第90話

「10キロの赤ちゃんに5キロの荷物と10キロのベビーカーを持って、駅の階段を上ったり下りたりなんて危ないじゃないか。信じられない……」

 社長が首を横に振った。

「時々、車いすが駅で対応を拒否されたということがニュースになりますが、ベビーカーは常に対応を拒否されたような状態です。母親が歯を食いしばって、人の悪意の目に耐えながら……」

 社長が私の手からベビーカーを受け取る。

「母親が一人で背負うには重たすぎるだろう……政治家は何をやってるんだ」

 社長に顔を向ける。

「ですけど、社長みたいな人の善意もあるから……何とかやってるんです。でも、本当はもっと、バリアフリーも進んで、善意に頼らなくても利用しやすい施設が増えればと思います」

 社長が息を吐きだした。

「僕も一緒だな。あの会議の場で言われるまで、形ばかりのバリアフリー対応しかしていなかった。政治家は何をしているんだじゃないな。母親以外は何をやっているんだ……育児をしないから関係ないじゃない。育児をしやすい世の中にするために動かない人間がいかに多いか……」

 社長の手から再びベビーカーをとって、折りたたみを解除して広げる。

 それから、赤ちゃん人形をもとに戻してから、鞄を受け取る。

「うちの会社……工務店は小さなリフォームも請け負っているんですが。年を取ると鴨居のほんの小さな段差にも足を取られて転んでしまうこともあるんですよ。玄関の上がり框の段差も、年を取ると登れなくて踏み台が必要になる。手すりも必要になる。障害をもった特別な人だけじゃないんですよね。段差の解消も、手すりも……誰もが年を取ると体の機能が落ちる。もしかすると車いすのお世話になるかもしれない。シルバーカーを押して歩くようになるかもしれない……きっと、バリアフリーって、子育てだけじゃなく、すべての人に過ごしやすい環境なんじゃないかなって」

 社長がじっと私の顔を見ている。

「ほ、ほら、誰かのためじゃなくて、未来の自分のためって思えたらもっとみんな考えるようになるのかなぁ、みたいな?」

「確かに……。自分が年を取った時に、快適に過ごせるという視点は抜けていた……。車いすなら本館に案内する……か。本館に案内されて、僕は嬉しいだろうか……」

 社長がうーんと考えだした。

「ご両親が車いすを利用することになったらどうですか?旅行に連れて行きますか?旅行なんて大変だからと止めますか?」

 私にはすでに両親がいない。祖父母もいないから想像はできない。けれど、もし生きていたら……車いすでも元気であれば旅行に連れていきたい。ああ、今なら……優斗が率先して車いすを押してくれるかもしれない。優しい子だもの。天使よ。天使。

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