第4話 クソ真面目な男
意外なことにも、朝起きたら体が軽い。
昨日スポーツジムで無心になって運動したおかげだ。
体は軽いのに心は重かった。
重い気持ちを引きずりながら、パンとコーヒーの朝食をとると会社に向かう。
毎度のごとく、エレベーターを待っていると真理から声をかけられる。
「凛、今日は待ちに待っていた日ね。」
軽く肩をたたかれたので、振り返る。
「凛、どうしたのその顔。何かに憑りつかれたような顔してるけど何かあった?」
よっぽどひどい顔をしていたのだろう。
真理の声で我に返ると、気持ちを入れ替えるために、軽く頬を叩く。
「どうしちゃったの。やっぱり何かに憑りつかれちゃったんじゃない。」
私の奇行を見て真理が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「昨日ジムで頑張りすぎて疲れちゃったみたい。ストレスが溜まってたから、気分転換に行ったつもりが、逆に疲れちゃったみない。」
笑いながら話す私を見てホッとしたのか、真理が続ける。
「まさか忘れてないでしょうね。今日、相馬さんが来る日よ。」
「そうだっけ、すっかり忘れてたわ。業務分担を考えないとね。」
「あれだけ楽しみそうにしてたのに忘れるなんてね。」
わざとらしく振舞う私に気付かないふりをしてくれた真理に心の中で感謝する。
フロアに着き自分のデスクに向かおうとドアを開けると、見慣れないスーツ姿の男がいる。
固まっていると、私をよそに真理が声をかけに行く。
気配に気付いたのか相馬さんが振り向く。
昨日、海で見かけた横顔が思いだされる。
固まっている私をよそにと、真理が相馬さんと挨拶をしている。
低くて心地のよい声が耳に入ると心臓が跳ねる。
男性と付き合ったことはあるが、仕事が忙しくなってからしばらく付き合っていない。
そればかりか、女性とばかり接していて、男性と話すのはよく行くカフェのマスターぐらいだ。
こんな調子で相馬さんと一緒に働けるか心配になる。
挙動不審な私に向かって真理が声をかける。
「ちょっと、凛何してるのよ。」
慌てて相馬さんに挨拶をする。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします。」
簡単に挨拶を済ませると、自分のデスクに向かう。
「ちょっと凛、相場さんにデスクを案内しなくていいの?私が案内するわよ。引継ぎもどうするのよ。」
真理の言葉にはっとする。
挨拶だけして何も案内していない自分に愕然とする。
いきなりこんな調子だと先が思いやられる。
気持ちを落ち着かせるために、休憩室で珈琲を入れようと思い真理に声をかける。
「真理、ごめん。急ぎの電話があるから、相馬さんを席に案内しておいてくれる。電話が終わったら、引継ぎするから。相馬さん、少しお待ち下さい。」
と相馬さんにも声をかけてから、休憩室に向かう。
休憩室で珈琲を入れて、一口飲むと気持ちが落ち着いた。
ただの同僚だと自分に言い聞かせ、相場さんの元へ行く。
「さっきはすみませんでした。急ぎの用事を思い出してしまって。これ珈琲です。みんな自分のマグカップを持ってきて、休憩室にある珈琲飲んでるんで、相馬さんも良ければ持ってきてください。」
相馬さんは私の手からカップを受け取りながら、
「ありがとうございます。本日より、よろしくお願いします。」
と低くて心地の良い声で返事をしてくれる。
業務内容については、面接のときにお願いをしていたから、その内容を再度確認する。
私のスケジュールの共有と水着販売のスケジュール管理と仕入れの管理、書類管理、各部署との連絡役等多岐に渡ってお願いしている。
加えて、マーケティングの仕事も一部お願いしようと口を開く。
「面接のときにはお願いしなかったのですが、来期のシリーズについてのマーケティングもお願いしようと思っているのですが、よろしいでしょうか。少し業務が多くなってしまうのですが。」
「構いません。お力になれるよう頑張りますので、何でもお申し付け頂ければと思います。」
「ありがとうございます。助かります。総務の子から共有スケジュールの使い方とかは聞いてますよね?このパソコンで全て見れるようになっているので。」
「全て聞いております。直ぐにでも仕事をやれる体制にあります。」
「それでは、これが資料となりますので。何か分からないことがあったら声を掛けて下さい。」
そう言って私は自分のデスクに向かう。
心臓はバクバクしているが、仕事と割り切ると案外不通にしゃべることができる。
何故こんなに緊張するのか自分でも分からない。
役に立ちそうもなかったら直ぐクビにすると本人にも言ってある。
どれだけ仕事ができるか見ものだと思いながら、自分のパソコンを開いて、うんざりする程のメールと格闘し始める。
午前中は何度か声をかけられるも、そつなく仕事をこなしている様子だった。
お昼の時間になったので、相馬さんに声をかける。
