第109話 全国高校自転車競技会 第9ステージ(武雄温泉~脊振山頂)⑦

「最悪だ・・・」

 植原は、独り言ちた。捕まえられたのは、尾崎1人であり、有馬はさらにその先にいる。

 調子を落としているように見えるとはいえ、尾崎は前年度の全国高校自転車競技会の総合優勝者だ。その尾崎を置き去りにするだけの力を有馬は持っているということになる。

 尾崎を抜くときに、張り付かれると面倒だと思った植原は、少し脚を溜めつつ尾崎に近づくと、加速して一気に尾崎を抜き去った。

 意外にも尾崎は、植原を追いかける素振りも見せずに、そのまま大人しく植原に抜かれていった。

 植原は、尾崎を抜くときに、その表情を確認した。

 苦しさの他に、諦め切った表情にも見えた。

 先頭集団が分裂する前、運営のモトバイクは、先頭集団とメイン集団に1台ずつ付いていた。現在その2台は、おそらく先頭の有馬と、後ろのメイン集団についているのだろう。

 有馬とのタイム差を知りたいと思ったが、それを植原に教えてくれる人は誰もいなかった。

 どれだけ離れているか分からない相手を追いかけるという行為は、植原を精神的にも、肉体的にも疲労させた。孤独に1人で走り続けていると、考えたくないことも色々と頭に浮かんでくる。

 同じ1年生でありながら既にステージ4勝を挙げている冬希のこと。彼は、スプリンターだから、こんな孤独な思いをしたりはしなかったのだろうとか、自分もスプリンターになればよかったとか、だが、自分にはスプリンターの適性はなかっただろうとか。

 そして、このまま有馬に追いつけなかったらどうなるか、自分が中体連で優勝できたのは、有馬の通っていた中学校に自転車競技部がなかったおかげだとか、有馬が中体連に出ることが出来ていたら、植原の総合優勝はなかっただろうと言われるのとか、中体連で自分に敗れた全ての選手達の気持ちを踏み躙ってしまうとか、マイナスな事ばかりが頭に浮かぶ。

 本来、前向きな性格をしている植原であったが、プレッシャーと焦りと孤独な気持ちが、植原の心を蝕んでいった。

 だが、残り4kmの標識を超えたところで、ついに植原は有馬の後ろ姿を視界に捉えることができた。


 先頭を走る有馬は、運営のモトバイクで、後ろに乗った人が振り向きながら何かを運転している人に話しかけたのを見て、追走の選手が見えていることを悟った。

 有馬は振り返り、新人賞のホワイトジャージを着用した選手が迫っていることを自らの目で捉えた。

「よりにもよって植原か」

 ホワイトジャージを着用しているのは、同じ1年生であり、有馬自身にとって特別な存在である植原だけだ。

 有馬にとっては、中体連で優勝した植原は嫉妬の対象だった。自分が中体連に出ていれば、立花や植原が相手でも勝てていただろうという自負があった。しかし、出場できていない人間がそれを言ったところで、相手にされるわけがないこともわかっていた。

 有馬にできることは、公の、そして中体連を超える、全国が注目するようなレースで植原を打ち負かすことだった。

 同じ1年生でステージ4勝を挙げている冬希は、恐るべきスプリンターであるし、同学年として意識もするし尊敬もするが、有馬がどうしても打ち負かしたい相手は、やはり植原だった。

 その植原が、逆に自分を打ち負かすために、今まさに追いつこうとしていた。

「仕掛けが早すぎた」

 有馬は後悔した。

 スプリントポイント前のタイミングで、尾崎達の静岡勢が仕掛けたとき、有馬はそれに便乗することにした。

 有馬は、尾崎の立場も理解していた。総合リーダーの船津を相手に勝つには、ステージ優勝だけではなく、タイム差を離して勝つ必要があった。だから尾崎は早めに動かざるを得なかった。

 一方、有馬が目指すべきは、ステージ優勝であるため、後続とのタイム差は関係なかった。同タイムでも、なんだったら1mm差でも勝てばよかった。なので、有馬は尾崎と同じタイミングで仕掛ける必要はなかった。

 だが、有馬にとって前年度総合優勝の尾崎は、TVで見ていた尊敬する選手であり、その尾崎と一緒に走ってみたいという気持ちと、もしかしたら尾崎がそのまま逃げ切ってしまうのではないかという気持ちもあった。

 有馬の夢は、半分は叶った。尾崎の下りは芸術的であり、今すぐ宮崎に帰って尾崎のやった下りを練習したいという気持ちにすらさせられた。だが、同時に尾崎のハイペースに付き合った結果、早い段階でアシストの小玉を失い、尾崎をなんとか競り落としたのはいいが、脚も呼吸も限界が近く、急激に迫りつつある植原に、抵抗できるかどうか、もう自信がない状態だった。

「負けたくない・・・!」

 有馬は、もう一度自分を奮い立たせた。

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