第81話 月はやがて肥え


 ミレイン市の街路は、いくつかの広場を中心とした不揃いな賽の目状に入り組んでいる。

 具体的には、中心に一番大きなウルエント広場があり、ここに聖ドナティアロ教会とミレイン市庁舎が並び立っていて、街の基幹機能をこの二者でほぼ担っていると言っていい。


 他にも東西南北にそれぞれ大広場が存在し、北にゴルバルド広場、東にゲッソ広場、南にビリタヌス広場、西にペリッチュ広場がある。

 なお、これらの名はすべて人物名に由来するらしい。デュロンは不勉強なため、よく知らないが。


 彼が知っているのは、北のゴルバルド広場のそのまた北の端に塔がそびえ立っており、そのてっぺんへは普通に塔の中からも、翼を用いれば外からも行けるのだが、実際には誰も寄り付かない孤高の場所になっていることくらいだ。


 そして今、彼はそこにいる。デュロンにもたまには一人でぼんやりしたいときなどがあり、そういう場合には絶好のスポットなのである。

 もっとも正確に言うと、今は姉にそうしろと言伝されたので、ここに来ているだけなのだが。理由はわからないが、彼女に従っておいて損はない。


「はあ……しかし、なんでここはこんなに落ち着くんだ……」


 この広場自体、イベントでもあるとき以外はほとんど誰も通りすらしないのには理由がある。


 このゴルバルド広場は、昔はこの街の中心に位置していたらしい。何百年前の話なのかは忘れたが、当時からかなり街の形が変わっていることだけは確かなようだ。


 そしてデュロンが今いるてっぺん部分は鐘楼となっており、大小合わせて47個の鐘が鈴生りに設置されている。


 機能は単なる時報だけではなかったらしい。当時の鐘はすべて銀合金製で、かつて15分ごとに鳴り響いたその音色は、嘘か真か、街中に潜伏する魔族を市外へ追放するための調べだったという。


 言われてみればそういう気がするだけじゃないのかとデュロンは思っているのだが、現在の魔族社会の成員たちは、数はそのままにすべて無害な銅製のものに付け替えられ、もはや鳴らされもせずお飾りと化した今でも、この鐘楼にまだ「銀瘴気」とやらが残っているのを感じる、などと言っている。


 属性的にはどちらかと言えば浄化の波動なのだろうが、とにかく身内連中ですらここに近寄ろうとしないので、正直デュロンは辟易していた。


 例外はヒメキアだ。彼女とデュロンが特別鈍感なのか、銀に対して耐性を獲得しているのかはわからないが、前に一度お互いすごく暇になったときに、ここでデートしたことがある。

 と言ってもミレインの街並みを見渡しながらおやつを食べただけなのだが、ヒメキアは高所にも瘴気にも臆した様子はなく、終始にこにこと楽しそうだったので、デュロンは改めて心が洗われた。


「ままならねーな……外で飯食うことすら自由にならねーってのもよ……」


 デュロンは嘆きつつ空を仰ぎ、独りでに声が漏れた。最近は護衛任務の関係上、あまり寮に帰れていないだけだが、そういうことではない。


 真昼の空にうっすらと浮かんだ白く見える月は、あれからやや肥えたが、いまだ半月にも遠い。

 あれからというのは、前にギデオンと戦ったときからという意味だ。


 確かに奴は強い。だがあのレベルの相手を実力で倒せずして、いったいいつになったらこの鳥籠を、ヒメキアとの約束通り内から破るつもりなのか。

 彼女はいつまででも待つと言ってくれたが、その言葉に甘えるわけにもいかない。正直なところ、焦りがあった。


 籠の外どころか、街中を散歩するだけでも鎖を付けられている体たらくなのだ。

 その鎖ちゃんに向かって、デュロンは話しかけてみた。


「なー、アンタはどう思う? アクエリ姐さん」

『……わたくしに訊かれても、困るのですけど。あとその呼び方はやめなさいな』


 返事があるとは思わなかったので、自分でやっておいてデュロンは驚いた。

 アクエリカは執務の合間に管理官級マスタークラス祓魔官エクソシストたちに面談を仕掛けているはずだが、さらにその合間だったようで、あまり声音を作っている感じのしない、わりと素の口調でボソボソと、小さな青い有翼の蛇に代弁させてきた。

