バレンタイン、最後の客

だるっぱ

バレンタイン、最後の客

 二月十四日。私は自分の店のドアにカギをかけると、急ぎ足で駅前に向かった。ヒールが路面を叩き、コツコツという音が辺りに響く。日が傾き始めた街は、いつもよりも穏やかな風が吹いていた。最近まではコートの襟を立てて街を歩いていたのに、今日に限ってはコートの前のボタンを全部留めると少し息苦しい。急いでいる所為か、とても暑い。上から三つ目までボタンを外した。コートの中の体温を外に逃がす。少し楽になった。最近は、コロナの影響もあるけれど客足がひどく少ない。人と人が会わなくなった所為で、ネイルアートの仕事はいつも閑古鳥だ。いつまで続くんだろう、こんな状況が……少し不安になる。気を取り直して、私は目的のケーキ屋に向かった。それだけで、なんだか楽しくなってくる。


 そのお店は、界隈でとても有名なケーキ屋だ。どの商品も誰かに薦めたくなるほどに美味しい。噂では、店主はフランスで十年も修行をしてきたそうだ。でも、偉そうな素振りを見せることはない。どちらかというと無口だ。職人肌の店主が作り出す最高のケーキを、伴侶である明美さんが販売している。明美さんは、とっても明るくて気さくな人だ。彼女とは、店に通うたびに親しくなった。私の愚痴なんかをよく聞いてくれる。時には優しく叱ってくれることもあった。今の私にとって、一番心を許せる人だ。


 今日のバレンタインデーの為に、私はそのお店で特製のチョコレートケーキを注文していた。普段の日でも、ショーケースの中のケーキが売り切れることが良くある。バレンタインデーなら尚更だ。ただ、私が急いでいるのには訳があった。それは、コロナの影響の所為で店の閉店時間が早まっているのだ。たしか、夕方の五時半には店を閉めると言っていた。私は時計を見る。もう五時半を回っていた。明美さんには、「少し遅れる」と伝えてはいたけれど、待たせてしまうのは申し訳ない。私は駆け足でお店に向かった。


 近くまでやって来た。私は足を止めて呼吸を整える。コートの中では、すっかり汗ばんでしまい、下着が肌に張り付いていた。お店に入るのが、ちょっと恥ずかしい。コートの合わせ目を両手で掴んで、湿り気を伴った体温をパタパタと外に逃がす。ケーキ屋に到着すると、私は奇妙な張り紙に気が付いた。


「閉店セール」


――えっ! どういうこと?


 私は、突然のことに混乱してしまう。多くのお客様に愛されているケーキ屋なのに、閉店とはどういった理由なのだろうか。ケーキを予約注文した時、明美さんはそんなことを一言も口にはしていなかった。店に入る前に、私はその張り紙をジッと見つめて固まってしまう。すると、店の入り口の自動ドアが開いた。中から、無口な店主が出てくる。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたよ。中塚礼子さま」


 店主は、遅れてきた私の為に、わざわざ出迎えてくれた。でも、なぜ、私の名前を知っているのかしら。明美さんが教えたのかな。私も頭を下げる。


「すみません。遅くなってしまって……」


 店主は、慣れないような笑顔を浮かべて、私を見た。


「いえいえ構いませんよ。お仕事だったんでしょう。ご注文のケーキはご用意が出来ております」


 私は、店主に促されて店内に入る。実は、店主と話をするのは今日が初めてだ。店内のショーケースの向こうに見える厨房から、時折、店主を見かけて軽く会釈をすることはあった。でも、店ではいつも明美さんが対応してくれる。だから、店主と話をする機会がなかったのだ。


――あれ! そういえば、今日は明美さんは居ないのかな?


 私は明美さんを探した。注文をしているケーキも大切だけれど、私は明美さんに会いたい。


「ご主人、今日は明美さんは居られないんですか?」


 店主は、ショーケースの向こうに回り込むと、私が注文した特製のチョコレートケーキを用意しながら、答えてくれた。


「ええ、昨晩までは手伝ってくれていたんですが、お恥ずかしいことに喧嘩をしてしまいまして……もう、居ないんです」


――えっ! どういうこと?


