第219話 命燃ゆる

 母の見舞いの翌日、郷田は神崎高校の部室で、自分の荷物の整理を行なっていた。

 平良柊ほどではないが、なかなかに混沌としたロッカーになってしまっており、パンクしたチューブや、使わないチューブのバルブキャップ、無くしたと思っていた0.89mmの六角レンチなどが底から発掘された。

 ゴミ出しなどが一回で済むからと、タイミングを合わせて片付けにきた船津のロッカーは、清潔で整然としていた。

「おかしいな、俺は1年しかこのロッカーを使っていないはずなのだが」

 船津は、1年から自転車競技部にいたため、3年使った。郷田は昨年編入してきたので、1年しか使っていないはずだが、船津のロッカーよりは、少なくとも散らかっていた。

「大丈夫だ。柊のロッカーと比べると、ずっと片付いている」

 同じ兄弟でも、平良潤のロッカーは、船津に負けず劣らず整理されている。冬希のロッカーは、そもそも散らかるほど物がない。

 冬希の話では、片付けるのが苦手だから、そもそも物を置かないそうだ。姉にそう教育されたということだ。

 郷田は自分のロッカーを片付け、それほど片付け物がない船津は、部室全体の片付けを始めた。柊のロッカーには、絶対に近づこうとはしなかったが。


 一通りゴミもまとまり、荷物も各自の持ってきた大きめのバッグに収納し終わったところで、二人は昼食にした。一緒に購買に行き、いくつかのパンと飲み物を買って、部室に戻ってきた。

 二人で食事をとりながら、色々なことを話した。インターハイのこと、冬希たちのこと、これからの自転車競技部のこと、自分達の今後のこと。

 同じ3年生でありながら、普通科と情報システム科と学科が分かれており、あまりゆっくり話す機会もなかった。

 船津の言葉には、多くの知識と深い洞察があり、郷田の言葉には、地に着いた堅実的な思考と、強い決意があった。二人は、お互いを家に招くような仲ではなかったが、自分にはない良さを持っている相手に、お互い深い敬意を持っていた。

 一頻り話終わった後で、郷田は椅子から立ち上がった。

「そろそろ行くよ。また気晴らしにトレーニングに来る」

「ああ、俺も顔を出すようにするよ」

 船津は、郷田のパンの袋も回収し、一つの袋にまとめた。

 船津は自習のため校舎へ、郷田は帰宅するためバス停へ向かおうとしていた時、郷田の携帯のバイブレーターが鳴った。郷田の父からだ。

「もしもし」

「隆将、病院に来れるか。お母さんが危ないかもしれない」

 郷田の顔から血の気が引いた。船津は、心配そうに郷田を見ていた。


 郷田は、大きな荷物を抱えたまま、父親から指定された病院へ向かった。

 それは、リハビリを受けていた病院ではなく、前回の肺炎の時に集中治療室に入っていた時の病院だった。

 集中治療室のある2階に上がると、郷田は待合室の椅子に荷物を置き、集中治療室の前に立つ。

 1つ目の自動ドアは開き、二つ目のドアの前で、インターホンで看護師を呼び出す。

「はい」

「郷田の家族です」

 扉が開き、すぐに母の姿が見えた。

 傍には父が立っており、母は病衣に酸素マスクをつけており、大きく呼吸を繰り返していた。

 人工呼吸器の横にはモニターがあり、血中酸素濃度は97%と98%を行ったり来たりしていた。

「お母さん」

 郷田は声をかけた。

 母は視線だけを郷田に向けると、来てくれたの、と口の動きで言った。酸素マスクの、シューという音で、声まではしっかりとは聞き取れなかった。

 病気はもうこりごり、といった。

 郷田の父は、一旦外に出ようと郷田に行った。

 郷田の母は、郷田の父が出て行こうとする前に、あれを取ってと言った。

 郷田の父は、ポータブルDVDプレイヤーを渡した。

 郷田の母は、自分で操作して、DVDに焼かれている郷田の全日本選手権の映像を見始めた。

 自分で機械を操作して、暇潰しができている様子に、郷田は少し安心した。


 集中治療室では、面会時間は一回10分程度と決められている。郷田も郷田の父も、あまり長く付き添うことはできない。

 二人は集中治療室を出ると、待合室のソファーに向かい合って腰をかけた。

「リハビリの病院で、今朝からお母さんは息苦しさを訴え始めた」

 郷田の父は、今日の経緯を説明し始めた。

「ナースコールで看護師さんを呼んだらしいのだが、今日は午前中に内科の先生の検診があるということで、その時に見てもらおうという話になった。だが、その時間を待たずして、息苦しさは悪化し、救急車でこの病院に運び込まれてきた」

 郷田は、父の話に聞き入った。

「肺のレントゲンを撮ってもらったが、ほとんど全部が白くなっていた。現在機能しているのは、右肺の下の一部だけだ」

「また肺炎?」

「そうだ。間質性肺炎。治ったと思っていた前回の肺炎が何処かで燻っていたのかもしれないが、間質性肺炎というのは、原因がわかっていないらしい」

 郷田たちを呼びに看護師がやってきた。

「先生からのご説明があります」

 郷田と郷田の父は、別室に呼び出され、医師からの説明を受けた。

 シャウカステンというレントゲンを映す機械に、1枚のレントゲンが置かれた。

「これが現在の状況です」

 郷田には、肺の全てが白く覆い尽くされているように見えたが、かろうじて一部で呼吸ができているという状態らしい。

 そして、入院してここまでの血液検査の推移が見せられた。

 医師が示したのは、血小板の数値だった。元々少ない状態だった血小板の数値は、徐々に下がってきており、母には、もう時間が残されていないこと、郷田は知った。

「血小板がこのまま減り続けますと、多臓器不全を発症します。2〜3日中。遅くとも来週の前半まででしょう」

 医師は言い切った。冷たいようにも聞こえるが、会わせたい相手がいるなら会わせておけと言っているのだと、郷田は理解した。

 突然、この状態から血小板の値が劇的に改善して、母が正常に戻るということは、ないのだと知った。

 奇跡などは起きないと、医師の指し示す血液検査の結果が言っていた。

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