第230話 袖ヶ浦サマーサイクルロードフェスタ 3時間エンデューロ男子エリート⑥

 マルケッティは、メイン集団を牽引しつつ、逃げ集団を追った。

 先頭の平野は若手の有力選手で、将来的にエースで戦うことを期待されているほどの選手だった。

 平野のペースアップは、メイン集団の人数を絞るという役割も果たしていた。40名ほど残っていたメイン集団は、実力の劣る選手達を次々に振い落とし、20名弱まで絞り込んでいた。

 無視されていた3人逃げは、冬希が加わることでトップ選手の池下を動かし、今ではメイン集団まで動かした。

「青山はよく働く」

 坂東は裕理の方を振り返って言った。

 しかし、裕理に返事をする余裕はない。

 マルケッティのペースアップにより、心の中で怨嗟の声を上げながらも、必死でついてきている。

 有力チームのハセガワ、ビーシーシー、尾美工業の選手達も、各チームアシスト1名、エース1名の2名体制を維持するので精一杯だ。

 マルケッティのフェルナンド、「高校選抜」の露崎に比べると切れる脚を持たない彼らは、フェルナンドや露崎と同時に仕掛けたのではまず勝ち目はない。早めに仕掛けなければならないはずだが、平野がいいペースで引いているため、ついていくので精一杯で、仕掛ける余裕などない。

 現在のところ、マルケッティは平野一人の牽引で、カルロスもフェルナンドも先頭交代する気配はない。

 有力チーム達からすると、スペイン人2人にも脚を使わせたいところだったが、その思惑は完全に外れてしまっている。

 しかし坂東は、その点は一切気にしていなかった。むしろ、相手はカルロスとフェルナンド、こちらは坂東と露崎、同じ条件での勝負であれば、わかりやすい。

「しかし」

 坂東は、前方を走る冬希達を遠目に見つつ、露崎に言った。

「案外、あいつこのまま逃げ切るかもしれんな」

 逃げている冬希達とは、まだそれなりに距離が開いている。

「いや、まあ捕まるよ」

 露崎は言い切った。


 逃げ集団は、落合、江口、菊田の3人でローテーションしながら走り続けている。一方で、追走するメイン集団は、先頭を曳いているのは平野一人だ。

 状況から考えると、逃げている方が有利のはずだが、逃げている5人とメイン集団との差は、着実に縮まってきていた。

 落合、江口、菊田の3人と、マルケッティの平野では、単純に平野の方が強かった。

 3人は、逃げに乗り、その後もローテーションを回しながら逃げ続けてきたので、それなりに疲れてもいた。

 3時間エンデューロも残り7分、ギリギリ3周回れるかという状況になった。

 最終コーナーに差し掛かったところで、この周回をずっと一人で曳いていた落合が、逃げ集団から脱落していった。

 苦しそうな表情をしてはいたが、最後に冬希達に親指を立てて下がっていった。

「オッチー、俺も行くぜ!」

 先頭を代わった江口が、残るすべての力を出し切るように、4人となった逃げ集団を曳き始めた。

 池下は、前を走る3人を見ながら、楽しそうだと思った。

 池下は、大学を卒業後、すぐに国内のコンチネンタルチームに加入した。

 当時から目立った速さはなかったが、地道なトレーニングでパワーや心肺を鍛え続け、32歳にして全日本選手権の成人男子エリートで優勝を果たした。

 自分には才能がないと思っていた。そして、努力の積み重ねで才能が無いなりに結果を残してきた。

 露崎や冬希と同じ高校生の頃、池下は目立った成績を残すことはなかった。

 当時は、実力アップのための効率的なトレーニングも知らず、自転車ロードレースに生涯を捧げる決意もなかった。

 もっと早く、プロになるためのトレーニング方法を知っていれば。もっと早く、自転車ロードレースに全てを賭ける決意ができていれば。そして、恐らくそれを持っているであろう若者達が、このレースに参戦している。

