第220話 叶わなかった夢
郷田の母が入院して3日が経過した。
郷田と父は毎日病院を訪れた。午前中は検査などがあるらしく、面会は14時以降からで、午後は18時までとされた。
郷田からは、母の様子は見た目には状態は変わらず、DVDプレイヤーで郷田の全日本選手権などを見ているが、毎日の医師の説明を受ける限り、検査の数値は、母が一歩一歩確実に死に向かって歩いているということを教えていた。
一度に集中治療室に入れる時間は長くないが、呼び掛ければ返事もするし、少しなら会話もできた。
手を握れば暖かいし、嬉しそうな表情を浮かべることもある。
集中治療室に入っていない間、郷田と郷田の父は、無言で待合室で座っていた。
本人は、恐らくまだ死ぬとは思っていないだろう。しかし、もはや死を免れないという現実が、二人の心を少しずつ壊していった。
郷田の母のベッドから見える位置に、郷田の全日本チャンピオンジャージと、額に入った全日本選手権優勝の表彰状が吊り下げられており、表彰式後の写真がボードに貼られていた。
それらは、リハビリ専門の病院のベッドにもあったものだ。
その時と唯一違うのは、カレンダーが貼ってあることだった。
看護師の勧めで用意されたカレンダーは、入院してから今日までの日の1日毎に丸が付けられていた。そうすることで、1日でも頑張って生きようという気持ちが生まれるのだそうだ。
その日の夕方、郷田が付き添っている時に、母が息苦しさを訴えた。血中酸素濃度は、95%まで下がっている。
郷田は慌てて看護師を呼びにいく。
連絡を受けた医師の判断で、酸素マスクに送る酸素濃度を高くすることとなった。
翌日、郷田は父と医師の説明を受けた。
今後の方針についてだ。
「決断です」
医師は言った。
気管切開を行い直接肺に酸素を送り込むのか、現在のまま酸素マスクとするか。
肺は、繊維化が進んでおり、たとえ奇跡が起きて死を免れたとしても、一生酸素マスクがなければ生きていけない状態だということだった。もはや、家族3人で並んで歩いて出かけるということも、叶わぬ夢となった。
父は、俯いてテーブルを見つめたまま、言葉が出なくなっていた。
郷田は、あらかじめ父と決めていた結論を口にした。
「可能な限り、苦しまないようにしてあげてください」
気管切開を行うと、現状から考えると、もう2度と人工呼吸器を外すことはなくなる。その場合、声が出せなくなる。つまり、その時点で母との会話は最期となる。
声が出せなくなれば、苦しくても、痛くても、母はそれを伝えることができなくなる。それがどれほど辛いことか、郷田は計り知れないと思っていた。
全日本選手権でゴールした直後、郷田は呼吸が苦しく、その場から動けなくなってしまった。無論、健康な郷田は少し時間が経つことで呼吸も落ち着いてきた。
しかし、母は、その時と同等の苦しさを体験し、尚且つ、時間が経ってもそこから呼吸が楽になることはないのだ。自分がそんな苦しみの中に置かれたら、きっと殺してくれと哀願するだろう。
郷田は、父にそのことを話し、もしもの時は、奇跡の回復に賭けるのではなく、可能な限り苦痛を和らげることを大切にしようと二人で決めていた。
その日の夜、郷田の母は再び呼吸の苦しさを訴え、モルヒネの投与が始まった。
モルヒネは、呼吸の苦しさを和らげる効果があるということだ。少し穏やかな表情となった母を見て、郷田は父と病院を後にした。
月曜日、郷田の父は仕事に向かった。もう一週間も休み続けていた。これ以上迷惑をかけられない。
母の容体は、いつどうなるかわからない。だが、今日かもしれないし、明日かもしれないし、さらに一週間後かもしれない。その間、ずっと休み続けるわけにもいかない。
郷田の父にとっては、仕事をするということは、辛い現実からの逃避となった。仕事に集中している間は、胸を押し潰されそうな悲しみのことを、考えずに済んだ。
しかし、変わらず毎日病院に通い続ける郷田の心は、確実にもたなくなってきていた。
母の容体は、少しずつだが確実に悪化しており、モルヒネの量も増えていった。
翌日の火曜日、郷田はもう無理だと、病院に行くのを止めようと思った。しかし、夕方には病院に行き、集中治療室で母の顔を見つめていた。
モルヒネはさらに増量されており、意識も覚醒しているのかどうかは、わからない。ただ、本人がキツさを訴える発声をする程度となっている。会話は厳しい状態になっていた。
医師の話では、本人の頑張りでなんとか持っているが、今後も現状で推移することはない。もって数日、と言われた。
郷田は、憔悴しきった表情で病院を後にした。
食事は取ってはいるが、ほとんど味を感じない。夜は、後ろ向きなことばかりを考えていまい、ろくに眠れていない。
病院で、死に向かって苦しみ続ける母をずっと見てきた。何もしてやれることはない。そんな状況が一週間以上続いた。郷田の心は、もはや壊れようとしていた。
風呂にも入らず。ソファーで丸くなり、そのまま目を閉じた。
明くる日、窓からの明かりで目が覚めた。
もう何も考えられなくなっていた郷田は、スマートフォンに一通のメッセージが届いることに気がついた。
メッセージは父からだった。
「お母さんの血中酸素濃度が50%です。病院に来れますか」
郷田は、すぐに飛び起きて、慌てて玄関に向かい、靴を履こうとした時、さらに一通のメッセージが届いた。
郷田はスマートフォンを開くと、そこには父からのメッセージがあった。
「6時47分でした。慌てずにゆっくり来て下さい」
脱力して俯くと、一足のサンダルが目に入った。ベルトの部分に向日葵があしらわれている。
郷田と父が、大型ショッピングモールで、母の日のプレゼントで買ったものだ。
男二人で、女性向けブランド店に入る時、緊張のあまり顔がこわばっていた。
涙を流して喜んだ母は、夏になったらこれを履いて三人で一緒にお散歩しよう、と言っていた。
誰もいない、静寂に包まれた家の中で、郷田の嗚咽だけが響いていた。
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