第125話 別れ

 神崎高校の理事長である神崎秀文は、結果を見届けるために福岡へ出張に行って、表彰式の後に学校に戻ってきた職員から、表彰式の時に、船津が着用していた表彰式用のサイクルジャージを受け取った。

 船津の総合優勝という結果に、神崎はもはや驚かなかった。第7ステージで尾崎を競り落としてステージ優勝した時点で、もう他の選手たちが船津を逆転するのは難しいだろうと思っていた。それは、神崎自身が現役選手だった頃の経験から導き出された判断だった。

 ジャージを持った神崎は、そのまま祖父のいる介護施設へと向かった。

 祖父は、すでに寝たきりで、顔は肉が削げ落ちており、威厳のある祖父からは想像もできないほど痩せていた。

 部屋に入ると、神崎を一瞥するものの、何も言わない。すでに神崎が自分の孫であることもわからなくなっている。

「神崎高校が、全国高校自転車競技会で、総合優勝いたしました」

 神崎は言って、祖父の前でジャージを広げてみせた。そこには、神崎高校という文字と、総合優勝、Championとプリントされていた。第1回から変わらないデザインだ。

「総合優勝だと・・・?」

 祖父は、目を見開いた。

「ステージ優勝ではなく、総合優勝だと言ったか!?」

 ここ数ヶ月、何を話しかけても反応らしい反応はなかったが、今、1番の反応を見せている。

「はい、総合優勝です」

 神崎は、祖父の反応に意外さを感じながらも、平静を保ちながら淡々と言った。

「体を起こせ、それを・・・見せてみろ」

 神崎は、電動でベッドを起こし、ジャージを手渡した。

「おおお、間違いない」

 表にしたり、裏にしたりしながら、学校名、総合優勝という文字をはっきりと確認した。

「やはりそうか、あいつはいつかはやると思っていたのだ。他の理事の連中もこれでわかっただろう、なあ光政」

 神崎はハッとなった。光政は、神崎の父親の名前であり、祖父は自分を父と勘違いしているのだということを理解した。

 認知症では、直前の記憶がなくとも、昔の記憶が残っていて、印象深かった時期まで記憶が遡ってしまうことがあるという。つまり、今の祖父の記憶は、神崎が全国高校自転車競技会に出場していた頃の祖父なのだ。

「秀文は、私の想像を超えてくれたぞ。さすが私の孫だ・・・」

 祖父の両目から、涙がとめどなく流れ落ちる。

「それを、見えるところにかけてくれんか」

「はい」

 神崎は、部屋のロッカーからハンガーを取り出し。寝ている状態の視線からでも見える位置に、総合優勝のジャージを掛けた。

「ありがとう。今、私は人生で最高に幸せだ。こんなに幸せだったのは、秀文が生まれた時以来だな」

 神崎ははっとなった。自分が、祖父にどれほど愛されていたかを、改めて知った。そして、祖父がもう長くないということがわかっているため、胸が押しつぶされそうなほど苦しかった。

「ベッドを戻します。お体に障りますので」

「ああ」

 祖父はじっとハンガーにかかったジャージを見つめている。

「あのジャージは置いていきます」

「ああ、ありがとう」

 祖父は目を細めて、ジャージを眺めている。

 神崎は、部屋を出て扉を閉めると、扉に向かって深々と一礼した。

「お祖父様。ありがとうございました」

 神崎は、耐えきれなくなって、泣き出していた。これが、最期の別れになるであろうことは分かっていた。


 そして、翌朝7時ごろ、神崎秀文の祖父であり、学校法人神崎学園の創設者かつ、初代理事長である、神崎義光は息を引き取った。

 その死に顔は、心から幸せそうに見えた。


 冬希が、神崎理事長の祖父が亡くなったことを聞いたのは、第10ステージの翌日、福岡で浅輪春奈と一緒に、立花道之、堀あゆみとダブルデートをしている最中だった。

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