 高校の時から全力で打ち込んでいれば、どれほどまでになっていたか、知りたかった。

 世界最高の舞台で、世界最高の選手達と競いたかった。

 時間は巻き戻せない。30代後半を迎えた自分には、もう叶わない夢だ。

 メインストレートに入る。尾美工業の江口が牽引を終えて下がっていく。

 ゴール前の電光掲示板の示す残り時間は2分を切っている。

 1周走るのに3分超かかるこのコース。

 ゴールラインでは、次が最終周であることを知らせるベルが乱打されている。

 池下は前を見る。

 ビーシーシーの菊田、「高校選抜」の青山、そして自分の3人だ。

 後ろを振り返る。150mほど後方に、同じマルケッティの平野を先頭とするメイン集団の姿が見えた。人数はだいぶ減っているように見える。

 菊田はかなり頑張っているが、平野とのペースの違いは明らかで、ゴールまで逃げ続けることは不可能に見える。

「だが、今日はうちのチームでは誰が勝っても良いはずだ」

 チームオーダーは出ていない。

 これがプロツアーのレースであれば、フェルナンドやカルロスのシリーズ獲得ポイントを優先させる指示も出るだろうが、今日は違う。

 ここ数年、チーム内での役割を果たすことに集中してきた池下の心に、勝利への渇望が湧いてきた。

 自分は、若者達と戦うことで、過去に失った何かを取り戻そうとしているのかもしれない。

 池下の気持ちは、高校時代の自分に戻っていた。

 長年かけて手に入れた力ではあるが、あの頃の自分に戻ったつもりで、高校トップの選手達と戦ってみたいと思った。


 メイン集団は、マルケッティ平野のコントロールで、3人になった逃げグループを追いかけながら、メインストレートを通過し、最終周に入った。その差は130mほどになっている。

「兄貴、このまま青山がトップでゴールしそうになったらどうするとや?」

 ハイペースのメイン集団についていくのに必死で、既にアシストとしてはポンコツ化している裕理が聞いた。

「潰すに決まってるだろう」

 露崎と坂東が同時に言った。

 裕理は思ったのだが、別に優勝しなくても、アシストとしての能力を示すことができれば良いのだから、優勝が誰であれ、坂東と露崎は、フェルナンドとカルロスに勝ってしまえば、その証明は可能なのではないかと思った。

 だが、二人に仮初のチームメイトである冬希を勝たせる気など、微塵もないらしい。むしろ、マルケッティと協力して積極的に潰しに行きそうな勢いだ。

 やはり、スプリンターというのは、ちょっと頭のネジがぶっ飛んでいると、裕理は思った。

「そういえば、青山もスプリンターだ。スプリンターじゃないのは俺だけやんか!」

 青山も、坂東と露崎のことを忘れて、勝ちに行っているのかもしれない。

 チームの中で、まともなのは俺だけかよ、と裕理はため息をついた。

 そんな裕理の心配をよそに、露崎は、逃げ切りの可能性はないと考えていた。

 メイン集団を牽引するマルケッティの平野は、先頭グループとの差を縮めつつも、まだ幾分余裕を持って走っているように見えた。

 恐らく、ゴール前のメインストレートまでに追いつくように微調整をしながら走っているのだろう。

 メイン集団は、徐々にペースを上げる。裕理も脱落し、既に10人程度になっていた。


 マルケッティ平野のペースアップで、メイン集団と逃げグループの差は、一気に30メートルほども縮まった。

 ゴールまで残り1kmというところで、その差は50mといったところだ。

 ここで、マルケッティの平野が牽引から外れる。

 カルロスが先頭に立った。

 カルロスの牽引は圧倒的で、ぐんぐんと逃げグループとの差を縮める。

 残り2つのコーナーを残すだけとなったところで、逃げグループのスピードが一気に上がった。

 マルケッティの池下が、菊田をかわして先頭に立った。

 池下は、このままでは最終コーナーを待たずしてメイン集団に追いつかれると考えた。また、池下自身が1番スプリント力に自信があった頃に比べ、体を絞っており、単純なゴールスプリントでは冬希との戦いで不安が残るということもあった。

 池下は早めにスパートを行い、冬希を振り切るという手に打って出た。

 しかし、冬希もこの手の攻撃は何度も経験済みだ。池下の仕掛けたタイミングで、菊田の後ろから池下の後ろに乗り換え、必死に食らいつく。ギアを落とし、なるべく軽いギアでペダルを回す回数を増やし、筋肉ではなく呼吸で追うことを心がける。筋肉は、ゴール前まで取っておくのだ。

