第171話 ならばせめて恋の使徒であれかし

 毒に蝕まれて息がしにくい。

 ほんの数秒だが苦しい時間を経て、ベナクは終着点に顔だけ出した。例のバーらしき店内である。


「ぶはっ! ゲホゴホ! あーちくしょう、なんて性質たちの悪い毒なんだ!」


 ベナクの巨体を引きずりながら、自分が掘ってきた穴の中を全速力でここまで這い戻ってきたイザボーも、ようやく無酸素運動から解放され、思い切り深呼吸している。


 ブレントが仕掛けたヴェノム・オブ・ツインフレイムは、外部放出の威力を大幅に低下させる……正確にはそれを絡めた連携攻撃の類を抑止するという意図なのだろうが、単純に空気を吐く機能自体を阻害してくるため、ほとんど無呼吸状態を強いられる羽目になったのだ。


 破壊された床下に首から下が埋まった状態で放置されたベナクは、自分で穴から這い出てくる。

 ようやく息を整えたイザボーが、慎重に2メートル以上の距離を取り直しながら、ベナクに話しかけてきた。


「これで十分に引っ掻き回せただろう。お前さんの消耗も限界だろうから、今日の活動はもう終わりにしよう。飯食って寝て、明日に備えな。

 ……なんだい、しょぼくれた顔しやがって。まだ悪魔憑きをズルだとか思ってんのかい?」

「いや、それは……」

「炎の嬢ちゃんからあの二人を庇おうとしたのも、その負い目だろう? 戦いにおいて真の平等なんかあるもんか。お前んとこの赤蜥蜴だって……」


 イザボーが不意に黙りこくって息を殺したので、ベナクは尋ね返した。


「どうかした?」

「あ、ヤバ……ごめん無理……」


 それだけを呟いた彼女は、もはやベナクを省みる余裕もなくなった様子で、獣化変貌すると足元の床板を砕いて一気に掘り抜き、いずこへか離脱していった。

 そしてベナクも、遅れてその理由を知る。


「見つけた。邪教徒の隠れ家」


 バーの扉が開かれて、女の子の囁くような小さな声が聞こえてくる。

 それだけで彼は、今の疲弊した自分が、この相手には勝てないという客観的事実を理解した。


 黒髪黒眼の小柄で細身なその女の子は、祓魔官エクソシストの黒服を靡かせ、颯爽と入ってくる。

 店内の気温が数度下がった気がして、ベナクは身震いを禁じ得ない。


 そのときにはすでに、彼は自主的に両手を挙げた降伏のポーズを取っていた。

 魔族以前に、動物としての本能がそうさせたのだ。


 女の子は猫がするように、首をかしげながらベナクの姿を注視し、確認を発してきた。

 というより、疑問文にも疑問符を付けないタイプの、抑揚のない話し方をする子のようだ。


「あなたは、ベナク」

「えっ? う、うん、そう、俺はベナクだ。なんでわかったの?」

「まっすぐな灰茶色の髪に、逞しい大柄な体、優しそうな顔立ち。聞いていた人物像の中で、該当するのは、ベナク・ユーガリティ一人」


 少し舌足らずな口調でそう言って、得心がいったようにこくりと頷いた女の子は、両手を顔の前で構えた。

 ああ、やはりこの子は教会の命を受け、神威を執行しに訪れたのだと、ベナクは勢い敬虔な気持ちに苛まれる。


「動かないで」


 言われなくとも、もはやベナクの体は、凍りついたように一挙も動かない。

 女の子の手の中で末期の水ならぬ、引導を渡すための氷が精製されていく。

 ベナクの命を刈る得物は長剣だろうか、それとも戦斧か、大鎌だろうか?

