雨の日だけ居る幽霊
木立 花音@書籍発売中
雨の日だけ現れる女の子の話
私は雨の日が嫌いだ。
雨の日は街の風景が霞んで見えるから、とか、雨の日は湿気が多くて、寝癖のつきやすい髪の毛が余計に外跳ねしてしまうから、なんて理由では決してなく、幽霊が見えるからである。
自分が霊感体質であると気がついたのは、小学校にあがった頃だった。
頃だった、なんて曖昧な表現になってしまうのには理由があって、それが他人と違うことなんだ、と認識したのが丁度その頃だったからだ。
『あそこにくろい服を着た女の人が立っていたよね?』
と何の気なしに告げた時の、驚いた母親の顔が今でも忘れられない。
もっともこんな体質なので、幽霊が見えることについては最早慣れっこだ。ただ、じっとこちらを見据えてくる大人しい霊もいれば、目が合うと、私の体質を見抜いて接近してくる霊もいる。そういった手合いは、はっきり言って苦手。
ただひとつだけ誤解しないで欲しいこと。
話の流れ的に、雨の日限定で幽霊が見えると誤解されそうだがそうではない。
雨の日限定で見える霊がいるのだ。私はあの子が――苦手なのだ。
* * *
「
映画館を出るなりそう訊ねてきたのは、私の交際相手である
私が如何にも女子高生です、という服装だから歳の差カップルに見えるのだろう。道行く人とすれ違うたび、ちらちらと振り返る視線を感じる。
そんな時、私はちょっとだけ優越感に浸る。
「ん、そんなことはなかったと思うけれど」
量が多すぎて、食べ残したキャラメル味のポップコーンを口に運びながら私は答えた。声のトーンを次第に落とし、語尾を少々濁しながら。
「ん~そっかあ? なんかずっと浮かない顔してたからさ。でもしょうがないよな。恋愛映画なら好きそう……って思い誘ったんだけど、まさか内容が略奪愛だったなんて」
「そうだね。思っていたより、内容が重かった」
自分の想定より低い声が出てちょっと驚く。そうだ、夕食はどうしようか? と意図的に明るい声を出して、なんとか場を和ませようと努力した。
丁度一ヵ月ほど前から公開が始まったこの恋愛映画は、大ヒットした文芸小説を実写化したものだ。豪華キャストを起用して大いに世間の話題を呼んだが、物語の本質は男女三人による三角関係を描いたもの。結末は確かに泣けるものだが、主人公の女性が彼と無理心中をして終わるので些か後味が悪い。
もっとも私の気持ちがいまひとつ浮かないのは、映画が面白くなかったとかそんな理由ではないんだけれど。
映画が終わったあと買い物をして時間を潰す。夕闇ひそかに迫るころ、全国チェーンのファミリーレストランに入った。
「毅は、なんにする?」
「えーと。俺は、チーズハンバーグ定食、ライス大盛りでね」
「よくそんなに食べられるね?」
多少筋肉質とはいえ基本的に彼は痩身である。いったいその体のどこにそんなに入るのか、とたびたび呆れてしまうのだが。
「……じゃあ、私も同じので。あ、でも、半ライスにしてください」
注文を確認し、頭を下げて立ち去っていくウェイトレスの背中。スタイルがいいのね、と見送ったのち、窓の外に目を移した。太陽は既に山間に沈み、大地を見守る役割を月と交代していた。
毅とのデートはもっぱら映画、ショッピング、喫茶店めぐりなど月並みだ。大学生なのに彼は車の運転免許を持っていない。だから遠出もできないし、ドライブという選択肢も当然ない。止むを得ないところだなあ、とは正直思う。
免許取りなよ、とたまに茶化すと、「そんな金がどこにあるんだよ」といつも苦笑いで彼は誤魔化す。どうやら、そんな気はまだないらしい。結局、「そうだよね。不景気な日本が悪い」というしょうもない結論で話は着地する。
毅と交際を始めたのは、ちょうど一年前の夏祭りの後だったろうか。親友だった
「今日はこれからどうする?」
二人分の会計をしながら毅が訊いてくる。その言葉の意味がわからないほど、高校二年生の私は子どもじゃない。この後俺のアパートこないか? 遠まわしにそんな意味だ。誰かと一緒に眠るときの、あの健やかさな心地良さがちらりと胸をよぎった。
