第193話 魂の伴侶よ、また会う日までさようなら

 勘違いして悩んでいたリュージュ自身も大概だが、チャールドの驚愕ぶりはその比ではなかった。

 顔を滝のように流れ落ちる汗によってずり落ちる眼鏡を何度も直すが、いつまでも滑って位置が定まらない様子である。


「えっ……え、ちょ……アハハ、やだなーデュロンくん、ここは冗談を口にする場面じゃ……」

「仮に冗談だとしても、優勝者である彼が口にした時点で確定事項だ。諦めろ、チャールド」


 いつの間にか彼の背後を参加していた竜人たちが固めていて、十何対もの琥珀色の眼たちが物々しい光を放っている。

 追い込まれた彼を正面から睥睨し、最後通告を言い渡すのは、他ならぬヴァルティユだった。

 彼女はまさしく獲物を捉えたドラゴンのように、口の端を上げて獰猛な笑みを見せる。


「〈ロウル・ロウン〉が課すルール、ラグロウルの掟は覆らない。これを犯す者は我らを相手に戦争を起こし、我らか彼らいずれかが滅びるのみだ。

 もっとも仮にそうなったとして、ミレインがまだお前の味方であるかは微妙だが……」


 そこまで言われるとさすがに理解が及んだ様子で、ブレントはいまだ貴賓席から見下ろすアクエリカを仰いだ。

〈青の聖女〉は微笑を浮かべ、凪いだ瞳は揺るがない。

 説得や交渉の余地がないというのは、リュージュから見ても明らかだった。


 見捨てられた子供のような顔をするチャールドに対し、ヴァルティユは容赦なく組み伏せて後ろ襟を引っ掴む。

 せめてもの抵抗として、チャールドは地に這い、慣れ親しんだミレインの石畳にしがみつく。

 その必死の形相に対し、リュージュも含めた竜の子らは、琥珀色の瞳に侮蔑ではなく同情を湛えていた。


「い、嫌だ嫌だ! どうして僕が若長をやらなきゃならない!? 僕程度の代わりができる子なんか、他にいくらでもいるでしょう!?」

「いやあ、実はそうでもないんだな。お前は殺しの発作に駆られていないときは視野が広いし、企画力もあって盛り上げ上手で、使い魔の作成・運用能力まで保証されているとくる。

 まあ十年後の〈ロウル・ロウン〉を仕切る際にはさすがに蚊は適していないから、家守ヤモリあたりを今度じっくり教えてやろう。

 問題ない、お前ならできるさ。そういえば礼拝堂で、後は頼むと言ったっけな」


 なにか心当たりがあるようで、チャールドはギョッとする反応を見せた。


「あ、あれは単に、ユアヒムの処理を任せるという意味だったはず……というかもしかしてあの時点でこうなることを、ある程度は予期してたんですか、ヴァルティユさん……!?」

「多少はな。もちろん願望寄りではあったが。よいではないか、よいではないか。これで今回のように不穏分子の排除を頼む際も、次は気兼ねなくできるようになるのだし、双方不都合もなかろう。だからお前……いい加減に悪足掻きをやめろ!」


 ヴァルティユが渾身の力で引き剥がしを試みるも、ブレントはおそらく内部循環も使って、文字通り石に齧り付き、立てた爪から血の痕が引く。

 眼鏡が落ちて転がるのも構わず、彼は全霊で叫んだ。

 もし自分が同じことを言い渡されていたらと想像すると、その姿をみっともないとは、リュージュには思えない。


「勘弁してくださいよ! 故郷に帰ることや、まとめ役を任されること自体は別に構いません!

 だけど、どうするんです!? 同胞を狙うのは当然ご法度だし、特にやる気もない!

 となると、あの山にいる獲物ってなんだ!? 鹿や猪や、貧弱な魔物やら盗賊程度を狩って満足しておけとでも!?

 冗談じゃない! この街以上に強大な異端邪教のクズどもを気兼ねなく潰して遊べる愉快な場所なんて、それこそ〈聖都〉ゾーラくらいのものですよ!

 僕は梃子でも動かないぞ! 戦って戦って、そして最後はこの土地に……」

「……骨を埋めるとでも言うのですか? あなたの亡くなった奥様が、それを望んでおられるとでも?」


 不意に、観客席から下りてきた黒服警備員の足音と声音が、やけに静まり返った闘技場内に、殊更に大きく響いた。

 イリャヒの顔が常にない憂いを湛えていることにリュージュは驚くが、そのことに気づいていない様子で、チャールドは安堵したように返事をした。


「あ、ああ、イリャヒくん……ちょうどいいところに。君からもなにか言ってくださいよ」

「ええ、申し上げますとも。ブレント氏、あなたにはもはや必要ないでしょう。その畏まり取り繕った口調も、〈毒殺神父〉の二つ名も、そして……これもね」


 黒服の胸ポケットから白いスカーフを取り出し、丁寧に挟む格好で、地面に落ちたチャールドの伊達眼鏡を拾い上げるイリャヒ。

 レンズとフレームを優しく拭うその手を呆然と眺めて、いよいよチャールドの表情が焦燥と悲壮で彩られ始める。


「イリャヒくん……? 僕をからかうのはやめて、今すぐそれを返してくれないかな……?」

「いいえ、返しません。あなたの家に寝泊まりし、来歴と思い入れを聞いたからこそです。

 これを奥様から贈られたときのあなたは、今のように末期の光景に囚われ、彷徨う亡霊とはなっていなかったはずです」

「やめなさい……」

「あなたに笑ってほしくて買ったでしょうに、それが呪いと化したのでは、彼女も浮かばれないでしょうに。

 この伊達眼鏡はもはやあなたにとって死神の仮面であり、殺しの免罪符となっている」

「やめてくれ……」

「これがある限り、あなたは何度でも〈毒殺神父〉に成り下がる。私が預かり、責任を持って処分しておきましょう。

 しかしご心配なく。他の大切にしておられる遺品や諸々の荷物は、後でまとめて送りますから」

「やめろ! その通りだ! それがないと僕は殺しができないんだよ! だから……ぐあっ!?」


 ついに青ざめた顔で絶叫するチャールドを体ごと引きずり上げ、腹に拳をブチ込んで黙らせたヴァルティユは、なにごともなかったかのような笑みを見せた。


「結論出てるし、自分でわかってるのではないか。まったく……イリャヒくん、君にも手間をかけた」

「いえいえ、こちらこそ有意義な時間を過ごさせていただきました。またなにかありましたら猊下だけでなく、私の方にもお声がけください」

「こちらこそ、よしなに頼む。では……」


 ヴァルティユは灰紅色の見事な翼を広げると、気絶したチャールドを抱えて、取り巻きたちとともに闘技場の上空へと飛翔する。

 観客席をぐるりと見回して、大きく息を吸い込み、最後の口上を述べていった。


「ミレイン市民の皆様、大変長らくお騒がせいたしました! どうかご寛恕を! そして今後とも、我々ラグロウル族の竜人どもと、どうかご懇意にお願い申し上げる!」


 そうして何度目かの拍手喝采を受けながら、東の空へと編隊飛行で姿を消した。

 去り際にさりげなくリュージュへウィンクを残していってくれるあたりが、相変わらず憎めない、そして抜け目ない師匠である。


 イリャヒはというと没収した眼鏡をなぜか自分で掛けて、脱いだ帽子を振りながら、彼なりの感慨があるのだろう、左眼を細めて呟いていた。


「ああ、我が親愛なる魂の伴侶よ、また会う日までさようなら」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る