 しかし意外にも、それは玩具のように小さな、一揃いの玲瓏な弓矢だった。


 放たれたやじりが美しい光の尾を引き、最後は眼では追いきれず、気づけばベナクの首元で、控えめな破砕音が鳴っていた。

 あまりに精密な射撃ゆえ、鈴を転がしたような静謐な一つの響きで、事態は終息を迎えている。


 女の子は早々に弓を破棄して、舞い散るダイヤモンドダストを軽く袖で払う。


「お疲れ様。残念ながら、あなたはこれで敗退」


 あっさりとした宣告を受けて、ベナクはむしろ拍子抜けした。


「お、俺を殺しに来たんじゃ、ないのか……?」


 一拍置いて、女の子はなんのことか思い至ったようで、丁寧に説明してくれる。


「悪魔憑きのことなら、ヴァルティユ女史がアクエリカを説得して、あなたを純粋な被害者の位置付けに持って行ったと思われる。

 そもそもアクエリカの側にも、大きく問題化するつもりはないはず。これからのミレインは、あなたたちラグロウルと協調する路線と聞いた」

「じゃ、じゃあ、俺は……」

「もし今夜の宿がないなら、わたしたちの寮に来ることを推奨する。おそらく同じように敗退した参加者やその相棒たちが、ある程度は集まってくるものと思われるので。

 優勝者が出るのを見届けたら、そのまま皆と帰るとよい。特段ペナルティなどがあるとは考えられない」


 ベナクは安堵で腰が抜けて、その場にへたり込んだ。


「よ、良かったー……てっきりチョーカーごと首を斬り飛ばされるかと……」

「失敬。わたしだって、いつも死神扱いされるのは心外」

「ご、ごめんよ。せっかく穏当に脱落させてくれたのに」


 女の子はなにごとかを少し思案した後、呪文のように不明瞭な呟きを発した。


「ならばせめて恋の使徒であれかし」

「えっ? なにか言った?」

「なんでもない。あなたのところへ来たのが、リョフメトでなくてごめんなさいと言っただけ」

「なっ!? なんで今あの子の名前を!?」


 わかりやすすぎるベナクの動揺を見て、女の子の円らな瞳が、興味を覚えたようにさらに大きくなった。

 一見無表情だが、もしかしたら結構感情豊かな子なのかもしれないと、なんとなく彼は感じた。


 女の子が黙って自分の首元を指し示すので、ベナクが見ると、そこには竜の珠が光っていた。

 色は青。ということは、この子はリョフメトの相棒バディなのだ。ならなおのこと失礼があってはいけないと、ベナクは畏まって尋ねた。


「そうか、リョフメトから色々聞いたんだね。君の名前も教えてもらってもいいかな?」

「申し遅れた、わたしはソネシエという」

「ありがとう。よろしくね、ソネシエちゃん」

「よろしく。それで、ベナク。見て」


 なにか考えがあるようで、彼女……ソネシエはもう一度氷の弓矢を精製するが、鏃が変わった形をしていた。


「ど、どうしたの?」

「ここに弓矢がある。これは恋の弓矢」

「えっ!?」

「という仮定として聞いてほしい。実際にわたしにそういう能力があるわけではない」

「あ……なるほど、わかったよ」

「この矢に当てられた者は、恋に落ちる。わたしは恋の使徒なので、この矢で射た者の心を、任意の者に対する恋に落とすことができる」


 その先端がハート型をした、なんともかわいい矢を、ソネシエはベナクに向かってつがえる。

 そしてそれは放たれる前に、春の訪れがごとく溶け消えてしまった。


「しかし、あなたにはこの矢を当てる必要はない。あなたはすでに恋に落ちているから」

「うっ……は、はい、そうです。でも、俺じゃ彼女には……」

「そして、リョフメトにも、この矢を当てる必要はない」


 なにを言われたのか、自分の勘違いではないのかと、半ば予防線を張る意味でも、ベナクは恐る恐る尋ねた。


「えっ……? それは、彼女に誰か、好きな相手がいるって意味?」


 ソネシエは質問には直接は答えず、ただベナクのことをじっと見て、マイペースに詩的な返事をした。


「リョフメトをあなたに惚れさせるために恋の矢を放つというのは、無駄な手間で、意味はない」


 嘘や冗談を言っているようには見えない。こんな賢そうな子が勘違いするとも思えない。

 つまり……どうやら、そういうことのようだ。


 別の意味で春の訪れを感じるベナクに向かって、ソネシエは確信を持った首肯を返してくれる。

 言うべきことを言って満足した様子で、彼女は入ってきたときと同じように、颯爽と踵を返した。


「では、わたしはこれで。脱落させてしまったあなたの分も、〈ロウル・ロウン〉を続ける所存」

「ああ! 俺、リョフメトと君を応援してるよ!」

「ありがとう。わたしも陰ながら、あなたの恋愛面の健闘を祈っている」

「あ、ありがとう! 俺も頑張ってみるよ!」


 頼もしい後ろ姿を気持ちよく見送りそうになったが、ようやく思い出したベナクは慌てて言い足した。


「そうだ……俺が組んでしまった人土竜ワーモウルのイザボーが、君が来る直前に穴掘って逃げたんだけど、もし……」


 みなまで言わせず、振り返ったソネシエは相変わらず端的に、結論だけを言い置いた。


「問題ない。そちらに関してもすでに、アクエリカが手配している」




 もう呼吸を制限されてはいないのに、今の方がよほど苦しいくらいだと、別の隠れ家への穴掘り脱出に成功したイザボーは、地中から這い出て床の上に寝そべった。


「ゼー、ハー……あっぶなー……あのお嬢ちゃん、たぶんアタシの顔覚えてるよ……あんな化物に捕捉されたら一巻の終わりさね……っうおお!?」


 首元でなにか割れる音がしたので思わず飛び跳ねるが、チョーカーの珠が破裂しただけだったので、イザボーは改めて安堵の息を吐く。


「ああ、なんだこれか……ベナクの坊や、あのままお嬢ちゃんにやられちまったみたいだね。ったく、アタシの日頃の行いが悪いせいか、厄介な相手に当てちまって申し訳ないや」

「まったくだな」

「!!?」


 独り言に返事があったことでさらなる驚愕がイザボーを襲うが、同時に彼女は「あ、詰んだな」と悟っていた。

 むしろこれほどの強大な存在感を、相手がどうやって隠し、樽や木箱の間に潜んでいられたのかを知りたいくらいだ。


 メリクリーゼ・ヴィトゲンライツは、組んでいた長い脚を解いて立ち上がり、満足そうに薄く笑って言った。


「おっと、動くなよ。体が地中へ潜ると同時に頭が空中を舞うという、派手な一発芸を披露したいというのなら別だがな」


 動けるわけがない。冗談抜きでそれが可能な相手だと知っているため、イザボーは諦念によって脱力するしかなかった。

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