7・南哲二(みなみ てつじ)
心臓に包丁を突き刺した時の感触は、今でも指先に残っている。あれほど気持ちを高ぶらせる〝味〟を忘れられるわけがない。
俺に強姦や死姦の趣味があるなら、もっと楽しめたかもしれない。何しろ、女ばかりの家だったからな。しかも、美人揃いだ。だが、恐怖に支配された目をまともに覗き込んだら、刃先を突き立てる以外の欲望は吹き飛んでしまう。
そういうものだろう?
しかも刃物は、刃先が鈍い方がいい。だから包丁は、一度刃先を床に叩きつけて切れ味を悪くした。
まずは1人目だ。柔らかい脂肪の弾力を味わいながら、皮膚に突き立てていく。ギリギリまで押し込まれた皮膚が耐えきれずにパンと弾けて、一気に脂肪の層に包丁がめり込む。
まるで、射精だ。
実際に一物は張り詰め、俺は4人目には他愛なく漏らしていた。
だが、本当の楽しみは皮膚を破った次にある。
なまくらな先端をグリグリと回しがら心臓の筋肉をまさぐる。手袋なんかしちゃもったいない。吹き出す血糊で滑る包丁を握りしめる感覚が、楽しみを何倍にも膨らませるんだ。
床に転がされた女たちの恐怖のうめき声が部屋を満たし、折り重なって俺の頭の中に響き渡る。俺にとっては、快感にむせび泣くシンフォニーだ。
獲物の心臓の鼓動もそれに同調して極限まで早まる。〝心臓の声〟が包丁の先端を震わせる。そして、金切り声で叫ぶ。
『助けて! 殺さないで!』と。
声とは呼べない声が、俺の体に流れ込んでくる。背筋がゾクゾクする。
いいぞ、いいぞ……。
もっと苦しめ。もっと怖がれ。
どう足掻こうと、どうせ数分後には死んでいるんだから。
いまある生に感謝して、最後の1秒まで味わい尽くせ。
ドクドクと暴れまわる分厚い筋肉の塊を探り当てたら、再びゆっくりと包丁を差し込んでいく。硬い。簡単には突き刺せない。包丁をねじりながら押していく。その度に傷口からは血が吹き出し、俺の口にも飛沫が飛ぶ。
いい味だ……。恐怖の味だ……。生と死の、境界の味だ……。
そして心臓の筋肉を切り裂くと……血が、まるで火山の噴火のように吹き出す。たまらなく甘美な瞬間だ。
1人目から、俺の体は返り血で真っ赤になった。
くそ……ネットに出回ってるワイセツ映像のように、何台もビデオカメラをセットしておくんだった! こんな映像を残しておけるなら、死ぬまで楽しんでいられたのに……。
1人目のうめき声が止まる。
死んだな。
同時に、出血も少なくなっていく。
楽しい時間は長くは続かない。それが人生ってもんだ。
だが、死んだことが分かると、他の3人のうめき声がさらに激しくなる。
そうだ、まだ3人も残ってるじゃないか。しかも、殺したのは年寄りからだ。これから獲物はどんどん若くなっていく。皮膚も、脂肪も、筋肉も、若くて張りのある体に変わっていく。それを考えるだけで、また勃起していく。
俺も死にそうだよ……。
あまりに嬉しくて、脳みそが弾け飛びそうだ……。
この喜びを書き込めるだけの容量が、俺の脳みそにはあるんだろうか……。
いっそこの絶頂で、死んでしまえれば……。
最初にこの家に侵入した時は、もっと困難があると思っていた。深夜だとはいえ、起きていたり眠れずにいる奴だっているだろうから。だが、部屋には教えられた手順で難なく入り込めたし、もらった薬をわずかに注射したら女たちは眠ったまま気絶していた。気配を気取らせないことは俺の唯一の才能だから、当然といえば当然だがな。
薬を使うのは俺の主義には反する。『助けて』と懇願する目を見ながら、殴って反抗する気力を奪う方がはるかに楽しいからだ。それでも、女ばかりとはいえ大人が4人、しかも幼稚園のガキまでいるとなると一気には制圧できない。誰か1人でも逃げたりすれば、計画はポシャっちまうからな。
俺にそんな情報や薬を渡したのは、多分、椎名だ。理由も分かっている。春日を殺したかったからだ。
春日が死ねば、自分が地位を奪える。研究所のトップに立ちたいというチンケな欲望のためだ。だから、たまたま起きていた人権派弁護士団体とやらの要求に便乗したんだ。
別に俺が頼んだわけじゃない。
だが、何人かの弁護士が『南の精神鑑定を1カ所の病院だけで行うのは不当だ。セカンドオピニオンを求めるべきだ』とか騒ぎ出した。多分言い出しっぺは、仕事にあぶれて目立ちたかった役立たずなんだろう。だが、ネットの一部が盛り上がり、マスコミにも火がついた。結局俺は別の病院に移送され、再鑑定を受けることになった。
逃げ出したのは、移送が始まってすぐだ。引き継ぎで大前が同行することになったが、奴が俺の拘束を緩めた。警備員には椎名の息がかかっていたらしく、ろくな抵抗はされなかった。スタンガンを奪って気絶させてやった。大前は、わざわざ俺に殴られもした。俺は街に入る手前の山中に逃げ込み、追っ手がくる前に姿をくらました。
罪をかぶって責任を負わされたのは警備員と同行した看護婦だけだ。
椎名たちは、実力だけでどんどん先に進んでいく春日にそこまで嫉妬していたわけだ。今から考えると、事の発端になった騒ぎも、椎名が弁護士たちに裏で手を回した〝ヤラセ〟だったのかもしれない。
男の嫉妬は醜く激しいというが、全く同感だ。
俺はといえば、一生措置入院を強いられる身だ。逃げようなんて考えたこともない。すでに何人も殺しているんだから、罰を受けるのも当然だ。それが、裁判の結果なんだから仕方ないさ。
そんなふうに諦めていた時に降って湧いた脱走計画だった。
計画が失敗して捕まったところで、今より悪い状況にはならない。成功したところで逃げ続けられはしないだろう。またここに連れ戻されるだけだと分かりきっている。
それなのに、なぜ奴らの言いなりになったかって?
狂ってるんだから仕方ないだろう?
俺の責任じゃないさ。
研究所から逃げることは目的じゃない。退屈だったんだ。しかも俺はまだ、5人しか殺していない。最後に獲物を何人か増やしておきたいと考えたって不思議じゃないだろう?
春日の家の合鍵や薬と注射器、そしてその使い方なんかは、言われた通りの廃屋に用意してあった。大前から、一家全員沈黙させて待ち伏せ、長期休暇前で徹夜帰りの春日を殺せと命じられた。
まあ、俺が春日を憎んでたのは本当だ。殺したい奴のナンバーワンだ。俺の異常性を認めているくせに、『責任能力はある』と1人で主張していたんだからな。他の奴らは責任逃れや保身でのらりくらりだったが、あいつは違った。春日の意見を聞いた検察のお偉方が、逆に驚いていたぐらいだ。
奴は俺を怖がらない。責任を取ることを怖がらない。起きて歯を磨くくらいの軽さで、死刑にしろと断じた。俺の異常性を研究材料にしたかっただけで、生死には元から関心がなかったんだろう。
憎まれるのは平気だ。むしろ快感でさえある。だが、無視されるのは我慢できない。
だから当然、春日は殺す。必ず殺すと決めた。
男を殺したいと思ったことはないが、春日だけは別だ。
椎名たちは、それを見抜いているから俺を選んだ。殺した後で俺が何を言おうが、猟奇殺人犯のたわごとなんか誰も信じないに決まっているしな。
奴らは、それ以上のことが起きるとは考えていなかったろうし、望んでもいなかっただろう。脱走した上に大量殺人なんか起こせば、即死刑にだってなりかねないんだからな。
俺だって分かってる。理屈では。
だけど、俺がその程度で満足できるはずがないじゃないか。
だって、狂ってるんだぜ。
というより、狂ってることを一部の隙もなく証明しなくちゃならないんだ。一家を血まみれの惨殺死体にして、その真ん中で笑ってたら、当然イカれてるよな。余計な邪魔をする春日が消えれば、もう俺を死刑にしようなんて奴は現れないだろう。
それはつまり、法律の網から完全に解放されるってことだ。これだけ殺せたんだから死刑にされたって構いはしないが、狂ってるやつは裁けないんだとさ。
ほんと、日本は幸せな国だよ。
俺は死ぬまで研究所に閉じ込められて、何不自由なく殺人の快感を反芻しながら一生を終えられるわけだ。多少は文才もあるから、ノンフィクションとか小説を書いたっていいな。食いもんは何もしなくても税金であてがわれるから、金なんか必要はない。それでも、興味本位の俗物たちががっぽり稼がせてくれるんじゃないか?
