される。

「俺、サインなんか書いた事ないですよ」

「適当に名前書いておけば良いんだよ」

 仕方ないので、冬希は日付とレース名、そして順と名前を書いた。書いている内容は、サインというより完全に優勝旗やトロフィーに名前を残すペナントだ。

「まあいいか」

 裕理は、一瞬渋い顔をしたが、そのままクーラーボックスに詰め込んだ。

「どこかに売りに出すんじゃないだろうな」

 露崎が苦笑しながら言った。

「まさか、まだ今は売りませんよ」

 将来的には売るのか、と冬希は心の中で突っ込んだ。露崎は世界で活躍するようになれば、価値は出るだろう。だが、自分のサインの入ったジャージが価値があるものとして売られることは、冬希には想像できなかった。

 

 坂東は、自分の弟が冬希を下の名前で呼ぶようになったことが、少しだけ嬉しかった。

 どうやら、二人は今日のレースを通じて仲が良くなったようだ。

 裕理は、兄の坂東から見ても、誤解のされやすい人間だった。

 坂東が裕理に、レースに勝つための手練手管を教えたのは最初だけだった。その後は、自分で考え、兄が有利になるためだったら、憎まれ役も平気で買って出た。

 裕理の行動は、プロトンから嫌われることも少なくなく、坂東のところにも、他チームからクレームが来ることも1度や2度ではなかった。当然、坂東は無視したが。

 坂東としても弟が評判を落とす事に対して、何も思わないわけではなかった。それが自分のためだと思うと、尚更だ。

 しかし、そんな裕理に対して、自分が実力を認めもする男が、色眼鏡なしで好意的に接してくれているのを見るのが、純粋に嬉しかった。

 裕理は、宅配便の伝票を書いている。クーラーボックスを、恐らく学校宛に送るのだろう。宛名は監督の山下宛。クーラーボックスだけ送るのは勿体無いので、不要となった荷物を全部詰めて送ろうとしている。

 冬希が坂東の元までやってきた。

「裕理さん、すごいですね。チューブの使い方もそうですけど、宅配便とか色々」

 冬希が感心している通り、裕理の考えや行動は、ちゃんと観察すると理にかなっている。

 ただ、行動や立ち居振る舞いが下品で、頭が良さそうには見られない。

 だが、坂東にとっては大切な弟だ。

 裕理は、坂東について一緒にフランスに行きたかったようだ。しかし、一緒に行っても自分の食い扶持を確保できないという理由で断念した。

 今では、高校に通いつつ、地元の指圧師の学校に夜間に通い、国家資格である「あん摩マッサージ指圧師」を目指している。マッサーとして露崎や坂東のチームの一員となることを目指しているようだ。

「裕理と仲良くなったようだな」

「はい、尊敬しますよ」

「まあ、俺の弟だからな」

 坂東は笑った。坂東にとっての、弟に対する最高の褒め言葉だ。

 カウンターで伝票を書いていた裕理が顔をあげ、店員に言った。

「着払いで」

 坂東は、裕理に宅配料金を払わされる監督の山下に、少しだけ同情した。

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