 使い魔は今、デュロンの左手首で腕輪のようになっていて、気怠げに鎌首をもたげ、のたくっている。


 立場的にも性格的にも、アクエリカは現状、この件については親身な相談には乗ってくれないだろうということは、デュロンにもわかっていた。

 むしろ軽々しい助言を投げかけてこないことが、逆に誠実な態度とすら思えた。


 デュロンの心は、いつの間にか独りでに落ち着いていた。結局のところ、少しずつ前へ進んでいくしかないのだ。

 そして、差し当たっては、もちろん……。



「……バカと煙はなんとやらと言うが、どうやら本当のようだな」



 ふと背中に気配を感じたときには、すでにあちらから声をかけられていた。

 デュロンは全身に汗が浮かび、思わず振り返りかけたが、辛うじて踏み止まる。


 ギデオンの声はまだ少し遠い。位置的に、隣接する建物の屋上にいるようだ。赤帽妖精レッドキャップの種族能力を使わなければ、数秒で移動できる距離ではない。


 つまりギデオンは、デュロンを中途半端な体勢で振り返らせ、その瞬間に「視線を合わせる」という瞬間踏破能力の発動条件を満たさせて高速接近し、一撃で仕留めようという魂胆なのだ。

 デュロンが反撃に備えられないよう、わざわざ背後に回って声をかけてきたと見える。


 来た、とデュロンは意気込む。想定はしていなかったが、期待していたのに近い状況を迎えている。このチャンスを逃す手はない。


 デュロンは半身で振り返るのではなく、回れ右の要領で、声のした方へ素早く体ごと向き直った。


「「!!」」


 案の定、向かいの屋上で構えているギデオンと目が合い、隔てる距離が一気に縮められる。


 最初の遭遇時、そして零番街での交戦時に合わせて何度か経験したため、デュロンはギデオンが詰めてきた際の間合いを、すでにおおよそ体感で記憶していた。


 ギデオン、そしてデュロンが得意とする、近接格闘の間合いに他ならない。


 ならばそこへ待ち構えておき、さらに一歩前へ出れば……どうなる?


 デュロンの対応はシンプルだった。右足を大きく踏み込み、前傾姿勢になる。そして後ろの床へ突っ張った左足から額まで、体の芯を一本の巨大な杭のように意識した。

 左右に遊ばせた両腕でバランスを取ると、骨肉製の鐘突き棒……いや、もはや破城槌の完成だ。


「ごっ……!?」


 完全に不意打ちのつもりで斧を抜き放っていたギデオンは、彼の方も攻撃のために前傾姿勢になっていたため、ちょうどの高さに額を合わされ、顔面に頭突きの直撃を食らう格好となった。


 デュロンがそのことを実感したのは、額に鈍痛を感じ、派手に転がったギデオンを視認した後だった。

 大ダメージとはいかずとも、出鼻を挫く程度には成功したようだ。


 そして同時にデュロンは、さらに二つの情報を得ていた。

 一つ目は、思ったよりバカみたいに吹っ飛んだギデオンの様子から、彼の瞬間踏破能力の類別を確定して良さそう、というもの。


 二つ目は、悪魔憑きを経てようやくだったウォルコと比べると、自力で入れる最初の一撃を、かなり早い段階で済ませることができたという点だ。


 つまり、ギデオンはウォルコほど遠い相手ではなく、逆に言うと一対一で倒さなければならない関門だと判明したということになる。


 これで敗けたら姉貴に叱られるなと、弟は虚勢混じりの苦笑を浮かべながら構え直した。

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