第189話 高校総体自転車ロード 第3ステージ(霞ヶ浦〜筑波山)④
露崎が、後輪がパンクしていることに気がついたのは、岡田がアタックをかけて丹羽、尾崎がそれを追いかけて、メイン集団がペースアップをしたタイミングだった。
露崎は、自転車を降りて後ろを振り返るが、不動峠への道は狭く、なかなかニュートラルカーが上がって来れていない。
露崎にトラブルが発生した時、メイン集団は岡田のアタックにあわせてペースアップをしたタイミングだった。
総合リーダーにトラブルが発生したとはいえ、待ってはくれないだろうというのは、露崎にもわかっていた。
「面白くなってきたと思えばいいか」
フランスで毎週のようにレースに出ていると、パンクをすることぐらいは何回かあった。観客にホイールを借りて走り続けたこともあれば、諦めてゴールせずにそのまま帰ったこともある。トラブルには慣れて居た。
露崎にも幸運はあった。
露崎の自転車は、加入予定のコンチネンタルチームが用意してくれたチームオフィシャルの自転車で、ディスクブレーキ仕様となっている。
冬希が乗る自転車は、リムブレーキと言って、ブレーキシューがホイールに直接当たる、一般の自転車と同じ構造になっているが、ディスクブレーキのバイクは最新式で、雨が降った日の制動力が優れているという利点があった。
しかし、慣れていないとホイール交換に時間がかかるという難点もある。
露崎の幸運は、ニュートラルカーのメカニックが、ディスクブレーキのホイール交換に慣れており、露崎も目を見張るようなスピードであたらしいホイールに付け替えてくれた。10秒掛からなかったぐらいだ。
露崎は、メカニックに丁寧にお礼を言った。
「ありがとうございます。プロってすごいですね」
「あきらめないで、頑張って」
「はい」
露崎は、自転車にまたがると、本気で前を追い始めた。
しばらく走ると、植原が待っていた。
「メカトラですか?」
「ああ、腕のいいメカニックさんがいてくれて助かった」
「全力で曳きます」
「頼む」
植原は、露崎を従えて、ハイペースでメイン集団を追っていった。
メイン集団からのアタックで、後続に1分ほどの差をつけた岡田は、山岳ポイントのアーチで待っている赤井の姿を見つけた。
「ご苦労」
「お疲れ様です。岡田さん」
赤井は、ニュートラルのバイクから受け取っていたボトルを岡田に渡す。
「曳けるか」
「無論です」
赤井は、岡田を曳いて笠間つくば線の下りを全力で下っていった。
岡田達に2分差まで詰め寄られていた逃げ集団は、既に秋葉、千秋、坂東の3名になっていた。
秋葉は、山岳ポイントが今日のゴールのようなものだったので、危険を冒してまで下りで攻める必要はない。安全に下っていた。
それに対して坂東は、下った後にある中間スプリントポイントが目的地であり、後続の岡田や赤井に1位通過を奪われるわけには行かない。ある程度のペースで笠間つくば線を下っていく。
坂東が秋葉を抜くと、秋葉についていた千秋は、今度は坂東の後ろについた。
先頭の選手をマークしろという尾崎達の指示を、律儀に守っていた。
坂東は、千秋が後ろをついてきているのを確認した。
そして、千秋がついて来れる程度のペースで下っていった。
先頭に、坂東(佐賀大和)・千秋(洲海)。
2分ほど開いて、赤井(清須)・岡田(清須)。
さらに1分ほど開いて、丹羽(洲海)・尾崎(洲海)・舞川(福岡産業)・近田(福岡産業)・有馬(日南大附属)・船津(神崎)・青山(神崎)らのメイン集団。
そして2分ほど遅れて、植原(慶安大附属)・露崎(慶安大附属)、と続いていた。
登れないスプリンターである松平、草野は不動峠の登り始めで千切れ、比較的登れるスプリンターである土方、草野も不動峠を終える頃には、メイン集団には居なくなっていた。
走り慣れた筑波山、相変わらず調子の良い冬希は、最後尾ながらメイン集団についていっていた。
風返峠の登りの途中で、尾崎がボトルから水を取ろうと手を伸ばした瞬間、バランスを崩して転倒した。