「お疲れ様です。お昼の時間はみんな外に食べに行ったり、持ってきたりしているので、お好きなようにして下さい。休憩時間も特に決まっていないので、好きなタイミングで休憩して下さいね。」
普通に話しかけれらた自分に感動する。
「ありがとうございます。この辺のお店を開拓するのが楽しみだったので、色々お店に行ってみます。」
今日初めて相馬さんの笑顔を見て心臓がドクンと音を立てる。
心臓の音に気付かないふりをしながら真理に声をかける。
「真理、お昼一緒にどう?」
「いつものところでいい?」
「オッケー。」
いつものやりとりをして喫茶店に向かう。
「改めて、相馬さんいい男ね。休憩室は相馬さんの話でもちきりよ。」
みんなが騒ぎ立てていることは予想できたが、改めて聞かされるとなんだか複雑な気分になる。
「朝行ったっきり休憩室に行ってないから、そんなことになっているとは知らなかった。」
「みんな彼女がいるのか知りたがってるわ。凛何か知ってる?」
興味本位で聞いてくる真理にも苛立ちを覚える。
週末見かけた美女とのことが思い出されるも、本人かどうかも分からないのでイライラしながら答える。
「仕事中にそんなこと聞くわけないよ。そんなことより早くメニュー決めて。」
真理は私の苛立ちを察したのか、それっきり相場さんのことを聞いてくることはなかった。
他愛もない話をしながら食事を済ませ、会社に戻る。
「休憩室寄って珈琲淹れようと思うけど、真理もいる?」
さっきイライラしてしまった罪滅ぼしのつもりで真理に聞いてみる。
「サンキュー。熱々のブラックで。」
珈琲を淹れようと休憩室に寄るとさっき真理が言っていた通り、若い女性社員が数人集まって相場さんの話をしているのが耳に入る。
聞き耳を立てるのも悪いと思い早く珈琲を淹れて、この部屋から早く脱出しようと真理と自分のマグカップを手にする。
食器棚の中に今朝相場さんに渡したコップがしまってある。
お昼休みに休憩室に来て洗って、しまってくれたようだ。
ということは、さっきの若い女性社員としゃべる機会があったのかもしれないと思うと複雑な気持ちになる。
気付いたら今朝、相場さんに渡したコップを手にして珈琲を淹れていた。
さすがに3つもコップを持てないので、お盆に乗せて真理のデスクによる。
真理は一瞬、お盆に乗っている2つのコップを見て何か言いたそうにしていたが、
「サンキュー」
とだけ言ってコップを受け取ると、すぐパソコンに目線を戻してしまった。
さっき、相場さんの話題をイライラしながら強制的に終わらせたことで、真理に気を遣わせてしまったと後悔する。
自分のデスクに戻る途中で、相場さんの机に寄って珈琲を渡す。
「市川さんの分と自分の分を淹れるついでに淹れたので、どうぞ飲んで下さい。」
「すみません、今朝に続きありがとうございます。」
気になっていたことを聞いてみる。
「コップ洗ってくれたんですね。仕舞い方説明し忘れてて、すみません。」
「ちょうど休憩室に社員の方がいて、仕舞い方を教えてくれまして。タイミングが良かったです。」
さっき休憩室にいた若い女性グループが思い出される。
「みなさん役職に関わらず、さん付けで呼び合う社風は風通しが良い感じがしていいですね。」
唐突に相馬さんに言われるも、今まで深く考えたことがなかったことなので返答に困る。
確かにうちの会社は役職名を付けず、さん付けで呼び合う。
社長の私も凛さんと呼ばれている。
「そうね、みんな私のことは凛さんと呼んでいる人が多いかな。役職に関わらずさん付けで呼んでいますね。強制ではないのですが、社風としてそうなってますね。」
「強制ではないんですね。」
「強制ではないわね。みんな好きなように呼び合ってるわ。」
「分かりました。ありがとうございます。ところで午後からの仕事ですが・・・」
あっという間に仕事の話に切り替わる。
切り替えの早さには感心するが、少し寂しい気もする。
呼び方について質問があったという事は、私のことも名前で呼ばれるかと思うとドキドキする。
一通り午後の仕事について話終えたところで、午後からの始業となった。
新作の発表会が近いこともあって、やることも多くばたばた仕事をこなしていく。
「社長、この資料ですが、ここに誤字がありますので修正をお願いします。」
社長と呼ばれて顔を上げると相場さんがチェックをお願いした資料を持って立っている。
社長と呼ばれたことに拍子抜けする。
さっき、さん付けで呼ぶのが社風と言ったはずなのに、役職で呼んでくる。
ただ、呼び方を強制するわけにもいかないので、不服に思いながらも
「ありがとうございます。修正したデータを送るので、印刷をお願いします。」
と次の指示を飛ばす。
「承知しました。」
と言って席に戻る。
余計な話をする気は一切ない素振りだ。
15時頃、相場さんがコップを持って席を立った。
恐らく休憩室に向かったのだろう。
一挙一動が気になってしまう。
後ろ姿を目で追いながら、何でこんなに気になったり、イライラしてしまうのか頭が痛い。
スマホを取り出すと、真理ににLINEをする。
