第211話 高校総体自転車ロード 第6ステージ(筑波サーキット)③

 午前9時、夏休み期間中にも関わらず、神崎高校の学食は、朝食を求める生徒たちによって、半分ほどの席は埋まっていた。

 学食も正式な稼働はしておらず、メニューもうどんやそばのみであるが、購買では平常時と変わらないバリエーションの惣菜パンが用意されており、生徒向けに価格も抑えられているため、朝食を学校で済ませる生徒たちも多かった。

 学校では、部活動や自習、もしくは補習のために多くの生徒が登校してきている。

「真理ちゃん、おはよう」

 荒木真理が食べ終わった惣菜パンの袋を折り畳みながら振り向くと、そこには浅輪春奈の姿があった。

「おはよう、春奈さん」

 一時期、少し元気がないように見えたが、最近は少し表情も元の明るい春奈に戻ってきたように、真理には見えた。しかし、どこかまだ陰りのようなものが見える。

「もうスタートしてだいぶ経ってるね」

 真理の座る席の前方にある、学食の柱に設置された液晶テレビを見ながら、春奈は言った。

「うん、冬希君は、メイン集団にいるよ」

 春奈は、真理の向かいではなく、TVが見える真理の隣の席に、学食の後方に設置された自販機で買ってきたホットコーヒーを置いて、席に座った。

「今日はスプリントになるらしいね」

 真理は、TVの画面を見つめたまま春奈に言った。

「そうなんだ。じゃあ、冬希くんも優勝候補なのかな」

「でも、解説者の優勝予想は、露崎選手だって。真っ向勝負したら勝てる選手は国内にはいないだろうって」

「そんなにすごい選手なんだ」

「うん、高校2年の時から海外に渡って、本場のフランスで戦い続けてたんだって」

「海外・・・」

「国内の選手たちとは、レベルが違うって。話した感じは、変な人だったけど」

 真理は、第2ステージのレース後に話かけてきた露崎の姿を思い出していた。

 春奈は、じっと画面を見つめたまま、黙り込んでしまった。

「あ、冬希君が映った。なんか話してるね。話してる相手が露崎選手だよ」


 37周を過ぎ、ようやくスプリンターチームが集団のコントロールを始めた。

 しかし、レースペースが速くなるわけではなく、相変わらず逃げ集団とのタイム差は1分以上に広がることはなかった。

「俺がフランスに渡ってすぐは、伝手とか何にもなかったから、本当に大変だったんだ」

 郷田、冬希は、挨拶をしてきた露崎と、雑談タイムに入っていた。

「だから、俺の口利きでコンチネンタルチームに入れるっていうのは、凄いラッキーなことなんだぞ」

 露崎は、相変わらず郷田の勧誘に余念がない。

 郷田も、嫌な顔ひとつせず、冬希と一緒に露崎の話を聞いている。

「大変だったって、お金のこととかですか?」

 冬希が、勧誘の話になりそうなところで、話を引き戻す。

 純粋に、フランスに渡るということがどういうことか、冬希にも興味があった。

「いやぁ、海外に行くってだけで、もう大変なんだよ。やっぱり文化の違いだな。凄いホームシックになってたよ。何度、全てを放り出して、自転車も置いて、空港まで行って財布一つで日本に帰ろうと思ったことか」

「うわ、大変だったんですね」

「よく我慢できたな。露崎」

 郷田も話に入ってきた。

「いや、日本に戻ってきても、居場所ないなと思って。全国高校自転車競技会を、途中で放り出してきちゃったからなぁ」

「大見栄きってフランス行った手前、戻り辛いですよね」

「いや、単純に石とかぶつけられると思ってたから」

 冬希と郷田は苦笑した。後を濁さずにフランスに渡ったわけでは無さそうだ。

 雑談する3人の後ろには、坂東の姿があった。


 ピットウォールの内側で、神崎高校の理事長兼監督である神崎秀文、平良潤、平良柊の3人は、メインストレートを駆け抜けていく100台超のロードバイク を見つめていた。

「珍しいですね。郷田さんがそんな大見栄をきるなんて」

「彼も、全日本チャンピオンになってから、いろいろ考えるところがあるんだと思うよ」

 尾崎ではないが、海外にいる露崎が最強で、日本で行われる今後全てのレースが、日本2位決定戦のような現実を受け入れたくはないのかもしれないと、神崎は思っていた。

 神崎高校としては、全国高校自転車競技会で総合優勝した船津が、インターハイでは露崎の軍門に降った。神崎自身、そこに苦々しい思いが全くないわけではなかった。

「でも、今の露崎選手のスプリント力は圧倒的です。冬希が3年生であったなら、まだ勝負できたかもしれませんが」

「そこまでは待てないからね。もう郷田君も露崎君も高校生じゃなくなっている」

 神崎は苦笑した。

「この戦いは今日終わるんだよ。いいじゃないか。郷田君と青山君で束になってかかって、勝てなかったらそれまでだったということだよ」

 露崎が高校生という身分で日本に戻ってレースに出ることは、恐らくもう無い。

 この先などないのだ。


 40周目、残り10周を過ぎると、メイン集団がペースアップした。

 逃げ集団を捕まえてラストスプリントに備えるためだ。

 43周目には、逃げ集団は吸収され、メイン集団からもちぎれていく。

 しかし、40名程度まで絞られていたメイン集団は、現在は80名程度の大集団となっていた。

 周回遅れで走っていた選手たちが、続々とメイン集団に合流してきた。大集団の後ろにつけた方が楽だという選手もいるし、周回遅れながら、記念にゴールスプリントに参加してやろうという選手もいた。

 今回のルール上は問題ないのだが、優勝争いの邪魔をされたくないスプリンターチームは、この状況を苦々しく思っていた。

 残り5周、距離にして10kmを残したところで、慶安大付属の阿部と植原が、メイン集団の先頭に立ち、ペースアップした。

 露崎のゴールスプリントに備え、メイン集団内の不純物を取り除いて置こうという動きだ。

 2周ほどで、メイン集団の人数は、50名ほどまで絞られた。

 レース中盤では、多くの選手が記念でメイン集団の牽引を行ったため、各スプリンターチームのアシストも、みんな十分脚に余裕がある。

 ここまで多くのチームが万全の状態でスプリントに臨めるレースは、滅多にない。

 殆んど天を衝く勢いで、選手たちの「気」がメイン集団を覆い尽くしていた。

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