第218話 悲しみの中で

 朝5時に目覚まし時計が鳴る。

 冬希は体を起こすと、サイクルジャージに着替え、逆さにしたヘルメットにアイウェア、グローブ、そして虫対策のスポーツマスクを入れて、階段を降りていく。

 リビングは静まりかえっているが、外はもう明るくなり始めている。

 調理道具と一緒に入っていたボトルを取り出し、水を入れ、補給食の羊羹を背中のポケットに入れる。

 背中には、スマートフォン、小銭入れ、ハンドタオル、羊羹、それに日焼け止めが入っている。

 手早くバナナを2本食べると玄関に移動し、シューズクロークに立てかけていた自転車を慎重に出す。

 姉や両親を越さないように、そっと家を出る。

 涼しく、澄んだ風が静かに吹く中、冬希は日焼け止めを両手、両足、首、顔に満遍なく塗っていく。

 マスク、ヘルメットアイウェアの順に装着し、自転車のサイクルコンピュータの電源を入れると,トレーニングの開始を選択し、ペダルを漕ぎ出す。

 冬希は、完全に気持ちの整理がついたわけではなかった。

 しかし、機械のように何も考えずに、今日も負荷の高いトレーニングに出かけた。

 風邪をひいて、3日間トレーニングが出来なかった。トレーニングを休めば、休む前に比べて心肺も脚力もスタミナも衰えるのではないか、休む前の状態まで戻るのにもっと時間がかかるのではないか、という、最早強迫観念のようなものに追い立てられるように自転車に乗り続けている。

 休むことも許されない。

 7時前には学校に着いたが、日曜日は7時にならなければ校門は開かない。

 冬希は学校の裏の利根運河をうろうろと走り続け、7時になって守衛さんが校門を開けてくれると同時に、校内に入った。

 昇降口で待っていると、守衛さんが職員室から部室の鍵を取ってきてくれた。

 日曜日でも部活の顧問の教師は学校に来るが、この時間帯は誰もいない。

 冬希は、部室に入ると窓とカーテンを開け、固定ローラーに自転車をセットし、サイクルコンピュータで、パワーと時計を見ながらトレーニングを開始した。

 最初は強すぎると思った巨大な工業用扇風機の強烈な風も、体を動かし続けて熱を帯びてくると、ちょうど良く感じる。

 一人でいると、油断した時に色々考えてしまう。

 何のために乗り続けなければならないのだろうか、自分を勝たせてくれた郷田は、もう引退してしまって、居ない。

 周囲は自分に期待しているかもしれないが、もう勝てる気がしない。

 冬希は慌てて首を振って、後ろ向きな考えを文字通り振り払った。そして意識して何も考えないようにしてペダルを踏み続けた。土壺に嵌ってしまうと、もう自転車などには乗れなくなってしまうかもしれない。

 せめて、平良潤、平良柊の双子の先輩がいてくれたら、と思う。


 高負荷で短時間のトレーニングを終えると、冬希は上半身裸になって、タオルをかけたパイプ椅子に座り込んだ。汗をかくと、少しだけ気持ちが前向きになれた気がした。

 ガチャリ、と音がし、部室のドアが開く。

 冬希は立ち上がり、入口の方を向くと、船津が姿を現した。

「お疲れ様です」

「練習か、精が出るな」

 船津は部室に入ってくると、テーブルを挟んで冬希の向かい側のパイプ椅子に座った。

「ここに来れば、そのうち青山に会えるだろうと思ってな」

 船津の表情は優しげだが、どこか少し悲しそうでもあった。

 冬希は、少し嫌な予感がした。

 平良兄弟は里帰り中で不在。部室のいる可能性があるのは自分と郷田の二人のはずだ。船津は、冬希に会えるだろうと思ったようだが、郷田に会えるとは思っていなかったのか。

「郷田さん、何かあったのですか」

 船津は、少し驚いた顔をしたが、小さく息をついた。

「お母様の具合が良くないらしい」

「そうなんですか」

「インターハイの翌々日、郷田と二人で荷物の整理をしていたんだが、その時に電話があってな」

 船津はうつむきながら言った。

「今日連絡が来たが、あれ以来ずっと病院通っているそうだ」


 郷田はインターハイの翌日、まだ午前中に母が足のリハビリのために入院してる病院に見舞いに行った。

 郷田の母は、父が買ってきてくれたタブレット端末に何かを入力しているようだった。

「母さん」

「隆将、いらっしゃい」

 母の表情が、ぱあっと花が咲いたように明るくなる。

「何を書いてたの?」

「ふふ、今はまだ秘密よ」

 郷田の母は、いたずらっぽく笑った。

「TVで見てたわよ。昨日のレースの最後の方、ずっとあなたが映ってたわよ。すごいんでしょあの露崎君って子。あなたたち良く勝ったわね」

 目を輝かせながら言う母を見ることが出来て、郷田も嬉しかった。

 普段は落ち着いた雰囲気の人だけに、どれほど嬉しかったかが見てとれた。

「青山が凄かったんだよ」

 それは本心だった。決定力という意味では、郷田は逆立ちしても露崎には敵わない。郷田がいくら万全のアシストをしたとしても、他のスプリンター達だったら露崎に対抗出来たは決して思えない。爆発的なスプリント力を持つ冬希だからこそ、露崎を抑え切ることが出来たのだ。

「ふふ、あなたを活躍させてくれる青山君に、私も早く会いたいわ」

「今は無理だよ。風邪をひいているらしいから。治ったら連れてくるよ」

「あら、お化粧しないと。あとちょっと良い服持ってきてね。あの濃紅のセーターよ」

「夏にあれは暑いだろう」

 郷田は苦笑し、母もそうかしらと笑っている。

「部活はもう引退なの?」

「ああ、明日部室の荷物を整理しに行ってくる。午後にはまた来るよ」

 郷田は、6人部屋の、寝ているらしく仕切りのカーテンが閉まっている二人を除く3人に丁寧に挨拶をすると、病室から出ていった。

 帰宅後、インターハイの時に溜まっていた自分の洗濯物と、病院で受け取ってきた母の洗濯物、ソファーに脱ぎ捨てられた父の洗濯物を一緒に洗濯機に入れ回す。その際、サイクルジャージは、おしゃれ着用のモードで洗うため、先に避けておく。

 洗濯機を回している間、生協で注文している酢豚のミールキットを調理し、半分は皿に盛った後に、父親用にラップをして冷蔵庫に入れ、残りの半分を昼食として食する。母が家にいなくなり、混ぜて炒めるだけでそれなりの手作りメニューが食べられるミールキットが郷田家の食生活を支えていた。材料を切ったり、調味料を測ったりする手間がないだけで、ずいぶん料理が楽だった。

 食事を終えた後、食器やフライパンなどの調理器具を大型の食洗機に入れ回す。よく腰が痛いと言っていた母の負担を軽くするために、父が奮発して買ってくれたものだ。

 洗面所に行くと、すでに洗濯は終わっており、洗い終わった洗濯物出すと、避けておいたサイクルジャージを入れておしゃれ着モードに、おしゃれ着用洗剤を入れて回す。

 そして洗い終わった洗濯物を、ベランダに出て干していく。

 ベランダ用サンダルは焼けるように暑く、洗濯物など一瞬で乾いてしまいそうなほど、外は暑かった。

 リハビリも順調のようだし、しっかり歩けるようになれば、すぐに帰ってくる。まだ段ボールに詰められたままの母の荷物を、荷解きしなければ、と郷田は思った。

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