「うーん。でももう暗くなってきたし、そろそろ帰ろうか」
「そっか。わかった」
財布をポケットにしまう彼の声が、少しだけ沈んで聞こえたのはきっと気のせいじゃない。
十七歳と十九歳。二人とも未成年かつ学生なのだから、出費は可能な限り抑えなくてはならないのだ。なんて、言い訳じみた台詞を心中で呟き罪悪感に蓋をする。
足早にファミリーレストランを出ると、最寄のバス停から路線バスに二人で乗った。
バスが走り出してからまもなく、ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。席に並んで座り、バスの窓を叩く雨音が強くなっていくのを聞きながら、マズイな、とふと思う。
「菜々瀬は俺と同じ大学を受けるんでしょ?」
彼が通っているのは、隣市にある大学の理工学部。
「うん、そうだよ」
将来の夢なんて、今はまだ漠然としているけどね。そんな台詞を言わずに飲み込む。
「勉強大丈夫? 成績落としたりしていない?」
「ん~たぶん、大丈夫だと思うけど。て言うかさあ、心配してくれるんなら、毎週デートに誘わないで」
違いない、と彼が乾いた声で笑った。
「もし勉強が遅れてるんだったらさ、今度家に行って教えてやるよ」
「あはは、本当に大丈夫だから」
曖昧に笑って誤魔化す私。私たちの交際は両親も公認なので、彼が自宅に来ること自体はなんら問題ない。それなのに、彼の下心が透けて見えると、私は萎縮してしまう。
そんなわけで、私はいまだに
「あ、ごめん。もう一個先のバス停まで行ってから降りるわ」
私に気づかい、バスの降車ボタンを押そうとした彼に声を掛ける。
「え、なんで? ここで降りた方が、お前ん家まで近いじゃん?」
「うん、そうなんだけど。ちょっと小腹が空いたからスイーツでも買って帰ろうかな~なんて」
「ふーん、変な奴。ハンバーグは食えなくてもデザートは別腹ってか」
「女の子だからね。いや、変な奴ってどういうことよ」
隣に座る彼の脇腹を小突きながら、バスの車窓を横切っていくバス停留所の姿をじっと見つめる。
──やっぱりいた。
バス停留所に設置された屋根の掛かった待合室の中に、白い人影を見つける。
間違いない、幽霊だ。
幽霊だと断言できるのは私が霊感体質だからというのもあるけれど、状況から既にわかっている。あの女の子は、待合室の中のベンチに何時も座っているのだ。雨の日になると──必ず。
彼女の家は、私の家から徒歩で十分の距離にあった。二人の家の中間点に住んでいたのが、二つ上の男の子である三嶋毅。私たちは、小学生のころから学区が同じだったこともあり、三人でよく遊んだもんだ。
春も夏も、近所の林や公園を三人で走り回り、秋は落ちている
菫は、背が低くて顔もちっちゃくて、ショートボブがよく似合う可愛らしい雰囲気の女の子。艶のある長い髪が自慢だったけれど、長身でがさつな性格だった私とは正反対の存在。
私はそこそこ男子に人気があったし、幼少期から恋愛事にも興味津々だった。そんな私が毅のことを好きになるまで、さほど時間は要さなかった。
最初に毅を好きになったのはきっと私の方で。
彼にしろ、そこはまあ一般的な男の子。小学校の高学年くらいにもなると、次第に異性のことを意識し始める。
からかっている振りをして毅の頬にキスをしたのは、小学校四年生になる春だったかな? 彼は喜んでいるというより困惑している様子だったけれど、間違いなくあれは私のファーストキス。
でも、楽しかったのは、きっとこの辺りがピークだった。
私と菫が四年生に進級したあたりから、私たちもクラスメイト達も、次第に異性とか性差に対して過敏になり始める。
男だから。
女だから。
たったそれだけの違いで、明白な線引きがされるようになっていく。
『毅と菜々瀬って、付き合ってんの?』
