第111話 全国高校自転車競技会 第9ステージ(武雄温泉~脊振山頂)⑨
ゴールまで残り2km、ステージ優勝は目の前にあるが、後ろから船津と近田が迫っている。植原は、なんとか2人との差を維持しようとするが、有馬との競り合いで呼吸も脚も限界に近かった。
これ以上ペースを上げると、ゴールまで辿り着けなくなるという、ギリギリのところで走り続けている。だが、それでも恐るべき3年生オールラウンダー2名の脚色の方が遥かに良かった。
「勝ちたい、勝ちたい」
植原は、子供の頃から大人しく、聞き分けがいい性格もあり、そこまで強烈に何かを欲したことはなかった。親が心配するほど物事に執着もせず、江戸川で知り合った冬希が、先に全国高校自転車競技会のステージ優勝とリーダージャージを着用しても、素直に感心し、祝福することができた。
だが、今こそは、何がなんでも勝ちたいという衝動に駆られていた。
有馬と争った時、植原は良きライバルを得たと思った。同じ1年でも中学から争ってきた立花はどちらかというとスプリンタータイプであるし、立花自身、今は植原よりも冬希を意識している。
植原がここで負けてしまうと、有馬との勝負が無駄になってしまう気がしていた。そして有馬に勝った自分こそがこのステージの優勝にふさわしいと思っていた。
有馬との戦いは、植原にとって美しいものだった。そして、それは自分がステージ優勝することによって完成するのだと植原は信じていた。
しかし、無情にもその美しい勝負に土足で入ってくる強者が2人いる。船津、そしてその後ろ50mぐらいのところで近田。
「なんでだ」
植原の両目から涙が溢れ始め、それを止めることができなかった。
それは、己の無力さと、有馬への申し訳なさでもあった。
残り1km、ついに植原は、船津に追いつかれた。植原は絶望した。だが、そこで船津から信じられない声を聞いた。
「植原君、牽くぞ」
船津は、振り向きざまに植原にそう声をかけると、植原の前に入り、そのまま少しペースを落とした。
「はい」
理由はわからなかった。だが、植原は船津の後ろに入る。
平均5%程度の登りだが、ドラフティング効果で植原はペダルを回すのが楽になったのを感じた。そのまま、呼吸を整え、脚をためる。
植原を牽きながら、船津はずっと後ろを気にしている。それは、自分がついて来ているかではなく、その後ろに迫っている近田との距離を気にしているのだと植原は気づいた。
残り200m、船津は植原に先頭を譲った。そして植原の後ろに入ると、頻繁に後ろを振り返り、近田との距離を確認する。
だが、もう大丈夫だ。近田との距離は50mのままだ。
植原は、涙を流しながら、ゴールへ向かってペダルを回し続ける。真後ろにはピッタリと船津が張り付いている。だが、船津は植原を抜こうとする気配は一切ない。
「やったよ有馬、やったよ雛姫、みんな」
植原は、そのまま先頭でゴールへ飛び込んだ。
慶安大附属のマネージャー、沢村雛姫が今にも泣きそうな顔でタオルを持って植原に飛びついた。植原は既にゴール前からずっと号泣している。
そんな植原を見届けると、船津は1人待機エリアに自転車を進めた。今日は勝てなかったが、これでもう十分。総合優勝はほぼ手中に収めたのだから。
明日の最終第10ステージは、平坦コースでスプリント勝負になる。総合系選手は集団でゴールすることになるので、もはや逆転される心配はない。
疲れ切った表情の近田、そして有馬、かなり遅れて尾崎、秋葉、小玉と次々にゴールしてくる。
植原は、マネージャーに支えられながら、インタビューを受けている。その姿を、グルペットで無事に制限時間内にゴールした冬希が、羨ましそうに見ている。ステージ4勝している冬希が、苦労の末の1勝の植原を羨ましがっている様子は、船津にとってはちょっと面白かった。
調子は良かった。勝とうと思えば勝てるレースだった。だが、欲張り過ぎるのは良くない。初優勝をして喜んでいる植原を見るのも、船津にとっては気持ちいいことだった。
「いい天気だな」
船津は、脊振山頂で澄んだ空を見上げた。
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