第155話 全日本選手権⑧

 先頭集団と冬希、郷田、菊池、大里の4人との差は、先頭集団の一部の数人で先頭交代を再開したことで、タイム差の縮まる速度が鈍化していた。

 基本的には郷田一人で曳いていたが、郷田を休ませる目的で、定期的に冬希、菊池、大里の3人も先頭交代に加わった。しかし、その3人では、郷田ほどのスピードは出せない。結局は一時凌ぎにしかならなかった。

 大里は不思議だった。郷田ほどの選手が、3年の春に全国高校自転車競技会でアシストとして活躍するまで、無名だったことが信じられない。

「郷田さん、あんた以前に大会に出たこととかなかったのか?」

 菊池と冬希が先頭交代をしているタイミングで、大里は疑問に思っていたことを郷田に聞いてみることにした。

「ああ、福岡に住んでいたころ、一度だけ、個人タイムトライアルの大会に出場したことはあったな」

 郷田はボトルの水を飲み、呼吸を整えながら言った。

「福岡・・・そういえば去年、筑後川個人タイムトライアルで、6位入賞した高校生がいたって話があったな。もしかして、あんたか!?」

「よく知っているな。それほど話題になる成績ではなかったと思っていたが」

「どうりで。話題になったに決まっているだろう」

 菊池に先頭を替わった冬希が下がってきた。

「それって凄い成績なんですか?」

「成績自体は、問題ではないんだ。筑後川個人TTは、社会人に混じって入賞した高校生は過去にもいた」

 冬希の問いに、大里は答えた。

「じゃあなんで話題になったんですか?」

「その選手、つまり郷田さんは、タイムトライアルバイクではなく、普通のロードバイクで出場していたんだ」

 全国高校自転車競技会では、ステージの中に個人タイムトライアルは存在しない。過去には実施された時期もあったが、タイムトライアルバイクは非常に高価で、高校生でもタイムトライアルバイクを持てる経済的余裕がある家庭は、多くなかった。その結果、個人タイムトライアルのステージは無くなり、インターハイの自転車ロードレースでも、完全に別の競技として「個人タイムトライアル」というカテゴリが作られた。

 タイムトライアルバイクと、通常のロードバイクでは、空力性能が全く異なる。乗る姿勢も、肘を曲げて両腕を顔の前に揃えるような姿勢で体をコンパクトに折りたたみ、空気抵抗を極限まで抑えることができる。

 従って、通常であればタイムトライアルバイクとロードバイクでは、単独で走る状況下では、全く勝負にならないはずだが、そんな中で実業団や社会人に混じって6位に入賞するという成績を、郷田は残していた。

「うちはそれほど裕福ではなかったからな。タイムトライアルバイクなんて買えなかったんだよ。そこまで本気でレース活動をするつもりもなかったしな」

 大里は、郷田がアシストとして強力な選手であることを、改めて認識した。

「さあ、また俺が先頭を曳く。前を捕まえるぞ」

 息を整えた郷田は、再び3人を引き連れて先頭を曳き始めた。


 先頭集団は、相変わらず上手くいっていなかった。秋葉、舞川、坂東の3人しか先頭交代を行っておらず、残り6人は、自分達の脚を温存している。秋葉、舞川、坂東はそのことに猛烈なストレスを感じつつも、もはや別の方法は採れないと、黙々とローテーションを続けた。

 秋葉と舞川は純粋なクライマーで、平坦で先頭を走ることには、決して長けてはいない。次第に坂東が曳く時間が長くなり、残り8kmの時点で、もはや後方から追い上げているグループ神崎高校・シャイニングヒルの4人からは逃げきれないと分かった時点で、坂東も先頭を曳くことを止め、来たるスプリント勝負のため脚を回復することに努めた。

 

 残り3km地点、郷田、冬希、大里、菊池の4人は、ようやく先頭集団9名に追いついた。

 秋葉、舞川は、先頭交代に加わらなかった6人に対して、それ見た事か、という視線を向けた。坂東以外にも、冬希と大里というスプリンターが増えてしまい、クライマーたちの勝率はさらに下がることになってしまった。

 しかし、坂東はこの状況はそこまで悪くないと思っていた。残りは3kmで、冬希も大里もかなりのペースで追い上げてきたため、脚は残っていないし、ゴールまで脚を回復させるだけの時間もない。

 そしてもう一点、坂東は冬希の弱点を見抜いていた。

 短期間での急な減量のため、上半身の筋肉が落ち、冬希のスプリント力は低下していた。平均的に出せるパワーは落ちていないようだが、瞬間最大出力は、全国高校自転車競技会の時より落ちていた。

 坂東がそれを見抜けたのは、彼自身が全く同じように減量し、スプリントで勝てなくなった経験をしたからだった。スプリント力が低下し、しかも脚がほとんど残っていない冬希なら、坂東も十分に勝負できる自信があった。

 大里については、スプリント力だけで言えば、坂東とほぼ互角と言ってよかったが、坂東の脚は十分に回復しており、こちらは問題だとすらも思っていない。菊池に至っては、スプリント力はカスみたいなものだ。

 坂東は思う、神崎高校のスプリントは、郷田が冬希のアシストとして先頭に立ち、ゴール前で郷田が冬希を発射して勝つのが、いつもの勝ちパターンだ。だとすれば、郷田、冬希の後ろに坂東がつけ、ゴールスプリント開始時に後ろから差せば楽に勝てる。