私が毅にべったりだったせいだろう。こんな噂がクラスで立てられると、あっと言う間に学校中に広まった。とたん、私と毅の関係もぎくしゃくし始める。
整った容姿のせいか。はたまた運動神経が良かったせいか。性格が明るいわりに、私はクラスメイトの女子の間で浮いていた。分かり易く言うと、妬み嫉みを集めていた。本当の意味で親友と呼べる存在は少なく、だからこそ、これ以上いらぬ波風が立つことを嫌った。
次第に毅と距離を置くようになり、話し掛ける頻度も減っていく。今にして思えば、最初に壁を作ったのは間違いなく私の方だった。
それなのに。彼と距離を置けば置くほど、砂粒のように小さい存在だったはずの恋心は、日を追うごとに大きく膨れ上がっていった。
気持ちを伝えてしまいたい。
でも、今はまだ時期じゃない。
相反する感情の狭間で大きく揺れつつも、私は自分の気持ちを心の奥底にしまいこんだ。
今にして思うと随分マセた話だが、兎にも角にもそんな私の一大決心が、菫に対して嫉妬の念を募らせる要因となってしまうのだが。
* * *
二人でバスを降りると、コンビニで適当にプリン等を買って帰途についた。
「じゃあ、また連絡する」
毅と途中で別れ自宅に戻ると、お風呂でぼんやりと今日一日の楽しかった出来事を想起する。パジャマに着替えると、湯冷めをしないうちに布団に入った。
楽しかったなあ、なんて、幸せな今の状況を噛み締めながら。
翌朝、リビングに吸い込まれると、テレビの音声が伝えてくる天気予報は曇りのち雨。
今のところ、天気はいいのにな、と玄関を開けカンカン照りの空を見上げる。九月とはいえ、まだまだ残暑が厳しい。
ローファーに踵を通し家を出ようとした矢先、「ねえ、菜々瀬」と母親が背中から声を掛けてくる。
「ん、なに?」
「お母さんねえ、今日、仕事で帰りが遅くなりそうなんだ」
「え、そうなの? 晩ご飯はどうしたらいい?」
「そんなに遅くならないとは思うんだけどね。今晩はカレーにするつもりだから、悪いけど学校帰りに買い物だけしてきてくれる?」
「しょうがないな」
笑いながら母親が差し出してきた紙に記されていたのは、『人参』『玉ねぎ』『カレーのルー』うん、なるほど。
「途中まで作っておいてくれたら嬉しいんだけど」
「うわ、めんどくさい。ま、別にいいけどさ」
母親から受けとったメモ用紙を制服のポケットに突っ込むと、「行ってきます」と告げて自宅を飛び出した。
急がないと毅を待たせちゃうかな。そんな事を考えながら、朝待ち合わせをしている交差点までひたすら走る。ちゃんと入ってないローファーの踵を直しながら。
今日もまた、平凡な一日になりそうだな~なんて、この時はそう思ってた。朝から苛烈な日射しを振り撒く太陽にそっと瞳を眇めた。
* * *
「うわーなにこれ」
放課後。昇降口から顔を出して空を見上げると、水に墨でも垂らしたかのように、どんよりとした雲が広がり始めていた。この段階になって私は、傘を持って来なかった自分の愚かさに気がついた。
しょうがない。取り敢えずバス停まで走ろう。
息せき切って走っていると、冷たさを増した風に頬のあたりがじんじんと痛む。気温が下がっている。今にも雨が降り出しそう。そんな予感は的中して、ポツポツと雨が降り出した。雨脚はどんどん強くなり、あっと言う間に頭の天辺からずぶ濡れになっていく。
まずい。
まずい、どうしよう。
強くなるばかりの雨。遠雷の音が遠く響く。
アスファルトを叩く雨音に混じって息づかいの音が聞こえた。喘ぐような私の呼吸ともう一つ。
──はあっ。
全身が総毛だって、引き寄せられるように顔を上げると、目の前にあのバス停があった。いつも女の子の幽霊が見える、あの。このまま買い物に行くならここからバスに乗るべきだろう。屋根の掛かった待合室もあるのだから、雨宿りするにも最適だ。でも──。
ダメだ。やっぱり怖い。
顔を伏せて待合室の前を通過しようとした時、白い影が視界の隅にはいりこむ。女の子の掠れた声が、雨音に紛れて聞こえる。
──どうして、……たの?
