黒の追憶

第207話 地獄を比べることはできない

 ジョエルズ夫妻は面食らった様子で顔を見合わせたが、すぐに表情を綻ばせた。


「おやおや、これはなんとも嬉しい歓迎ですな」

「ほんと、噂には聞いておりましたけど、お人形さんみたいにかわいらしいお嬢さんですこと!」


 それをきっかけに歓談が弾み、母が出ずから作った夕食も好評で、ジョエルズ夫妻は実に満足そうに帰っていく。

 ただ去り際に旦那の方が、ソネシエの肝が冷えるようなことを口にした。


「いやはや、しかし、坊ちゃんのお姿を見られなかったことだけが残念ですな。今夜はどちらに?」


 父は満面の笑みを微塵も崩さず、落ち着いて受け答えしている。


「いえいえ、お恥ずかしい……あれは少々出来が悪くてですね……今夜は軽い仕置きとして、部屋から出ないよう命じております。またの機会にお目通り願えれば幸いに思います」

「それはそれは、大変なことですなあ」

「そりゃあなた、イリャヒお坊ちゃんは今年で12歳の男の子でしょう? やんちゃの一つも働きたい年頃で、当然のことですわ。

 でもねえ、わかっておりますのよ。そういう時期があるからこそ、結局はお父上のような立派な紳士に成長なさりますものよ」


 それを聞いて父は上機嫌に笑い、夫妻を見送りに玄関へ出て行く。


「はは、そうだといいのですが! では、今度はもう少し、息子の躾が上手くいった暁にお会いいたしましょう!」


 大成功に終わった会食の、幕を下ろすように扉が閉まった。



 そしてここから、リャルリャドネ家の本物の晩餐が始まる。

 先ほどとまったく同じ料理が並べ直された食卓に就いたソネシエは、冷や汗で滑り、震えの止まらない手で、それでもなんとかフォークとナイフを握りしめる。


「ねえ、ソネシエ?」


 しかし不意に背後から母が発した声に怯み、丁寧にポワレされた魚を一切れ落としてしまう。

 あっ、と思ったときにはもう遅い。

 飛び散ったソースが真っ白なテーブルクロスに染みを作ると、母はごく自然な動作で、フォークに握ったソネシエの手をつねり上げてくる。


「あら? まだ減点し足りないわけ? もしかしてあなた、わざとやってる?」

「ち、ちが……」


 つねる力が強まり、ソネシエの手に血が滲む。しかし振り払うことは許されない。

 そんなことをしたらなにをされるか、彼女は想像できず、ただ恐ろしい。


「おかしいわね? 返事の仕方は、そういうふうに教えたかしら?」

「いいえ、おかあさま! おねがいです、やりなおさせてください!」

「やり直すって、どこから? ジョエルズ夫妻の前で間違えたテーブルマナー、計三点から?

 これでも結構甘めに評価したつもりだったんだけど、それすらクリアできないってどういうことなの? ソネシエ、あなた本当に真面目にやってる?」

「はい、わた……」

「返事の仕方!!」

「はい、おか、おかあさま!」


 ようやくつねる手が離されたが、代わりに両肩を押さえられ、母の甘ったるい、それでいて明らかに怒りを抑えた声が、耳から直接脳に流れ込んでくるのを、ソネシエは感じることから逃げられなかった。


「別にね、商談の成否自体は大した問題じゃないの。それよりもリャルリャドネが家格を落とさないことが重要なの。由緒ある吸血鬼の旧家、〈純血の黒〉を担う末裔としての自覚が足りないんじゃないの? イリャヒがあんなだから、もはやこの家はソネシエ、あなたのその細〜い体にかかってるのよ? どうしたの? どうしてそんなに痩せっぽちなの? お母様の作った料理なんか、不味まずくて食べられない? そういう当てつけなのかな?」

「いいえ、おかあさま!」

「どうだか……あーあ! あーほら、また手元が疎かになってる! 食べたくないか? 食べたくないから間違えるのよね? ごめんね、気づかなくて! じゃあもうこれは全部捨てましょう! はいやり直し! 全部一からやり直し!!」


 そのとき父が戻ってきて、惨状を喫したダイニングの様子に眉をひそめるが、そのまま素通りする。


「またやっているのか、付き合いきれん。程々にしろよ、リゼリエ。……そして、ソネシエ」


 わかっている。母はイリャヒに無関心だ。

 父と母は、いちおう愛し合ってはいたらしい。


「お前もお前だ。母様の言うことをよく聞くんだぞ。いい子にしなさい」


 そして父はソネシエに無関心なのだ。

 一瞬でも今夜は助けてもらえるのではないかと期待してしまったことで、彼女は自分の甘さを恨むしかなかった。

 かつ、それよりも、母の前で一瞬でも気を抜いてしまったことを後悔する。


「えーと、私の耳が悪いのかしら? お父様にはお返事しなくてよろしゅうございますと、一言でも申し上げましたかしら? 一つ言ったら一つ忘れる、一つ覚えたら一つ抜ける。ちなみになんだけど明日のお稽古やお勉強でも同じことをしたら……いいえ、違うのよ、罰じゃないわ。愛らしいわねソネシエは、私に構ってもらいたくて、わざとミスを働くんだから。ご褒美が必要よね。いいわ、何時間でも付き合ってあげる。ところでその手順は? 持ち方は? 角度は正しいのかしら? 今夜は眠りたくないというご要望でございましょうか、お嬢様? 付き合わなきゃならないお母様のご都合も考えてくださる? あーあ、教育ってこんなに大変なものなのね。うんざりなんかしていないわ、腕が鳴るというものよ。はいそこ違う! いったいどれを……」


 地獄の形は様々で、それらの残酷さを比べることはできない。

 生まれ落ちた場所によっては、いつまで経っても終わらない。

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