第88話

「これなんてどうかな?」

 座高が高くて大きなタイヤのごっついベビーカーだ。

「駄目ですよ、東御社長の車に乗せるには折りたたんでも助手席にも乗せれませんよ?」

 黒塗りの大きくて立派な車だった。けれど、セダンタイプだ。天井は低かったよね。

 後ろに横倒しで乗せることはできるかもしれないけれど、チャイルドシートを置いたらそれも難しくなる。

 トランクに入れるのは、日常生活では大変そうだし。

「そういうことか!なるほど、車……ファミリーはミニバンが人気だっていうのは知っていたけれど……ベビーカーを積むためもあったのか。これは、車も買い換えないと」

 ぷっ。

「なんだか、本当に子供が生まれるみたいですね。もう店員さんも話を聞いてませんから、夫婦のふりはしなくてもいいんですよ」

 なり切る社長がちょっとおかしくて思わず笑いが漏れる。

「夫婦のふり……」

 社長がちょっと残念そうな顔を見せる。

「僕と夫婦だと思われるのは迷惑ですか?」

 切なげな瞳が揺れる。

「いえ、あの、迷惑だなんて……でも、その……」

「むしろ、夫婦ではない男女が二人でベビー用品を選ぶのはおかしいと思うんです。ですから、その迷惑でなければ……社長ではなく……和人……と」

 と口にする東御社長の目は今度は不安げな色を浮かべている。

 社員に名前を読んでもらい名前で呼ぶのはセクハラなのかもといろいろ葛藤があるのかもしれない。だけれど、確かに社長の言う通り、薬指にしっかりマリッジリングをはめた女が夫でもない男性とベビー用品を選んでいるのは怪しさしかない。しかも相手を社長と呼んでいるなんて……。私だけでなく社長も変な目で見られてしまうだろう。

「分かりました。和人さん。私は春子です。春でも春子でも好きなように読んでください」

「は、は、は、は、春?え?え?えええ?」

 社長がとても驚く声を出した。

「知り合いにもいらっしゃいますか?私くらいの年齢だと子がつく名前珍しいですよね。お母様とかおばあ様と同じ名前で呼びにくいようでしたら……偽名か仮名か何か考えてくださっても……深山のみやちゃんでも……」

 そういえば、Vtuberのキャラクターの名前、春だったなぁ。苗字は違ったけれど。優斗、個人情報につながることは言わないようにって言ってた けれど、めいっぱい名前に使われてる……。とはいえ、フルネームが必要な書類に書くくらいで、普段の生活で下の名前で呼ばれるようなことはないけどね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る