第172話 神が人を試したように、竜が蛇を試すのもまた道理

 さて、これで悪魔憑き案件の主犯は確保できたわけだが……と、使い魔を通して報告を受けたアクエリカは、別の悩みごとに頭を捻り始める。

 今、平身低頭している赤い蜥蜴を遠地で操っている、ヴァルティユへの対応にやや苦慮しているのだ。


『本当に申し訳ない。うちのベナクは普段から生真面目な男で、けっして自分からこういうことを仕掛ける奴ではないんだ』

「こういうときに庇ってもらえるというのが、まさしく日頃の行いの賜物というやつね。

 事情はわかりました。ですが、どうしたものかしらね……」

『どうか、どうかご寛恕を』


 慇懃な態度も、蛙を煮殺す弱熱に過ぎない。

 アクエリカがベナクを無罪放免に処すことを確信しながらなお、伏した顔の影から強い視線を送ってきているであろうこの態度こそが、ヴァルティユのスタンスを端的に表していると言えよう。


 つまり、こうだ。

 アクエリカは今回の〈ロウル・ロウン〉の結果如何に関わらず、ヴァルティユとを行うつもりでいる。

 その結果、前任のミレイン司教がラグロウル族に課した蛮族指定を解除するという協定を結んでいるのだが……。


 彼らにしてみればブレント一人の狼藉のために、勝手に着せられた汚名を勝手に返上されるだけで、実質なんのメリットにもならない。

 よってアクエリカに対して強気に出たり、貸しとしてカウントする余地が当然十分にある。


 さらに言うと、ラグロウル族の本拠地であるラグロウル山を、東の隣国イノリアルからの天然の要害……という名の緩衝地帯として使いたいというミレイン(ラスタード)側の思惑も、おそらくバレている。

 この交渉が決裂するとラグロウル族を味方にできないばかりか、イノリアル軍にラグロウル族が合流して攻め寄せてくる事態すら現実的になる。


 なので、アクエリカがベナクの悪魔憑依に対して寛容な態度を見せるのは簡単ではあるし、最初からそのつもりなのだが、一方で安易に柔弱なところを見せてしまうと、ヴァルティユから舐められて強行姿勢を取られ、さらに教会の上の方からも叩かれるという、踏んだり蹴ったりの惨状を招きかねない。


 なにかこう、甘い措置を取るべき口実というか、交換条件のようなものがあればいいのだが……。


 とりあえずメリクリーゼを呼び戻して、相手に圧かけてから考えようかなと思ったところで……別の部下からの報告が使い魔越しに上がってきた。

 アクエリカは悪辣極まりない会心の笑みを浮かべて、その表情に合わない甘ったるい声で訴える。


「困ったわ〜。ヴァルティユさん、わたくしのお願いを聞いてくださいませんこと?」


 かつて神が人を試したように、竜が蛇を試すのもまた道理なのだろう。

 ならばせいぜい下手に出て媚びへつらい、望みのものを吐き出させてやる。




 ほぼ同じ頃、ドエログはようやく眼帯野郎を振り切ったところだった。


「……撒いたか!? 撒いたよな!? やべえ、なんなんだあいつは……あとあんなオーラ出してるのに足遅えのが意味不明すぎて怖えよ……つーか、ここどこだ……?」


 デタラメに逃げ回ったせいで現在地がわからないが、よく考えると元からまったく土地勘がないので、逆に支障がないことに気づく。それより喉が渇いた。


「確か水の一杯くらいは、恵んでもらってもいいんだったっけ……」

『うむ、構わんぞ。体を壊さないようにな』

「はひょっ!?」


 独り言のつもりだったので、ドエログは返事があったことで仰天した。

 姐御の姉御は主催者としていつでもどこでも見ておられるようで、赤い蜥蜴が足元に姿を見せる。


『あと普通に金を払って買う分には、どんだけ飲み食いしようが自由だからな』

「そ、そうなんすね。じゃあちょっくらそのへんの店ででも……」


 補給でもさせていただきやす、と言おうとしたのだが……街角に現れたある人物を見て、ドエログは急に黙りこくった。


 くすんだ金髪に灰色の眼が特徴的な二十歳前後の女の子が、仕事の休憩時間なのか、やや疲れ気味の表情で歩いている。

 その整った理知的な顔立ちとどこかアンニュイな雰囲気がどうしようもなくドエログの好みド真ん中だった。

 あと、おっぱいがでかい(これが決定打)。とにかく要は一目惚れである。


 きちんと対価を払いさえすれば「非参加者による助力」に該当しないなら、ナンパして食事を(奢られるならともかく)奢るのは問題ないだろう。

 その後ご休憩的なアレに縺れ込んだとして、合意なら「非戦闘員への攻撃」にも該当しないはずだ。

 もちろんダメだったら諦めるが、とりあえず声をかけてみよう!