『緊急事態。今日仕事の後呑みに行くべし。拒否権はない』
自由な社風と言えども、就業中に社長と専務が呑みに行く話をするのはまずいと思いLINEを送った。
打った後、直ぐ真理の席に行き小声で
「LINE確認して」
と言うと、真理は頷いてスマホを取り出す。
席に戻ったタイミングでポケットのスマホが揺れる。
『了解。迷える子羊ちゃん』
真理と呑みに行く約束をしたタイミングで相場さんが戻ってくる。
「すみません。休憩が長すぎましたか?」
ぼーっと相場さんを見てしまっていたようで、恐縮そうにしている。
「ごめんなさい、そういうわけじゃなくていいアイデアが浮かばなくてぼーっとしてたみたい。休憩は全然とってもらっていいので。」
と慌てて言って、パソコンに目を落とす。
相場さんも納得したのか、それ以上何も言ってこなかった。
やってもやっても、やることが次々に沸いてくる。
うんざりしながらも仕事を裁いていると、あっという間に終業時間になる。
「相場さん、初日お疲れさまです。今日はもう時間なので切り上げてもらって大丈夫です。明日以降は自分の仕事のペースで帰って下さい。残業する人はあまりいないので、みんなほどほどで帰ってますので。」
「承知しました。明日以降もよろしくお願いします。なんとなく仕事の全容はつかめたので、もっと効率よく仕事を回して社長の負担を下げられたらと思ってますので。」
相変わらず社長と呼んでくるのを不服に感じるも、私の負担を下げようとしてくれている心遣いは素直に嬉しかった。
「それではまた明日よろしくお願いします。」
帰る準備をしている相馬さんを見てしまう。
ついつい持ち物に目がいってしまう。
持っている鞄もセンスが良い。
一般的なビジネスバックじゃなくて、少しお洒落なリュックを背負い出口に向かっていく。
スーツにリュック姿は私の大好物だ。
そんな後ろ姿を眺めていると、後ろから声をかけられる。
「凛、見惚れているところ申し訳ない。仕事が立て込んでて、終わったら声かけるでいい?」
真理に見られていたことを恥ずかしく思いながらも、
「私も仕事が残ってるから、ちょうど良かった。終わったら声かけて。」
と言って、残った仕事に手をつける。
定時より1時間半ほど過ぎたタイミングで
「私きりがついたんだけど、凛はどう?」
ちょうど私もきりが良いところだったので、
「私もちょうど終わったところ。いつもの焼き鳥でいい?」
煙がもくもく立ち込める、おじさまで溢れかえる焼き鳥屋に向かう。
適当に頼んで乾杯をすると、真理が我慢できないかのように一気に話始める。
「私と凛の間柄に隠し事はないわよね。ぶっちゃけ相場さんどうなのよ。」
そう言われても、自分でもよく分からないので
「どうもこうも同僚であって、それ以上でも以下でもないよ。確かに背格好はタイプではあるけど、それ以上の感情は今のところない。」
「今のところっていう枕詞がひっかかるけど、何か進展があったら隠さずに教えてね。」
「そうだね、何もないと思うけど。ところで、何故か相場さんと話す時緊張するんだよね。久しく彼氏がいなくて、男としゃべる機会が少なかったから免疫が落ちてるのかな。」
「そんな訳ないでしょ。ちょっと前までとっかえひっかえ付き合ってたのが、嘘かのようにここ2年はおとなしいよね。凛は美人に加えて仕事もできるから、モテるのにもったいない。」
「なんか急に仕事が楽しくなってきて、男どころじゃなくなったんだよね。」
「相場さんとなら美男美女でお似合いよ。彼女いるのか聞いてみれば。」
真理はどうしても私と相場さんをくっつけたいようだ。
だけど、美女と一緒にいた相場さんらしき人を見かけた光景が頭をよぎる。
変な期待をして傷つくのが怖かった。
「興味ないし、変に気まづくなるのも嫌だからおとなしくしてる。」
そう言ってビールをぐっと飲みほした。
真理もそれ以上は言ってこず、2人で焼き鳥とビールを楽しんだ。
たらふく飲んで食べたところで、会もお開きにした。
真理と別れてタクシーで家に向かう途中、初日とは思えない程の働きをしてくれた相場さんを思い出す。
正直かなり仕事はできると思う。
仕事もできて、見た目もいいなんて完璧な男と思ったが、なんだか距離を感じるのは寂しかった。
秘書という立場柄、私をもっと距離を詰めてくるのかと思っていたが、そんなこともない。
面接の時に感じたクソ真面目そのものだ。
明日は少しでも距離が縮まればいいなと思いながら、飲み過ぎたせいで頭がぼーっとしてくる。
タクシーの心地良い揺れでいつの間にか眠ってしまっていた。
タクシーの運転手さんの声で目が覚める。
重い体を引きずって、シャワーも浴びずに服だけ脱いでベッドに倒れ込んだ。
一瞬で意識が遠のいていく。
お酒のせいだけじゃなく、相場さんという人物の登場で少し疲れていたようだ。
朝まで目が覚めることなく、ぐっすりと眠った。
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