幸い、斜度のきつい登りの途中でスピードが出ておらず、尾崎は肘を擦りむいた程度で、後続の舞川、近田達も余裕を持って避けられたため、混乱はなかった。
尾崎は、自分が緊張しているのを感じていた。
昨年の全国高校自転車競技会、露崎が去ってからの総合優勝。誰からも何も言われなかったが、誰よりも尾崎自身が1番自分に問いかけていた。露崎が海外に行くためにレースを去らなかったら、自分は総合優勝できていたのだろうかと。
露崎と直接戦う機会が得られた。
これからの人生、死ぬまで心の中に、消化できないしこりを残し続ける可能性もあった。
「本懐だ」
1年半、ずっと抱えてきた思いを遂げる機会が来た。肘の痛みが、緊張で体が硬くなった尾崎の目を覚まさせた。
舞川、近田、有馬、船津、丹羽、尾崎の順に、風返峠を通過し、下りに入る。
全員、山岳系のオールラウンダーで、冬希はとてもついていけない。
あっという間に6人は見えなくなる。しかし冬希は落ち着いて、安全に下れる最大限のペースで走り続ける。
冬希が、郷田仕込みの大味なコーナーリングで下っていると、一瞬で風のように露崎、植原が下っていく。
露崎が前に出て、まるで植原に下りを教えているかのようにも見えた。
植原は、恐怖と戦いながら露崎の後ろを下っていく。露崎は、軽くブレーキを握ったままにすることで、地面の振動を感じろと植原に言った。
植原は、その露崎のアドバイス通り、軽くブレーキを握ったまま、あとは露崎の動きに集中していた。
露崎からすると、ヨーロッパの道路は雨が降っていなくても極めて滑りやすいところもある。それに比べれば、日本の舗装路は素晴らしい。むしろ、下りで恐怖する理由がわからないぐらいだった。
「下り終えるまでに、集団に追いつきたかったが、流石に難しそうだな」
まだ余裕がある露崎に対して、植原は返事をする余裕もない。植原の目尻から恐怖の涙が筑波山に流れた。
会津若松高校の日向が牽引するグルペットは、ようやく不動峠に達していた。
30名ほどの大集団になっている。
不動峠の登り始めから、いくつかのグルペットが出来ており、松平と草野という有名スプリンターを擁するこのグルペットが、1番最後のグルペットだった。
北薩摩高校の1年生吉松幸喜は、先輩の怪我により、急遽選手に抜擢された。
吉松のインターハイ出場を、家族や親戚、とりわけ阿久根に住む祖母は喜んでくれた。
両親と祖母は、吉松に新しい自転車を用意した。
海外ブランドで、ディスクブレーキを備えた電動変速機能付きだった。
吉松は、受け取った時に、両親と祖母の前で、涙が止まらなかった。そして、絶対に活躍してみせると、3人の前で泣きながら叫んでいた。
吉松のバイクのトップチューブには、両親と祖母の写真が貼ってある。
一人じゃない、家族みんなで戦っているのだ。そう思って走り続けてきた。
しかし、吉松は、最後のグルペットから遅れ始めていた。
息が上がりそうになっては、脚を止め、回復したら再び走るということを繰り返し、なんとかちぎれずに走り続けてきたが、あるタイミングから、どれだけ脚を止めても、呼吸が楽にならなくなった。
吉松の前から、少しずつグルペットが遠くなっていく。
「グルペットで大事なのは、絶対に一人にならないことだ」
と顧問から言われていた。
「松平より後ろになると、完走は難しいっていうらしいからな」
出場している先輩二人が冗談混じりに話しているのを思い出した。
置いて行かないでくれ、それももう声にする余裕はない。必死にペダルを回す、涙が流れ始めた。
失格なんて嫌だ。両親も祖母も、期待して待っている。無理して買ってくれた自転車で活躍して喜んでもらいたかった。下を向くと、涙がトップチューブに貼られた写真を濡らした。
口から流れ落ちる唾液を吸い込む余裕もない。鼻水を拭く余裕もない、どれだけ苦しいのを我慢しても、グルペットはどんどん離れていく。
ついに吉松は力尽き、一人でグルペットからも遅れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます