第210話 血の否定
「……ダメか、やはり。どうもやり方が適切ではない気がしてきたな」
父の失望の声はもはや聞き慣れており、イリャヒの方もうんざりしている。
精神に強い負荷をかけると固有魔術が発現、あるいは覚醒するというのは、理論的には間違ってはいない。
果たしてクイードは、自分では高貴だと思っているらしい、下劣な笑みを浮かべた。
「そうだよな、お前にはもっと効く薬があるよな。仕方ない、それを処方しよう」
イリャヒは自分の顔が真っ青になっていくのがわかった。
こうなることを無意識に予見したからこそ、それに備えるためにあの昔の夢を見ていたのだと、今さらながら自覚が及ぶ。
そして、実際に対処できなければ意味がないのだ。
痛む体を引きずり、彼はなんとか立とうとするが、クイードはそれを無視して背を向ける。
まずい、なんとしてでも呼び止めないといけない!
「ま、待て……やめろ! やるなら俺をやれよ、ボケジジイ!」
「親に向かってそんな口の利き方しかできないガキの戯言を、私が聞く理由もないな?」
「黙れ、ふざけんな! お前はただ、中出し種付けに成功しただけの猿だろうが! それで立派な一人前の親御様か? 簡単だなオイ、頭蓋にタコでも詰まってんのか!? 一回でいいから俺らの精神に好影響を与えてみろよ! 嫌味、説教、文句、陰口、命令、誘導、言い訳、逆ギレ以外で物喋れねぇのかお前は? いい歳こいたボンボン野郎が、論ずるに足る人格形成した後で上からご高説垂れろ……いや、どうせ無理なんだからやっぱ普通に死ね! その方が早いんだよ!」
「聞くに堪えんな。やはり一度、灸を据えた方がいいらしい。お前がもっとも痛みを感じる箇所は、どうやらお前の心身ではないらしい」
クイードは地下牢から出て行き、鉄格子に鍵をかけてしまう。絶対に行かせるわけにはいかない。この間抜けを憤怒の表情で振り返らせる言葉など、いくらでもあるはずなのだ! 迅速に引き当てる必要がある! イリャヒは滝のような汗を流しながら、虚勢の笑みを浮かべて口角泡を飛ばす。
「俺を見ろ、クイード・リャルリャドネ! この、プライドでブックブクに膨らんだ自意識豚が、誰もお前のことなんか眼中ねぇってことに気づけよ!
知ってるぞ、俺は! お前とドラゴスラヴ・ホストハイド、固有魔術の属性が同じ爆裂系だよな? え? あいつを直に見ちまったことで、相当怖気付いたようだな、クイードちゃんよぉ!
ゲホッ……なぁ、そうだろ!? ボクちんたちじゃ他の四大名家に勝てないから、ボクちんたちの道具であるガキどもを育てて、ベッキベキに圧し折られちまったボクちんたちのチンケ極まりないゴミプライド様の仇を取ってもらうんでちゅ! ついでにビビり倒してお漏らししたオムツも替えてもらうでちゅ! バブバブ〜!
てめぇらダニクズの考えることなんざ、せいぜいその程度だろうが! ペラッペラ過ぎて見え透いてんだよ、バァァカ! いいとこの坊ちゃん嬢ちゃんは、死ぬまで坊ちゃん嬢ちゃんなんだな! そこに関しては勉強させてくれてありがとう! わかったからさっさと戻ってこい、あと火急的速やかに死ね!!」
喉を嗄らして叫びつつ、ノロノロと床を這って進むしかない自分を、イリャヒは惨めな
地下の廊下を足跡が遠ざかる。とにかくこちらに引き付けなければ終わる。
なんとか格子まで辿り着いたイリャヒは、握り締めて耳障りにガチャガチャ揺らし、思いつく限りの呪詛を吐く。
「なにが貴族だ、くだらねぇ! まさか自慢にでも思ってんのか!? お前らが勝手に生まれつきゴミなのは自由だが、俺たちの血管にリャルリャドネとかいうヘドロ混ぜてくれてんじゃねぇよ恥ずかしい! なにを平然と表を顔上げて歩いてんだ、虫ケラの分際で!
クソ以下のダニ野郎が、クソ以下のダニ小屋に何十年も引き篭もってたら、そりゃ自分を王様だと勘違いするわな!
なんの価値もねぇんだよてめぇなんか! この世に生まれてくることすら遠慮しやがれ、図々しいにも程がある!
どうしたよ、聞こえてねぇか!? 都合の悪いときだけ耳が悪くなんのか!? いつもの鼻クソ飛ばすみてぇな、耳障りなせせら笑いはどうした!? なぁ!?
この、高慢ちきなクソ漏らしで、親の遺産とママのおっぱいチューチュー吸うことだけが取り柄の、一族の誰より吸血鬼の誇りを裏切ってる、薄汚い出来損ないの使い捨ての……」
不意に、靴音が足早に戻ってくるのが聞こえた。もう一声だ、絶対に向こうには行かせない、釘付けにしてやる!
痛む喉で可能な限り息を吸い込んだ次の瞬間、イリャヒの左眼だけの薄暗い視界に、もっとも憎い男の顔が、あちらも憎悪を湛えて再び現れ、無言で指先を向けてくる。
視界が白化して全身に衝撃を叩きつけられ、イリャヒの意識は途絶した。
「…………あっ!?」
イリャヒも腐っても吸血鬼だ、ろくな灯りがなくとも夜目は利く。
しかしだからこそ時間感覚を完全に喪失し、地下牢で独り焦る羽目になる。
どうやらクイードの爆裂魔術を食らって奥の壁に叩きつけられ、そのまま気絶したようだ。
格子を掴んでいた五指はおそらく吹き飛ばされたのだろうが、すでにすべて生え揃っている。
ただ、心身ともに疲弊している自分の再生能力が今どのくらい機能しているかわからないため、やはり時間経過の指標にはならない。
しかしタイミング良く……なのか、悪くなのか、イリャヒはまたしても地下を近づいてくる足音を聞いた。
今度はダニ夫婦のどちらでもない。この小さく軽く、頼りないからこそ愛おしい響きは、間違いなく彼女のものだ。
もう一度床を這って格子まで辿り着いたイリャヒは、訪問者の姿を視認し……相手にかけるべき言葉を見失った。
「……にい、さん……」
ソネシエは、いつも母親に着せられている上等なワンピース姿だった。
白は彼女のあまり好きな色ではないと、あのボンクラどもは気付き……いや、気にもしないのだろうが、今はその純潔にところどころ、ドス黒い赤が染み付いている。
返り血だったらどんなにか良かったが、そうではないことはさすがにわかる。
あいつら、ついに5歳の娘に暴力を振るいやがった。もはや死ね以外の言葉が出てこない。
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