 閉店セールの張り紙といい、今日は吃驚することばっかりだ。でも、おかしな店主。明美さんが居ないのは兎も角、そんな夫婦の内輪もめまで、私に話さなくてもいいのに……。私は、なんて言葉を返せば良いのか困ってしまった。


「そう……なんですか」


 返事をした後、なんだか落ち着かなくなってしまった。店内をキョロキョロと見回してしまう。ショーケースに陳列されていたはずのケーキは、ものの見事に全てが売り切れていた。残っているものといえば、常温棚にある焼き菓子くらいなものだ。


「お待たせしました。ご用意が出来ました」


 ショーケースの上に、注文したケーキの箱が置かれた。


「幾らになりますか?」


「お会計は、二一六〇円になります」


 さすが特製のチョコレートケーキ。価格は少し張る。でも、食べるのがとても楽しみ。最近は、バレンタインと言っても、好きな男の子にプレゼントするなんて、稀なんじゃないだろうか。一年に一度、自分へのご褒美に最高のチョコレートを食べるほうが、お金の無駄にならなくていい。男の為にプレゼントをするなんて、馬鹿らしい。それに、良いことを聞いた。後で、明美に電話をしようと思う。私は、ハンドバッグから財布を取り出すと、千円札を三枚取り出した。店主にそのお金を渡す時に、気になるので尋ねてみた。


「あのー、表に閉店セールの張り紙が、貼られていましたね」


 店主は、思い出したように、相槌を打った。


「そうでした、そうでした。うっかりしていました。嫁が居ない所為で、お客様にご迷惑をお掛けするところでした。不慣れで申し訳ありません。今日は閉店セールなので、割引をしなければいけません。少しお待ちください。計算をし直します」


 私は、なぜ閉店なのかを、知りたかっただけだ。いくら喧嘩をしたからって、閉店までするなんて極端すぎる。何か他の事情でもあるのか気になっただけなのに。これでは、私が無理に値切ったように見えるじゃない。そんな私の気持ちを他所に、店主は再度レジスターに数字を打ち込む。「別に割引してくれなくても良いのに」と思いつつ、再度、店主に質問をした。


「いえ、割引というか、もう閉店されるんですか? 人気のお店なのに……」


 レジに数字を打ち込んでいた店主の指が止まる。気のせいか、店主の目が鋭く光ったように見えた。


「私は、これからもずっと続けていきたかったんです。若い頃から、美味しいケーキを作ることだけを考えてきました。四六時中、ずっとその事ばかりを考えて生きてきました。そんな我儘が出来たのも、思い返せば明美がいてくれたからなんです。明美が私を支えてくれていたから、私は好きなことに没頭できました」


 店主は、止めていた指を、また動かし始める。


「何度もすみません。お会計は一五一二円になります」


 財布から抜き出した三枚の千円札のうち、私は二枚のお札を店主に手渡す。店主は、レジスターの中から釣銭を取り出すと、硬貨を握って私に差し出した。私は右手を伸ばして、その釣銭を受け取ろうとする。その時、店主はもう片方の手で、差し出した私の手をギュッと握った。私の中に戦慄が走る。驚いて店主を見ると、店主が私を鋭く睨んでいた。


「いいですか。心して食べてください。明美なしでは、このケーキ屋は、もう、やっていくことが出来ません。貴女が、最後のお客様です。貴女の所為で、私は店を閉めるんですよ。ずっと憶えておいて下さい。貴女が……」


 そう言って視線を落とすと、店主は私の手の中に釣銭の硬貨を一枚一枚落としていった。私の手の中で硬貨がぶつかる。その度に、チャリンチャリンと音が鳴った。すべての硬貨が落ちると、店主はやっと私の手を離してくれた。私は恐怖に震えながら手を引っ込める。店主の顔を、怯えた目で睨みつけた。店主は、何事もなかったかのように、特製のチョコレートケーキの包みを私に差し出す。そんな店主の様子を見ながら、私はまた手を掴まれるのではないかと警戒をした。恐る恐る手を伸ばして、ケーキの包みを掴み取る。


「本日は、お買い上げありがとうございました」


 店主は深々と頭を下げる。私は後ろを振り返ることなく、慌てて店を飛び出した。また、足早に駆けていく。逃げるようにして足を進めた。帰り道の記憶がない。マンションのオートロックの扉を潜り抜け、エレベーターのボタンを押したとき、やっと正常に思考することが出来るようになった。ゼーゼーと口から息が漏れる。コートの中では、汗で下着が張り付いていた。


 チン!