ひっ、と私の口から短く悲鳴が漏れる。「そこに居るの? 菫、そこに居るの?」
降りしきる雨のカーテンに遮られて見える待合室の屋根の下。そこに立っていたのブレザーの制服を着た女の子。
ショートボブの髪型。堀の浅い目鼻立ち。見間違えるはずもない。かつての親友、高木菫がそこに居た。ただし一年前と違い、透き通った体を私の眼前に晒して。
* * *
それは去年の八月。生憎雨となった花火大会の日の話。
月初に行われる市の花火大会は、私が通っている高校でデートイベントとして認知されているものだった。この花火大会に二人で行こうよ、と誘うことは告白と同義である。そんな感じの。私は、高校に進学してからできた新しい友人と花火を見に出かけた。恋人が居ない同士、傷を舐めあうような目的で。それでもなにかを期待するように、浴衣を着てしっかりとメイクまでして。
「雨で化粧が流れちゃうよ」
なんて毒づきながら友人とバスに乗って。
そうして花火の会場に向かう途中。私達は車窓からバス事故の現場を目撃する。
「うわーひでー事故」と友人は言った。「一本前の路線バスかな? 最悪だね祭りの日なのに」
「ホントだね」と私は苦い顔で笑った。この時はまだ、何も知らなかったから。
横転したバスに、まさか菫が乗っているなんて事も。彼女が重症を負って、近くの病院に救急搬送されている、なんて事も。
切っ掛けはおそらく、嫉妬だったんだと思う。
私と毅の関係が、疎遠になるのと時期を同じくして、彼と菫の間に親密な空気が漂い始めた。
中学のとき学校の廊下ですれ違うたび、毅が用事もないのに振り返っては視線を向けてくるのを背中で感じていた。
でも、私を見ている訳ではなかった。
私の隣を歩いていたのは菫だった。
二人がお互いに意識し合っていることは、私から見ても明白だった。
嫉妬で、頭がオカシクなりそうだった。
素直になれない自分の事を思うと、息が詰まりそうだった。
だから中学校を卒業するとき、毅が地元の公立高校ではなく私立高校を受験すると聞かされ安堵した。
これ以上二人が親密になっていく過程を、見せ付けられなくて済むんだと思った。
だがそれから二年後、菫が毅と同じ高校を受験すると言い出すと、私はたちまちのうちに焦った。進路を真剣に考えていなかった自分を呪いながら、このままでは菫に抜け駆けされると必死に勉強を始めた。授業料の高さに渋った親も説得し、なんとか私立高校に合格した。
こうして私達三人は再び顔をそろえる。彼が所属していたソフトテニス部に揃って入部した私と菫。三人で笑いあい、学校から自宅まで一緒に歩くことも多くなった。こうして、あの頃と同じ〝友人として〟の日常が再開された。
さらに状況が動いたのは、高校に進学してから数ヵ月後、季節が本格的な夏へと移ろい始めた頃の事。私は菫から、とある相談事を持ちかけられる。
「私ね。三嶋君のこと好きになってもいいかな?」
──知ってるよ。前から好きだったじゃん。
「なんで、そんなこと私に訊くの?」
「だって、菜々瀬も毅くんのこと好きだったらやっぱりまずいなあ、と思って」
──へえ。私も好きだって言ったら、引き下がるの?
「別に、関係ないよ。で? 告白したの」
「まさか!」と、菫は目を丸くする。「そんなことしてたら聞いてないよぉ。それでね、来週の花火大会、一緒に行こうって誘ってみようかな、なんて」
キャアキャアと黄色い声を上げて騒ぐ菫を横目に硬直してしまう私。
「あ……ごめん。やっぱり菜々瀬ちゃんも三嶋君の事好きだった?」
──今更、気付いたの?
