第190話 高校総体自転車ロード 第3ステージ(霞ヶ浦〜筑波山)⑤

 佐賀大和の坂東輝幸は、先頭で下りを終えて、洲海高校の千秋秀正を従えたまま平坦区間に入った。

「よく頑張ってるじゃないか、ここからはしばらく平坦区間だ」

 坂東は、優しく千秋に話しかけながら、引き続き逃げの二人についてくれているニュートラルカーから受け取った2本のボトルのうち1本を渡した。

 千秋も、登り初めのタイミングでボトルの水をほとんど捨てており、あざーすと礼を言いながら受け取り、口に含んでゆっくり飲んだ。

 坂東をよく知る人たちからすると、他校の1年に優しく話しかけることなどあり得ないし、先頭交代しない選手にボトルを渡すなどあり得ないとわかっているのだが、先輩達の出場レースである全国高校自転車競技会も、全日本選手権も見てこなかった千秋は、親切な人もいるものだと、感謝すらしていた。

 しかし、一口飲んだ瞬間、坂東が人の悪い笑みを浮かべて、千秋の方を振り返って言った。

「飲んだな。よし、飲んだ分お前には働いてもらおう」


 インターハイ3連覇中の清須高校の岡田は、1回目の登りの途中でアタックをかけ、そこで脚を使ってしまっていたが、山頂で待機していた後輩の赤井と合流し、赤井が岡田を曳くことで、リードを保ったまま岡田の脚は回復していた。

 途中、山岳ポイントを通過した秋葉は抜いた。

 下りが終わり、コースが平坦になっても、先頭を走る坂東の後ろ姿を捉えることは出来ていない。

「岡田さん、前がまだ捕まりませんね」

「相手は、元全日本チャンピオンの坂東だ。そう簡単に捕まえられる相手ではない」

 しかし、岡田には登り始める前に坂東は捕まえられるだろうと思っていた。

「赤井、次の登り始めまで全力で曳け。後ろは早いぞ」

「はい」

 ここから先は先頭交代はない。岡田に可能な限り脚を温存させたまま、2度目の不動峠の登りまで連れていくのが、赤井の仕事だった。


「ペースを落とすな」

 坂東から低い声で、叱咤される。

 坂東を牽引しながら、千秋はなぜこんなことになったのかと、情けない気持ちになった。ドリンクボトルの水の一口で、どこまでこの人は自分を働かせるのか。ぼったくりバーとやらに引っかかった人は、きっとこんな気持ちなのだろうと、取り止めのないことを思った。

 メイン集団を抜け出して逃げ集団に合流した時、坂東は何も言わず、千秋を受け入れてくれた。

 風返峠からの下りで、わざわざ千秋のついてこれるペースで、一緒に下ってくれた。

 どうやらこれらも全て、自分をこき使うためだったのだと、千秋はようやく気づいた。

 ボトルの水を飲んでなければ、そんな義理はないと、突っぱねることもできた。だが、坂東からもらった水を飲んだことで、千秋の心にほんの少しだけ、負い目が生まれた。

「少しだけでいいから、曳いてくれ」

 そう言われて、もう随分な時間牽引している。

 坂東の目的は、平坦区間をこのまま進んだ先にある、中間スプリントポイントだった。

 後続からは、第1ステージ2位の赤井、現在のグリーンジャージの冬希、スプリントポイント2位の露崎が迫ってきている。この3人には、中間スプリントポイントを1位通過されてはならない。

 ある程度のペースで走らなければならないが、中間スプリントは、明日も明後日もあり、今日1位通過したとしても、疲れて明日1ポイントも獲れなかったなどという事態になれば、意味がない。

 そこで、中間スプリントにも山岳ポイントにもステージ優勝にも、全く興味のなさそうな千秋という1年生を使うことにした。中間スプリントポイントを2位通過させれば、後続の選手達の獲得するポイントを減らすこともできる。

 随分と変わった男だが、坂東はこの、何に対してもやる気のない男をそこまで嫌いではなかった。

 坂東の後輩の天野は、真面目すぎるところがある。千秋の、いい具合に手を抜く姿勢は、天野に見習ってほしいぐらいだと思っていた。

 国道125号線を進んでいると、中間スプリントポイントのアーチが見えた。

「仕方ない。先頭を代わってやろう」

「いや、流石に中間スプリント獲りたいことぐらいは、わかりますよ」

 千秋は、恩着せがましい坂東に抗議の声を上げつつも、特に抵抗することなく坂東に先に行かせる。

 中間スプリントは、坂東が1位通過で20pt、千秋が2位通過で17ptを獲得した。

 通過後、すぐに坂東はまた千秋の後ろについた。

 ボトルの水一口で、どこまでこの使役は続くのだろう、と千秋は小さくため息をついた。


 第1グループの千秋、坂東、そして第2グループの赤井、岡田に続いて、メイン集団と言っていい船津や尾崎の第3グループも、下りを終え、平坦区間に入る。

 これに、パンクで遅れた植原、露崎の第4グループを含めても、第3グループが人数の上で1番有利だった。

 なにしろ人数が多い。

 下りの途中で冬希が千切れたが、それでも神崎高校の船津、洲海高校の丹羽、尾崎、日南大附属の有馬、福岡産業の近田、舞川がいる。

 この中で、船津、尾崎、有馬、近田の4人は、総合優勝争いをするライバル同士だったが、前を逃げる岡田を捕まえるという共通の目的のため、アシストの丹羽、舞川も含めて全員で協調して、先頭交代をしながら前を追っていた。

 第2グループは、赤井がずっと単独で先頭を曳いており、先頭交代を続けて追ってくる第3グループは、どんどんと岡田との差を縮めていった。

 しかし、船津にも不安はあった。

 確かに平坦区間では人数が多い自分達の方がペースは速いが、たとえ登り口までに岡田に追いついたとしても、先頭交代に参加して脚をつかった自分達に比べ、岡田はまだフレッシュな脚を残しているはずだ。

 登り始めからの戦いで、すでに岡田より不利な状況であること、船津は再認識した。


「植原、ご苦労だった。ここまででいい」

 下りを終えて平坦区間に入ったことを確認した露崎は、慰労の言葉をかけた。

「まだ、曳けますよ」

 風の抵抗を一身にうけながら下ってきた植原は、疲労の色を浮かばながらも気丈に言い切った。

「いや、ここからはそろそろ本気で行かないと、追いつけないからな」

 植原は、暗に自分のペースで走っていては追いつけないと、露崎が言っていることを理解した。直接そう言わないところが、露崎なりの優しさなのだろう。

「わかりました」

「じゃあな、行ってくる」

 露崎は植原の前に出てペースを上げると、植原からはあっという間にその背中が見えなくなった。

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