第229話 袖ヶ浦サマーサイクルロードフェスタ 3時間エンデューロ男子エリート⑤
ハセガワ、ビーシーシー、尾美工業の3人が抜け出した時、冬希は自分から行くと言った。
無論、マルケッティの選手たちに脚を使わせる必要があるというのもあるが、単純にやることがなくなって、手持ち無沙汰になっていたというのもあった。
レースは後半に入り、カルロスがフェルナンドを発射するタイミングで、坂東が露崎を発射する。そういう展開になるのだろうということはわかったが、そうなると、ほぼ数合わせで参加してボトル運びの仕事も終えた冬希は、もはやただの役立たずだと、自分で思っていた。
ゴールが近づいたタイミングで坂東や露崎を先頭に押し上げる仕事をすればいいのかもしれないが、郷田のようにその辺りのスキルや経験があるわけでもなく、おそらくただ邪魔をするだけで終わるだろう。
だとしたら、アタックをかけた3人に協力することで、マルケッティに対する嫌がらせをしてやろうと思ったのだ。
「おい、今日のレースの趣旨を忘れるなよ。お前が逃げ切ってもしょうがないんだからな」
裕理が、ギャーギャーと喚いている。彼からすると、少ない小遣いや貯金を使って、こんな千葉の田舎まで来たのは、兄の坂東が露崎を勝たせてアシストとして使えることを証明し、フランスのチームに推挙させるためだ。
ギリギリの資金繰りのため、ここで失敗したらもう次はない。
その時に裕理が
「これが本当の自転車操業だ」
と言った時のドヤ顔を、冬希は一生忘れないかもしれない。
坂東と露崎は、即座に許可を出した。
マルケッティのフェルナンド、カルロスの脚を削りたいというよりも、逃げを追うためにメイン集団がペースアップすることで、40人近く残っているメイン集団の人数をもう少し絞って、スプリント時にごちゃごちゃするリスクを避けたかった。
「よろしくお願いします」
丁寧に挨拶をする冬希に、ハセガワの落合、尾美工業の江口は、おーっと感嘆の声を挙げた。
ビーシーシーの菊田は、冬希の参加により、このアタックが成功することを確信した。それは、もちろんこのままゴールと獲るという意味ではない。
出涸らしような3人組が仕掛けたところで、放っておいても勝手に吸収できるだろうと、マルケッティは動かない可能性があった。しかし、青山冬希というビッグネームが加わったことで、今マルケッティは決断を迫られているはずだ。
「踏んでいくぞ。奴らに、俺らは危険なメンツだということを思い知らせてやろう」
落合、江口、菊田、冬希の4人は、短いスパンで先頭交代を繰り返しながら、メイン集団を引き離しにかかった。
メイン集団から、マルケッティの日本人トップ選手、池下が飛び出した。逃げている4人を捕まえるためだ。
フェルナンドとカルロスは動かない。先頭を曳く平野の後ろでじっとしている。
そのため、有力チームも池下を追うことなく、池下の後ろ姿を見守った。
逃げている4人は、30秒ほどのマージンをメイン集団につけると、一旦ペースを落ち着けた。あのままのペースで走る続けることなど不可能だ。特に、尾美工業の江口とハセガワの落合の消耗が激しい。
メイン集団との差が広がらなくなった、池下がアタックをかけたのは、そのタイミングだった。
菊田と冬希は、後方からマルケッティの選手が一人追ってくるのを確認した。しかし、追いつかれないようにペースを上げることはできなかった。江口と落合を置いていくことはできない。菊田と冬希の2名では、すぐに脚を使い果たして集団に飲み込まれてしまう。
マルケッティの池下は、あっという間に4人に追いついた。ほとんど息も切らせていない。
これで、4人は圧倒的に不利な立場に追い込まれた。
見た目は5人の逃げ集団となってはいるが、そもそも逃げを潰しにきた池下は、絶対に先頭交代には加わらない。
そうすると、このメンバーでの逃げ切りとなった場合でも、5人のうち一人だけ脚を使っていない池下が勝ってしまう。マルケッティとしては、それでも良い。しかし、残りの4人としては、どれだけ頑張っても、池下を勝たせるために走っていることになる。そんな心理状態で逃げ続けることなど、どれほど心が強くても出来ない。
「キクリン、ダメだ。万策尽きた」
江口が溜息混じりに言った。落合も肩を落とす。
「終わっちゃいないよ。えぐっちゃん。俺らの目的はなんだよ。まだ奥の手がある。耳を貸せ」
菊田が、声を低くしていった。
残り時間10分を切った時、メイン集団はマルケッティの平野を先頭にペースを上げた。
逃げている5人との差は、変わらず30秒程度は開いている。すぐにメイン集団に吸収されるかと思われた逃げ集団は、脅威的な粘りを見せていた。