 池下は、冬希が後ろについたのには気づいたが、今更ペースは落とせない。ペースを落としたところで、メイン集団に吸収されるだけだ。

 最終コーナーを回り、メインストレートに入った。

 一応、カルロスやフェルナンドに抜かれる時に、邪魔にならないように、コース左端に寄って、全力で踏み続けた。


 カルロスの悪魔のようなペースアップは、自身のチームのフェルナンド、そして「高校選抜」の露崎、坂東を除く全ての選手を振り切った。

 しかし、坂東からすると、この状況は分かり切っていたことだった。

 スタートする前から、この4人の力が飛び抜けていたというだけの話なのだ。

 同時に、冬希と池下を牽引していた菊田を抜き、最終コーナーを回った時点では、池下、冬希との差は10mを切っていた。

 カルロスは、二人を射程圏内に捉えた。


 ここで坂東が、かなりの勢いをつけて、カルロスに体ごとぶつけに行った。

 

 コース左側には、少し前に池下と冬希がいる。

 坂東は、その後ろまで、左側にカルロスを押し込んで行こうとした。

 そうすればカルロスとフェルナンドは、前にいる池下と冬希が壁になり、行き場を失うことになる。

 かなり急な角度でぶつけに行った為、失格や降着が言い渡される可能性も皆無ではなかった。しかし、坂東が失格や膠着になっても、露崎が勝てば良いと思っていた。

 坂東は、同じ高校生としては、松平や草野といった巨漢選手を弾き飛ばすほどの体幹の強さを持っていた。

 しかし、坂東にぶつけられたカルロスは、全く動くことはなかった。

 まるで岩にぶつかったようだ、と坂東は思った。

 総合系の選手であるカルロスは、比較的小柄な選手なのだが、その体格からは計り知れないほど強固な体幹を持っていた。

 残り200m、先に露崎が動いた。

 露崎は、坂東の背後から右側に出ると、全力でスプリントを開始した。

 少し遅れて、フェルナンドもカルロスの左側から、満を持してスプリントを開始する。

 露崎のスプリント力は、冬希のスプリント力より数段上だったが、フェルナンドのスプリント力は、さらにその上を行っていた。

 露崎は、坂東を交わすと、やや左側に進路を取りつつスプリントを行う。

 フェルナンドは、露崎より仕掛けを遅らせた分、露崎の動きを見ながら、自分の通るべきコースを見極めた。

 露崎はフェルナンドのいる左側に寄せながらスプリントをしているが、まだ池下たちとの間に十分な幅があり、フェルナンドは露崎の左側から十分抜けると判断した。

 フェルナンドは加速し、露崎を左側から抜きにかかった。

 ゴールまで残り120mといったところで、突然フェルナンドの数m先に壁ができた。

 冬希が、池下の右側からスプリントを開始したのだ。


 メインストレートを、コース左側ギリギリを走る池下に対して、冬希は残り120mで池下の右側に出て、スプリントを開始した。

 冬希からすれば、特に露崎を援護しようとした訳でも、フェルナンドの邪魔をしようとしたわけではない。

 池下の左側は芝生しかなく、右側から仕掛けるしかなかったというだけの話だ。

 しかしその結果、池下と露崎との間にあったスペースを冬希が塞ぐ結果となり、フェルナンドは一度露崎の後ろに下がり、反対側から抜きにかかるしかなかった。

 露崎とフェルナンドは、段違いのスプリントで一瞬で池下と冬希を抜き去った。

 次元の違うスプリント力を持つフェルナンドだったが、一度スピードを落として踏み直して、残り100mで露崎をかわすだけのスピード差は流石に無かった。

 露崎もフェルナンドも、ゴールラインではハンドルを投げたが、それももう形だけだった。

 露崎は、1mほどの差をつけてゴールラインを通過した。

 2位のフェルナンドから遅れること数m、冬希と池下がほぼ同時にハンドルを投げて、ゴールラインを通過した。


『優勝は、露崎選手、2位にフェルナンド選手、3位青山選手、4位池下選手、5位菊田選手』

 次々に順位が読み上げられた。

 冬希は、放送で自分が3位に入ったことを知った。

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