第89話

 私の名前は深山。もしくは優斗君のママだ。……真さんが亡くなってからは「春子」はどこかへ消えてしまった。

「は、はる……こ、さん」

 心臓が跳ねる。

 ああ、消えてしまった「春子」な「私」は確かに生きてるんだ……。ただ、名前を呼ばれただけなのに。だけなのに……。

「はい、和人さん……」

 分からないほど嬉しくなって、胸がいっぱいになった。

 私が名前を呼ぶと、社長も私のように嬉しそうな顔を見せる。

 もしかしたら、社長も「社長」になっちゃって「和人」はどこかへいっちゃってたのかな。

「まぁ、車は考えるとして、ベビーカー、これを買いましょう!」

 大きくてごついベビーカー。値札を見ると二けた万円。ベビーカーの中では最上位のものを躊躇なく買おうなんて。さすが社長だ。きっと実際に選ぶ時も値札なんて見ないんだろうなぁ。

「買う、んですか?」

「いや、あの、ベビーカーを押す生活というのが実際はどんなものなのか知るには、実践してみるのが早いかと……」

 確かに、社長の言うことにも一理ある。

「確か、お店の人の話だと、このベビーカーは段差も楽々乗り越えられる大きなタイヤ。軽く押せて、振動も伝わりにくいし方向転換もしやすい……」

 いいことづくめだ。値段と、それから……外を散歩するだけならば。

 ベビーカーに乗っていた赤ちゃん人形を社長に手渡す。

 手渡された社長は、さっき教えたように両手でしっかり赤ちゃん人形を横抱きにした。それから、手近に何もなかったので、私が持っていた肩掛け鞄を社長に渡す。

「鞄?ちょっと待ってください、人形……えっと」

「片手で支えてあげてください。それから、これを、その状態で折りたたんで、持ち上げて運んでもらえますか?」

 私の要求に社長が目を丸くする。

「ちょっと待ってください。赤ちゃんと鞄とを持った状態で?たたむ?」

「たたむのはまだハードル高いですか。慣れないと大変ですから、では私がたたみますね」

 ベビーカーによってたたみ方も違うのでちょっと戸惑いながらもなんとか折りたたむ。

「はい、ではその状態で持ち上げてその辺歩いてください」

「いや、だから、赤ちゃん抱っこして鞄持って、ベビーカーも?」

「持ち上げて、実際は階段を上ったり下りたりするんですよ?駅で見たことありません?電車の中ではずっとベビーカー支えながら赤ちゃん抱っこして荷物も持つんです」

 社長が青ざめた。

「無理だろう」

「実際は、赤ちゃんは抱っこ紐で抱っこしますから手は多少自由に動かすことはできますが、代わりに荷物はその5倍くらいは持ち歩きます。赤ちゃんの重さも10キロほどになるでしょうか。荷物は5キロ。そこに、そのベビーカーだと安全性と操作性安定感はあっても、大きくてそのうえ重たいですよね。重さは10キロほどって書いてあります」

 社長が唖然とする。

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