『お、おい、ドエログくん……?』


 なぜかヴァルティユが遠慮がちに声をかけてくるが、このときばかりは、クワァッ!! とやけに強気で振り返る性欲の化身ドエログ!!


「なんすか!? 別にルールや〈誇り〉を汚すことにはならねえでやんしょ!?」

『ああ、そこは別に問題ない。だが彼女は……』

「いや、みなまで言わんでくだせえ。わかってるんす……あんな知的金髪巨乳美人に、俺なんかじゃ吊り合わねえってことくらい。でもね、囁いてくるんすよ……やる前から諦めてんじゃねえぞって!! やってみなきゃわかんねえぞって、俺のね! 魂の一番奥にある熱い部分が叫んでんすよ!!!」

『いやそれ下半身の声を聞いてるだけでは……あ、待てって!』


 無理だ、もう止まらない! ドエログは、すでに走り出している! きっと明るい未来に向かって!




 書類仕事が一段落ついたオノリーヌは、甘いものでも食べようと思って外へ出てきた。

 ただし、いちごパフェはもうたくさんだ。いくら奢りだからって、ああも頻繁に食べさせられたら、飽きてしまう。

 美味しいし、好きなのだが……ベルエフは極端なところがある。


 パンケーキとかがいいなあとか考えている彼女の横合いから、急に毛深い猪鬼オークのおっさんが突進してきた。


「ムホーッ! お姉さん、お姉さん! ちょっと俺とお茶しねえ!?」


 普通に身の危険を感じたオノリーヌは、ほぼ無意識で体が動き、敵としての対処を下している。

 一歩踏み込み相手の両こめかみを狙って、体重の乗った掌底による諸手突き。

 頭部へ浸透した衝撃で動きを止めたおっさんに、そのまま後頭部を抱え込んで喉への膝蹴り。


「コホッ!?」

「……んっ?」


 そこでオノリーヌは、ガラス状のなにかを砕いたような感触を覚え、慌てて手を放す。

 男の首元にチョーカーを発見したことで、自分がなにをしたかを遅ればせながら理解した。


「あ! す、すまない、参加者だとは……というかもしかして今の、普通のナンパだったかね……?」


 尋ねてみるが、相手は昏倒してしまっていて答えられない。

 オノリーヌが途方に暮れていると、おそらく一部始終を見ていたであろう、青い小さな有翼の蛇が現れて口を開き、長い舌をチロチロと蠢かす。


 嫌味の一つも言われるのかと思ったら、囁くような小声で放たれたのは、意外にも賛辞だった。


『……よくやってくれたわ、オノリーヌ……』

「え? は……光栄だけれど、猊下、どういう状況なので……?」


 アクエリカは直接は答えないが、オノリーヌへの説明のためだろう、使い魔とのリンクを切らないまま、別の相手に向けて語りかけた。

 直接匂いなど嗅がずともはっきり嘘だとわかる、噎せ返るように甘ったるい困り声を出している。


『どうしましょう? これではまるでわたくしが、部下を動かして相棒バディを潰すことで、あなたの妹さんを優勝から遠ざけたように取られても仕方ないのかもしれないですけど……そういう意図はないんです〜、信じてください〜!』


 するとこちらもオノリーヌにわかりやすいようにとの配慮なのだろう、どこからともなく赤い蜥蜴が近づいてきて、わざわざアクエリカの蛇と正対する形で喋ってくれる。


『確かにオノリーヌくんからしてみれば、いきなり暴漢が襲ってきたように感じたかもしれないし……ドエログくんが「参加者ではない戦闘要員に対して喧嘩を仕掛ける権利」を行使し、返り討ちに遭ったという扱いにするのが、客観的にも事実と程近いという気がするな』


 アクエリカの声に喜色が満ちた。なんだか交渉っぽい雰囲気を出そうとしているようだが、実際は和気藹々と既定路線を辿っているのがバレバレである。


『そういうことにしていただけるとありがたいです〜。ではこちらもベナクくんの件を、市内にいまだ潜伏していた〈永久の産褥〉残党が謀り、ベナクくんを都合よく利用したという形で治めさせていただくわ〜』

『うむ。これで痛み分けということにしようか』


 ……ん? これもしかしてなにもせずに放っておけば、アクエリカをもうしばらく懊悩させることができたのでは? とオノリーヌは悔恨に駆られるが、終わったことは仕方がない。

 それはそれとして、我知らずミレインの平和に貢献……つまり、今も市内のどこかで戦っている弟に、間接的に少しでも役立つことができたなら、悪い気分ではないなと考え直した。

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