 郷田がペースを落とし、冬希の脚を回復させようとする場合は、坂東が先にアタックを仕掛けてしまえばいいのだ。

 坂東は、郷田の動きを注意深く見守った。


 坂東は、ほぼ完璧に冬希たちの状況を読み切っていた。

 郷田は、先頭集団に追いつく前に力尽きる寸前となってしまい、最後は菊池、大里、冬希の3人で全開でローテーションしてきた。その結果、追いついたはいいが、集団の中で脚を溜めていた坂東と戦う方法を見出せないでいた。

 冬希の不安要素として、坂東の言った通り、最大パワーの低下もあった。

 ローラー台を使用した自宅でのバーチャルトレーニングで、以前ほどの最大パワーが出せなくなっていた。

 潤からは、減量をやめて上半身のトレーニングを再開すれば、すぐにパワーは戻ると言われたが、今日の勝負に限って言えば、全く自信が持てないでいた。

「青山、行けるか」

 追走の終盤、菊池、大里、冬希に先頭を回してもらったおかげで、ほんの僅かだが、脚を回復することができた郷田が言った。

 冬希は、坂東の方を見る。坂東は、ずっとこちらを見て視線を逸らさない。迷っている暇はない。こちらが仕掛けなければ、坂東に先手を取られて、逆転する機会を失うことになる。

「郷田さん、相談があります」


 残り2km、神崎高校が動いた。あと500m遅ければ、坂東がアタックを決めるところだった。

 郷田がペースを上げた。

 坂東は、追う準備をする。あとは冬希をマークして、ゴール前で差せば勝ちだ。

 しかし、坂東は自分の目を疑った。郷田の後ろに冬希の姿がない。郷田は牽引すべき冬希を置いて、一人でペースアップしたのだ。

 坂東は、慌てて振り返る。郷田に気を取られて気づかなかったが、冬希は坂東の真後ろにいた。

「坂東さん、追わないんですか?」

 坂東は、誰か追えよ、と集団の連中に叫ぶ寸前で、その言葉を飲み込んだ。


 集団の全員が、坂東の方を見ていた。


 舞川、秋葉を含む全員が、坂東に、お前が追えという視線を向けていた。

 ここにいる12人の集団の中で、1番勝つ確率の高い選手が坂東なのだ。そう言った意味では、確かに坂東が追わなければならない状況だった。

 しかし、坂東は今、冬希にマークされている。

 郷田を追うのに脚を使わされれば、坂東とて冬希に勝てる保証はなくなる。

 坂東は、郷田を追うためにアタックをする。しかし、冬希が剥がれない。

 急加速、急減速、蛇行、あらゆる方法を試すが、冬希も死に物狂いで坂東から離れないよう、徹底的にマークしている。

 このままでは、郷田に逃げ切られるか、郷田を追いかけた後に冬希に差されるかのどちらかだ。

「坂東さん!!」

 ふと、後ろから声がした。

 冬希が振り返ると、そこには、坂東のパンク時に自分のホイールを差し出し、脱落していたはずの天野がいた。

 天野は、冬希たちについていたニュートラルカーからホイールの提供を受け、ずっと単独で先頭集団を追い続けていた。

 通常なら追いつけないタイム差だったが、天野は諦めなかった。そして、郷田が抜け出した後、冬希と坂東の牽制のし合いで一気にスピードが落ちた先頭集団に、ようやく追いつくことができたのだった。

 冬希の注意が、一瞬だけ天野に行った、その隙を坂東は見逃さなかった。

 坂東は、あっという間に冬希を引き離し、郷田を追った。

「しまった!!」

 冬希は慌てて坂東を追うが、既にドラフティングの効果が得られるような距離には、坂東はいない。

 しかし、諦めるわけにはいかない。冬希は必死に坂東を追った。


「人使いが荒い」

 郷田は愚痴りながら、必死に逃げ続ける。心の中では、冬希に早く来い、お願いだから早く来てくれと叫び続けている。

 脚はもう残っていない。ペダルを踏み込む力もない。ほとんど慣性だけで走っているような状態だ。

 郷田は何度も振り返る。しかし、冬希は来ない。

 最後のコーナーを曲がって、坂東が追ってきた。もの凄い勢いだ。

 少し遅れて、冬希も最終コーナーから現れた。

 必死の形相で追ってくる。こんな冬希の表情は、見たことがない。

 何をしている。早くこい。郷田は、声に出そうとするが、もはや声を出す余力もない。

 坂東が、スプリントの体勢に入るのが見えた。

 冬希も、スプリントを開始する。

 まだ坂東が前に出ている。

 不味い。坂東が速い。

 冬希がスプリントを止める。

 何をしている、諦めるな。

 冬希が前を指差して、何かを叫んでいる。

 郷田が、ハッとした瞬間、郷田はゴールのアーチを通過していた。

 冬希が、ハンドルから両手離してガッツポーズをしようとして、バランスを崩しそうになり、慌ててハンドルを握り直す。

 郷田は、自転車を降りて、そのまま道路に大の字になった。

 郷田の厚い胸板が、大きく上下する。

 

 全日本選手権の優勝者は、郷田隆将。

 郷田は、全日本チャンピオンジャージを獲得した。

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