なんて言えるはずもなく……そんな事ないよ、と誤魔化すに留めた。その後、他の友人に呼ばれた彼女は、「ちょっとゴメンね」と言うと、スマホを机の上に置いて教室から出て行った。
それは、ほんの出来心だったんだと思う。
もしくは、彼に対して素直に感情をぶつけられない自分に対する怒り。
だから二人の恋路を、ちょっとだけ邪魔したかった。
菫の告白を失敗させてやろうなんて、そこまで大それたことを考えていたつもりもない。
周囲の目を盗みながら覗き見た菫のスマホに記されていたメッセージは、『待ち合わせの時刻と場所。市民公園の案内板の前に十八時』
いわゆるデートの約束で、送信をした相手はもちろん毅。ふうん、と確認だけをして、彼女のスマホを元の位置に戻した。
それから一週間後。花火大会の当日になると、私は菫にこんなメッセージを送った。
『待ち合わせの時間、十七時に変更だってさ。毅が言ってた』
ほんのちょっとでいい。二人の間に擦れ違いの時間が生まれればそれで良かった。親友が一人公園で待ちぼうけになり、彼に不信感を募らせれてくれればいい。
もし菫が直接彼に連絡を取って嘘がバレたとしても、「ゴメン。勘違いしてた」って、軽く謝罪をするつもりだった。その程度の認識だった。
あんな結果を招くと知っていれば……こんな嘘などつかなかった。
私のメッセージにすっかり騙され、一時間早く菫が乗ったバスが、横転事故を起こしてしまう。彼女はお人よしだから、という認識が自分の中で欠如していたのも確かだが、本当に信じるなんて思ってなかった。無論、バス事故が起こることも、そのまま菫が病院で息を引きとるなんてことも当然望んでなかった。彼女に嘘をついたことを、今の今まで後悔する結果になるなんて──自分でも思わなかったんだ。
その後毅の方から告白を受けて、彼がずっと私のことを好きだったんだと知った。全部、全部、私の嫉妬と思い違いだったんだと知った。
後悔先に立たず。
だから私は、毅と交際している今でも本気で彼の胸に飛び込めない。ずっと彼女の姿が脳裏を過り、後ろめたさに胸が痛くなる。
全部、全部、私が悪いんだ……! 菫を殺したのは私なのに!
* * *
遠雷の音が再び響く。私と〝菫〟の視線が正面からぶつかった。
「ねえ、あなた本当に菫なの?」
自分でも白々しい質問だと思う。どこからどう見ても、待合室の中に居る幽霊は菫にしか見えない。
『──どうして、嘘をついたの?』
もう一度、〝彼女〟の声が聞こえた。今度は、先ほどより鮮明に。
「違う。私は確かに嘘をついたけど本当に違うの。あんな事になるなんて知らなかった」
『──でも、嘘をついたのは、本当だよね?』
「違う。そうじゃない。ああ……でも、ごめんなさい」
その時ちょうど停留所の前にバスが止まる。渡りに船とばかりに私は飛び乗った。後ろを振り返る余裕もなく、車道側後方の席に座る。バスが発進するまで外を見る勇気はなかった。
エアコンが効いている車内に背筋が冷え込んだ。気持ちの悪い汗が、雨と混じり合って背中を伝う。私の罪を暴こうと、暗闇がバスの後ろから追いかけてくるような錯覚に襲われる。──ごめんなさい、菫。ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
心中で謝罪の言葉を繰り返した。もうバス停は遥か後方だ。今後、雨の日はバス停に近づかないようにしよう、そうしよう。
どうにか呼吸を整え、顔を上げたその時のこと。
「……え? ちょっと待って! うわあ……!」
バス運転手の最初は掠れた、後半にかけて悲鳴に変わった声が聞こえてくる。乗客の悲鳴と、激しいクラクションの音が続いて重なる。たぶん、運転手が鳴らしているんだろう、とぼんやり思う。
何事だろう、とハンドルを慌てて切ろうとしている運転手が向けていた視線の先を目で追って、そして私は驚愕した。
「い、いや……嘘でしょ!?」
真っ黒なトラックが側面からバスの車体に突っ込んでくるのが見えた。
信号無視の車。まるで、去年の事故と同じ状況。そんな場違いなことを冷静に考えた直後、視界が真っ赤に染まり私の意識はぷつんと途絶えた。