池下に追いつかれた逃げ集団4人は、ペースを落とすことなく、逃げ続けていた。
しかし、それだけでは、池下を送り込んだマルケッティが逃げを追う理由にはならない。池下が勝てばいいだけだからだ。しかし、そうも言っていられない事態が起こった。
マルケッティの平野、フェルナンド、カルロス。そして「高校選抜」の坂東、露崎も、コーナーを折り返して芝生の向こう側を走っている5人の逃げ集団の走りを見て、何が起こっているかを理解した。
5人の集団の中、先頭交代に加わっているのは、4人ではなく冬希を除いた3人だけだったのだ。
3人のとった行動は、冬希を温存して、池下にぶつけるということだった。
正確には、温存した冬希を池下にぶつけるぞ、とマルケッティを脅迫しているのだ。
このまま逃げ集団が先頭でゴールまで辿り着いた場合、冬希と池下のスプリント勝負になる。
日本の実業団チームの中でも、トップに位置するマルケッティで、その中でも全日本選手権での優勝経験を持つ池下は日本人の中ではトップ選手だ。マルケッティのチームメイト達は、二人が戦っても、当然池下が勝つと思っている。
だが、冬希は直近のレースで、過去の日本人最高の逸材と言われる露崎にスプリントで勝っている。
最近の池下は、平坦のレースではフェルナンドの、そして山岳も交えたレースではカルロスのアシストとして出場し、自分が勝ちに行くというレースを行なっていない。
菊田は、江口と落合に言った。
「マルケッティが心の底から池下を信頼していれば、追ってこない。だが、少しでも青山冬希が勝つかもしれないと思ったら、追ってくる」
菊田、江口、落合の目的は、マルケッティに自分達を追わせ、脚を使わせることだ。マルケッティが乗ってくれば、十分自分達の役割は果たせたことになる。
3人での必死の曳きが始まった。彼らはメイン集団との差を維持し続けた。江口は苦しさのあまり、鼻から鼻水、口から涎を垂れ流している。落合は顔を真っ赤にしており、菊田も目が充血している。
「やっぱり、俺も加わりますよ」
冬希は、たまらずに言った。
「余計なことをするんじゃねえよ」
菊田は唾を飛ばしながら言った。
「ここは、おじさん達の見せ場なんだよ」
落合は、嬉しそうに言った。
「でも、高校1年の青山君を武器にしてマルケッティを誘き寄せるって、大人として恥ずかしいね、キクリン」
江口が、人の良さそうな笑顔で言った。
構うものか、と菊田は思った。
菊田は、自分の子供と遊ぶ時間を削って、自転車のトレーニングを行なってきた。
妻からは、よく小言を言われた。
TVで全国高校自転車競技会が中継された時、それを菊田が見ていると、10歳になる娘も一緒にソファーに座って見ていた。
娘は、すぐに青山冬希のファンになった。自分の住む千葉県の代表選手の活躍に、娘は大喜びだった。
「パパは、青山選手と知り合いなの?」
「パパは、青山選手と一緒に走らないの?」
「パパは、一緒のレースに出て、青山選手をアシストしないの?」
自転車でレースに出る菊田に、娘はよくそういうことを言った。
その度に
「パパは高校生じゃないから出れられないんだよ」
「パパが出るレースに、青山選手が出れば、パパも青山選手を応援するよ」
と言って聞かせていた。
菊田は、血走った目で後ろを見た。この自分が、青山冬希をアシストしている。
菊田の所属する株式会社ビーシーシーの自転車競技部は、日本のトップカテゴリのレースにも、度々出場し、実業団相手に好成績を残すこともあった。
高校、大学で全国に出場することもあった菊田は、自転車競技部があるという理由で、ビーシーシーを選んだ。
ずっと主力として戦ってきたが、もう年齢も35歳。チームの中心は、勢いのある若手に移ってきている。
チームの主力が出場する東日本のロードレースシリーズと日程の近いこのレースに、チーム内の選手のやりくりの結果、菊田は出場することになった。
菊田にも意地がある。
「このまま、青山冬希をゴールまで連れて行ってやる」
娘に自慢してやろう、胸を張って言ってやる、パパが青山冬希を勝たせたぞ。
もうこんなに燃えるシチュエーション、自分の生涯には訪れないだろう。菊田の体に、力が湧いてきた。
メイン集団が動き出した。
冬希と池下を勝負させるよりも、ペースを上げてカルロス、フェルナンドで勝負することを選んだ。
ぐんぐんと菊田達との差を縮めてくる。
「池下選手、あんた意外と信用されてないみたいだぜ」
菊田の言葉に、痛いところをつかれた池下は、苦笑いするしかなかった。
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