転がった十円と缶コーヒー
里岡依蕗
転がった十円と缶コーヒー
昼休憩、いつもの自販機で缶コーヒーを買おうと会社が入るビルを出た。
いつもは近くの飲食店でラーメンやら丼やらを食べるが、最近は給料前でカツカツなので、本日も昨夜の残り物と作り置きのおかずを詰めた節約弁当だ。カツカツでも昼休憩のコーヒーだけは欠かせない、欠かしたくない。
いつもの白い自販機にたどり着いた。小銭とレシートの束しか入ってない財布から百円玉を取り出し、入れ口に入れ込む。百円の缶コーヒーの点灯ボタンを押し、ガタンと下に落ちてきた缶を拾い上げる。タブを押し上げ、一口飲む。
「はぁ、生き返る……」
ずっとパソコンに向かうのも、ずっと歩き続けるのも、あたりが暗くなるまで残業するのも、そんなに苦ではなくなった、というか無になってきた。立派な社畜に成長している。
周りも残業して当たり前の雰囲気だし、きっと残業代は出ているはずだから、普通の会社だと思っていた。しかし、久しぶりに会った友達に目の下のクマを心配され、改めて入社以来に給料明細を見ると、みなし残業代なるものが発覚した。最近たまに突然笑えてきたり、気がついたら涙が出ているので、相当まずいのかもしれない。そろそろ登録しているだけの転職サイトに応募してみようか?
「やっぱり、無理だよな……」
無名の大学から単位ギリギリで卒業した俺に唯一内定をくれた会社だ、他の会社が俺みたいな実績も能力もない、平社員を雇ってくれるだろうか?……多分、採用されてもまたブラック企業しか雇ってくれないだろう。
「はぁ……」
ほろ苦い、甘さ控えめのコーヒーが沁みる。やはりカフェインを摂取しないとやっていけない。午後からに向けて、気合入れるためにエナジードリンクも買っておこう、これは無駄遣いではない、体が欲している栄養だ。
飲み終わったコーヒーの缶を足元に置く。ちょっと高いが気合を入れるためだ、と自分に言い聞かせ、財布を取り出し、まず十円を……と、人差し指と親指で小銭を持ち、コイン入り口に入れようとした途端、
「……ぶぇっくしゅん! 」
鼻がムズムズしてくしゃみが出てしまった。手から離れ、凸凹な道路をコロコロ転がる十円。
「あぁ、俺の十円……」
十メートルくらい、右に左に転がって、自転車置き場の前で弧を描いて止まった。よくそんな転がったなぁ、お前。用水路に落ちなくて良かったよ。
「……よし」
周りを見渡し、人がいないことを確認。低くしゃがんで、ゆっくりと十円に近づく。
あと一歩で手が伸びる所あたりで、自転車が近づき、すぐそばでブレーキがかかる音がした。
「あ、すみませ……! 」
四つん這いになったまま一歩後ずさり、見上げると、見慣れない人が静かに十円を見下ろしていた。
随分とかした事ないであろう、使い古したモップみたいな白髪が混じった灰色の髪、元々白かっただろうヨレヨレのタンクトップ、工事現場の人が履いてそうな枯草色のダボっとしたズボン。頭にはどこかの球団の野球帽がのっている。
年季の入った自転車のハンドルには繰り返し使っただろうボロボロのタオルが巻いてあり、前籠には布やらペットボトルやら、おそらく生活必需品が詰め込まれた大きいリュックが乗せてある。
後ろの荷台には、大量の空き缶がパンパンに詰まったビニール袋が括り付けてあり、硬くなさそうな使い込まれた段ボールを荷台の上に置き、その上に寝袋のような物が太いゴムでぐるぐる巻きつけてある。
あれだ、この前走って営業先に向かう時に自転車ですれ違った人だ。欲にいうホームレス、と呼ばれる人だろう。
「「…………」」
突然目の前に現れた普通は出会うことのないお爺さんに、体が動かない。
しばらく十円を眺めたお爺さんは、スタンドをゆっくり降ろし、その場に自転車を止めた。そして、ゆっくり道路に落ちた十円を拾い上げた。
この街はホームレスかまでははっきり分からないが、このお爺さんみたいな人達はいる。自販機のお釣りが出るところを一台ずつ触って調べたり、自販機の下を這いつくばって探したりしてるのを見たことはある。
お爺さんはちらっとこちらを伺い、じっと手のひらにある十円を見つめた。俺が手を滑らせて転がってきたのを見ていたのかもしれない。喉から手が出るくらい欲しい、しかしそこのクマが酷い男が落とした小銭だろう、と。
一分くらい見つめた後、お爺さんがゆっくり口を開いた。
「……これは返す。だから、そこの、落ちとる缶を貰ってえぇか? 」
等価交換、というやつだろうか。アルミ缶一つと十円は等しい価値なんだろうか、缶を換金したことないから分からないけど。
「……その缶一つじゃあ、十円にもならん。でも、あんたも大変なんじゃろう? こんな爺さんにならんように、ほら」
お爺さんは俺の前に歩み寄り、よっこいしょ、としゃがんで俺のすぐ目の前に十円を置いた。
「兄ちゃん、無理して倒れたら、頑張ってきたものがみんな崩れるぞ、体を大切にしてな」
しばらく触れていなかった優しい言葉が体中に沁みて、気がついたら涙が出ていた。
「あ……ありがとう、ございます……! 」
「ん、邪魔したなぁ、ほんじゃあ缶はもらっていくな」
「あ、はい、どうぞ! こちらこそありがとうございました! 」
道路に置いていたコーヒーの缶を拾い、ビニール袋に押し込むと、お爺さんは歯のない口でにっと笑い、ひらひらと手を上げ、ゆっくり自転車を押してビル沿いに消えていった。
お礼を言うと同時に土下座をしていたのを、お爺さんがいなくなってから気がついた。
それから俺は、受理されるまで半年かかりはしたが、働いていた会社を辞めた。こんな奴を雇ってくれた新しい職場は、やっぱり忙しいけど、前より仕事量も減り、残業代もしっかり出る。年収も恐らく増えるはずだ。
辛いことがなくなったわけではないけど、あのお爺さんが言ってたように、無理して前の会社に居続けたら倒れていたかもしれない。
会社が変わったので出向く自販機も変わった。だから、あれ以来あのお爺さんに会ったことはないけど、きっと今日も自転車を押して缶を集めているのだろう。
お爺さんの名前も住んでるところも知らないけど、少しでも前よりいい生活をしてくれてることを願う。
了
転がった十円と缶コーヒー 里岡依蕗 @hydm62
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