第209話 採るべき指針は、すでに示されている

 おっさんはしばらくして戻ってきたと思ったら、なんとさっきイリャヒが見ていたピエロを連れて……というかほとんど引きずる形で、どうだとばかりに胸を張っている。

 たまったものではないのは、拉致されたピエロの方だ。


「なんですか!? 私、なにかしました!?」

「いや、そういうんじゃねぇよ。ただ、このガキの質問に答えてやってほしいだけだ。

 よう、ぼうず。気になることがあるなら、直接訊くのが一番だぜ。ほら」


 そう言って背中を押され、イリャヒは戸惑っていたが、せっかくなので先ほどの疑問を、そのままピエロにぶつけてみた。

 ピエロも最初は困惑していたが、相手が小さな子供ということもあってか、分厚い白塗りメイクの上からでもわかるほど、満面ににっこりと笑みを湛え、舞台上でも見たおどけるような動きとともに、明るい声で答えてくれる。


「坊ちゃん、私たちピエロはね、なにがあってもこたえないのです。いつでも楽しく、嬉しく、笑っているので、笑いすぎて涙が出てしまうのです! あはは!」

「えっ……と、それは……」

「今日のサーカス、楽しんでくれていますか、坊ちゃん?」

「う、うん。すごく楽しいよ」

「なら良かった! また観に来てくださるなら、私、嬉しくて、もっともっと笑ってしまいますよ!

 よろしければ、また機会があれば、何度でも観に来てくださいね! それでは失礼!」


 持ち場に戻らなくてはならなかったようで、最後は少し焦りながらも、ピエロは楽しげに跳ねることを忘れず、愉快な足取りで戻って行った。

 イリャヒがもの問いたげに視線を向けると、おっさんは……思いのほか神妙な表情で尋ね返してくる。


「どうだった、ぼうず?」

「うーん……なんて言うんだっけ、はぐ……」

「はぐらかされた気がするっては、まぁそうだ。でもな、ぼうず。あいつはピエロとして、誠実に応えてくれたぜ」


 煙草に火を点け、一服してから、おっさんは重い口を開いた。


「なぁ、ぼうず。お前みてぇなガキの頃は、自分の心に正直でなきゃいけねぇ。


 お前くらいの年頃で変な癖がついちまうと、死ぬまで外れねぇ仮面を抱える羽目になる」


「こころに、しょうじき……?」


「あぁ、簡単なこった。笑いたいときに笑え、泣きたいときに泣け、怒りたいときに怒れ。


 そしてこれを意外に忘れがちなんだが、なにも感じないときや、どうでもいいってときには、そのまんまのツラでボーッとしてたって、なんにも悪いことなんかありゃしねぇんだぞ?


 親しい友の葬式に出て、ピーピー泣かねぇ奴は冷血漢か? 違うね、涙も出ねぇ悲しみや寂しさ、絶望や喪失感もある。情緒の安いタコ野郎の基準に合わせてやる必要なんかねぇ。


 兄弟姉妹を小馬鹿にされて、黙ってる奴は優しいか? 違う、身内を侮辱されたら拳で返礼するのが作法だ。……あ、これはちょっとこの話の主旨からズレるな」


「おじさん、おれはケンカ弱いんだけど、拳で殴れないときはどうしたらいいかな?」

「そりゃお前、武器でも魔術でもなんでも使っていいさ。特に姉貴や妹、恋人や嫁を侮辱してくるような奴は、普通に殺していいぞ」

「わかったよ、おじさん。ブッ殺すぜ」

「その意気だ、ぼうず。……えーっと、なんの話だったっけな……。


 そうだ。あと、センスゼロのくせに面白ぇつもりのしたり顔で、つっまんねぇジョーク垂れ流してる間抜けに、接待でウケたフリしてやる必要はねぇぞ。カスには誰かが、お前はカスでございますねって言ってやんなきゃ、自分じゃわかんねぇんだからよ。

 ま、ガキの頃はそうやって、無理するこたぁねぇって話さ」

「じゃあ、大人は違うの?」


 イリャヒの顔にかからないよう、反対方向へ思いっきり紫煙を吐き出してから、男は苦みを含んだ微笑を浮かべる。


「まぁな。大人ってのは……少なくともガキの前では、みんなピエロであれかしなんだよ」

「みんなピエロ?」

「あぁ。ピエロはな、観客を楽しませるのが仕事なんだよ。だからああしてお前みてぇな純真なガキに直接訊かれたって、しんどいことなんかなーんにもありません、楽しいことばかりです、この世はワンダーランド、日常が非日常! イェイ☆ つって、平気なツラで大嘘ぶっこかなきゃならねぇわけなのよ」

「やっぱうそなんだ」

「そう、嘘っぱちなの。でも、それでいいのさ。それが『役』を全うするってことなんだ。あいつの、ピエロとしてのな」

「役……」


 男は我が意を得たりと破顔し、煙草を持っていない方の手で、乱暴にイリャヒの頭を撫でてくる。


「お前は賢いから、そのうちすぐにわかるだろうぜ。

 自分一人が楽しくて、嬉しくて、自分一人のために笑ったって……そんなもん結局なんにも面白くねぇし、なんにも気持ち良くなんかねぇんだ。

 ガキの頃はそれでいいさ。でも大人んなったら、誰かのために笑えよ、ぼうず。

 自分を奮い立たせるために笑うっても悪くはねぇが、それだって限度がある。

 気を許せる、弱いところも見せられる仲間を……お前ならきっと作れるさ。

 周りを楽にするために、自分がどんなに辛くったって、そんなもんどうでもいいって、ヘラヘラニヤニヤ、いつでも笑ってやるんだ。

 ま、そんなふうに思えるくれぇ大切な相手に出会えるってのが重要なんだけどな」


 このときイリャヒの頭には、男の言葉と紐付けされて、イリャヒのために戯けてくれたピエロの口調や動作が、無意識にだろうが深く刻まれた。


「わかったよ、おじさん。でも、おれ、いつ大人になるのかな? さかいめがわかんないよ」

「また難しいことを訊いてくれるねぇ……だがここまで説教垂れたからには、答えてやらんといかんよな。

 いつ大人になるか? それは……」


 遠くから近づいてくる姿に気づいた男は、手短に結論を述べた。


「誰かを守れるようになったときだ。自分より大切な相手に出会って、そいつを守れるような力を得たときだ。

 齢は関係ねぇ。いつそうなるか、そうするかは、お前自身が決めるこった。

 そら、お迎えが来てるぜ、ぼうず。おっさんの長い話に付き合ってくれて、ありがとな」


 背中を押されたイリャヒは、両親の呼ぶ声に導かれて立ち歩く。

 お礼を言おうと振り返ると……男はすでにどこかへ消えていた。



 名前も知らない、一回会って話しただけの、おかしなおっさんだったが、不思議と彼の言葉は、幼いイリャヒの心に浸透した。


 そして12歳のイリャヒは、6歳当時の夢から意識が浮上し、今の自分が陥っている現実を思い出す。


 そもそもなにを想起しようとしていたのだったか、と考えを巡らせるが……すぐにそれを自覚するに至った。


 今見ていたのは、いわば走馬灯の一種だったのだろう。と言っても、差し迫る死を回避するための緊急手段を、経験記憶から高速検索するという、通常のそれではないが。


 採るべき指針は、すでに示されている。

 ならあとは、それを実現に移すだけだ。

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