* * *
夢でも見ているんだろうか、と私は思う。
見渡す限り辺りは真っ白で、まったく視界がきかない。私は靄のような霧のようなものが立ち込める空間を一人歩いていた。
何分歩いたのか。それとも何時間か。どれだけの時間、さまよっているのかもわからない。白い靄に包まれた道を、ただ進んでいるだけだ。
何処に向かって歩いているんだろう、と冷静な思考が首をもたげた瞬間、人の声が聞こえた。
……女の子の声。聞き覚えのある、大人しい雰囲気の声。
『ごめんね』
なぜだろう。そんな言葉が口をついて出た。
やがて人の姿が見えた。ショートボブの黒髪。ブレザーの制服。着こなしは校則通りで、その子の実直さがうかがえる。
『勘違いしないで。私別に怒っているわけでも、呪っているわけでもないの。──彼のこと宜しくね』
そうか。そうだったのか。彼女はもしかして、私を守ってくれたのかなと思った瞬間、唐突に視界が開けた。
* * *
「あ、あれ」
最初に目に飛び込んできたのは、白。夢の光景がまだ続いているのかな、とぼんやり思い、真っ白で四角いソレが天井だとわかるまで時間がかかった。
どうやらここは、私の家ではないらしい。
一つだけある窓から入り込む日射しは茜色。左腕に二本刺さっている点滴の管の先は、夕陽を鈍く反射している透明のバッグに接続されていた。
そうか、病院なんだ、と認識が思考に追いつき、辺りを見渡そうとしたところで異変に気がついた。
何かで首を固定されている。あ、そうだ。バス事故──と思ったとき人の声が聞こえた。
「ようやく目が覚めたか」
私の顔を覗きこんできたのは、少し疲れた様子の毅。
「毅。あの、私……」
「右腕の骨折と、むち打ちだけで済んだよ。お前が乗っていたバスの右側面に、信号無視のトラックが突っ込んだんだよ。その勢いでバスは横転。最初に連絡聞いたとき、去年のこと思い出して血の気がひいちまった」
「怪我人、いっぱい出てるの?」
「重傷者が何人かいるみたいだけど、犠牲者は誰もでなかったよ。まあ、不幸中の幸いってやつだ。でもさ、心配したんだぞ。お前一日近く意識が朦朧としてたから」
ああ、そうお前の母親なら、今食事行ってる、そう言って毅は備えつけの丸椅子を引っ張って腰を下ろした。
「一日も。そうなんだ」
さっき見た夢にでてきたのは、間違いなく菫だったと思う。本当に彼女は怒ってないんだろうか。私のことを恨んでいないのだろうか。それそも全て、私の感傷が見せた都合の良い妄想だったのだろうか。
そこまで考えたところで、一番大事なのはそこじゃない、と思う。
「ねえ、毅」
「ん、今度はどした」
「私、毅のこと好きだよ」
彼はごくりと喉を鳴らしたあと、照れくさそうな声で笑った。
「なんだよ改まって……なんか照れる。でも嬉しいよ。お前って、あんまりストレートに言葉にしてくんないからさ」
うん、そうだったかもね。
「私さあ」
「うん」
「菫が死んだ時、泣いたっけ?」
すると彼、今度は心底可笑しくてたまらないという風にお腹を抱えて笑い始める。
「ちょっと、笑わないでよ。なんか酷い」
「いや、悪い。だってさ、お前背中震わせてずっと泣きじゃくってたじゃん。そんなことすら覚えてないの?」
「そう、だっけ」
「ああ」
本当に覚えていなかった。彼が言うとおり、私はどうかしてたのかもしれない。菫が死んだ悲しさで泣いていたのか。それとも、自分が犯した罪に対する罪悪感で泣いていたのか。今となってはわからないが、きっとどちらでもいいこと。とにかく今、私がやらなければならないことは一つ。
「ねえ、毅」
「またか。今度はなによ」
「私が退院したらさ、菫のお墓参りに行こうよ」
「そうだな」と彼が言った。「アイツが好物だった。バームクーヘンでも買って行ってやろうぜ」
うん、とちょっとだけしか動かない首で頷いた私の頬を、温かい涙が一筋流れた。
~END~
雨の日だけ居る幽霊 木立 花音@書籍発売中 @kanonkodathi
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