 エレベーターが到着する。自動ドアが開いた。私は逃げ込むようにして四角い空間に飛び込む。三階のボタンを押した。暫くしてドアが閉まる。箱が揺れてエレベーターが上昇を始めた。


「フー」


 大きなため息をついてしまう。私は、その場に倒れこみたくなるくらいの疲れを感じた。お気に入りのケーキ屋だったのに、もう、あんな怖い店主がいるお店には行けない。そう思ったとき、閉店することを思い出した。「行きたくない!」と思っても、もう、あの店は閉店するんだ。そう思ったら、なんだか可笑しくなってきた。クスクスと笑ってしまう。


 チン!


 三階に到着した。気持ちを切り替えて、自分の部屋に向かう。鍵穴に鍵を差し込んだ。カチャリと音がする。金属の冷たいドアノブを回して、小さな私の部屋に入った。留守番役のアメリカンショートヘアーのミウミウが、私を出迎えてくれる。


「ミー」


 ミウミウが私を見上げた。その笑顔に癒されてしまう。私はミウミウを抱え上げると、ギュッと抱きしめた。先程までの恐怖体験が解けていく。とても安心することが出来た。特製のチョコレートケーキの包みをローテーブルに置くと、私は着ているコートを脱いだ。汗をかいたせいで、何だか寒い。そのままベッドに倒れ込んでしまう。今日はなんだか疲れた。一体、何だったんだろう? お陰で走ってしまったじゃない。気持ちが悪い店主の顔が浮かんできた。


「変態おやじ!」


 思わず叫んでしまった。テーブルを見ると、ミウミウはケーキが珍しいのか不思議そうに化粧箱に鼻を擦り付けていた。


 私は、思い出したようにハンドバックを掴み取ると、中からスマホを取り出す。受話器のマークを押して、明美の名前を探した。旦那と喧嘩をして出ていった、明美のことが心配だ。折角だから、今日は明美を私の部屋に呼ぶことにしよう。明美の旦那が作ったケーキというのが難点だけれど、二人であの店主の悪口を言いながら食べればいい。ケーキが美味しいのは折り紙付きだ。


――そうだ!


 いっその事、これからは私の部屋で明美も一緒に生活をすればいいんだ。これは良いアイデアだと思う。明美のような良い子が、あんな旦那と一緒に暮らしていたことが、そもそもの間違いだったんだ。あんな変態男、さっさと別れることが出来て良かったと思う。


 明美と話したいことが一杯あるのに、電話に出てくれない。


――どうしたんだろう?


 コールが長すぎて切れてしまった。私は、もう一度、受話器のマークを押す。早く電話に出て欲しい。早く明美の声が聞きたい。貴女のことを愛している。早く、早く、早く。


 電話に夢中になっていると、アメリカンショートヘヤーのミウミウが、ローテーブルの上にあるケーキの箱をカリカリと爪で引っ搔いていた。私は、繋がらないスマホをベットの上に置く。悪戯なミウミウを抱き上げて、叱りつけた。


「駄目でしょう、悪戯しちゃ」


「ミー」


 ミウミウをベットの上に下ろして、私はケーキ箱の様子を見る。ミウミウが引っ掻いたところが傷だらけになっていた。明美と一緒に食べたかったけれど、何だかお腹が空いてきた。どうしよう……無性に、チョコレートケーキが食べたくなってきた。


「電話に出ない、明美が悪いんだぞ」


 私はそう呟くと、ケーキの箱の包みを開けた。チョコレートの甘い香りが部屋の中に漂い始める。私は、大きく深呼吸して、その甘い香りを楽しむ。このケーキを食べるために、コーヒーにしようか、紅茶にしようか、少し迷ってしまう。


――紅茶にしよう!


 コーヒーも悪くはないけれど、今日は紅茶の気分だ。ほっこりとしたい。立ち上がろうとしたけれど、動きを止める。このままローテーブルにケーキを置いたままだと、またミウミウが悪戯をするかもしれない。私は、ケーキも一緒に台所に運ぼうと思った。ケーキの箱を、両手で挟む。箱の中の、特製のチョコレートケーキが見えた。その時、ケーキの上に不自然なものが飾られていることに気が付いた。顔を近づけて、まじまじと見つめる。


「ヒッ!」


 私は、小さく叫び声を上げると、ミウミウがいるベットに向かって仰け反った。


「ミ――――!」


 ミウミウが驚いて逃げ出した。ケーキの上に、人間の指が一本飾られていた。その指の爪には、私がこの部屋で明美に施してあげた、青と白のネイルアートが光っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バレンタイン、最後の客 だるっぱ @daruppa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