暇つぶしには充分だ。人殺しの高揚感を世間に伝えることだってできる。
快楽殺人の伝道師――ってか。
狂人にとってこれ以上の〝天職〟はあるものか。
まあ、そんなこんなで女たち全員気を失わせ、リビングに集めた。口にタオルを詰め込んでガムテープを貼り、身じろぎもできないように縛る。そして全員が意識を回復したのを確認して、春日の母親から始めた。
上半身の衣服を切り刻んで裸にし、柱に縛り付けて心臓をえぐる。完全に死んだら死体を部屋の隅に転がして、今度は嫁を縛り付ける。次は姉、そして妹……。まさか、その2人まで家にいるとは思わなかった。たまたま長期休暇は家族旅行をするつもりだったらしく、リビングにはいくつものスーツケースが置いてあった。
それにしても、若い女を切り刻むのはいいものだ。これで、書くべき素材も増える。
幼稚園児の娘は、ずっと気絶していた。母親を殺すのを見せつけたいという気持ちはあったが、ガキは何をしでかすか分からない。細すぎて刻みがいがないし、黙らせておくほうが面倒はない。
ロリコン趣味もないしな。
で、4人を殺し終えたのは明け方だ。その頃ちょうど、春日が帰ってきた。リビングを見た春日は当然、我を忘れた。俺は娘に包丁を突きつけ、脅して黙らせようとした。だが、それすら目に入らなかったのかもしれない。
春日は奇声を発して飛びかかってきた。もみ合いになった。
俺は4人も殺して、血に〝酔って〟いた。疲れて果てていた。訳も分からないまま何かで殴られて気を失った。
気付いた時は、この個室に戻っていた。
後で聞かされたのは、娘を救って脱出した春日は車で逃げたが、すぐに海岸沿いの道路から転落したということだ。海から引き上げられたのは娘の死体だけで、その首には深い切り傷があったらしい。当然、俺がつけたものだ。
稀代の猟奇殺人犯の犯行に、さらに〝幼女殺人〟という付録が付け足された訳だ。だが、春日の死体は発見されていないらしい。多分、娘を車から出そうとして溺れ、潮に流されたんだろう。もう、どうでもいい。
これだけ犯行を重ねたんだ。どこから見てもまともな人間のすることじゃないだろう?
俺に責任能力がないことを、誰が疑う?
だからここ数年、こうしてあの輝かしい時間を反芻しながら射精を繰り返してきた。そして、死ぬまで繰り返していく。しかも驚いたことに、こんな生活にはまだ飽きない。
ほんと、たっぷり殺しておいてよかったと思う。
だから、まだ小説は書いていない。実は、そんなものは書く気もない。本当に耐えられなくなるまで飽きたら、所長を脅してまた脱走するだけだ。いや、脱走すら必要ないな。なんとか部屋から出られれば、殺せるナースはいくらでもいる。目をつけている〝獲物〟もいる。
多分そんなことは夢のまた夢だ。だが、可能性はゼロじゃない。だから、所長たちの〝犯罪〟はまだ誰にも話さないでいる。いざという時の切り札だからな。
脅して、ドアを開けさせるための〝魔法のカード〟だ。
それで保安部員に殺されるなら、本望だ。どうせ、生きていたいわけじゃないんだから。そんなにうまく行くはずもないとも思えるが、その時はその時。
このままダラダラと年老いていくまでだ。
それで納得するしかない。そう、諦めていた。
なのに、異変は向こうからやってきた。
やはり俺は、幸運の女神に見初められているんだな。
妙な気配を感じて目を覚ました。真っ暗だ。
おかしい。
いつもなら、常夜灯が消えることはない。当然、監視カメラでクソも射精も見張られている。記録されている。別に気にはしていないが、普段と違うのは……絶対おかしい。
ドアから、かすかな音がする。鍵を開けようとしているらしい。
これもおかしい。
いつもなら、軍人と間違えそうなガタイのいいおっさんが2人組でドアを開ける。抵抗する間などないうちに、薬で意識を失わされる。で、起きた時はいつも拘束されている。
そして、退屈な質問や検査が繰り返される。
奴らが入ってくる時だって、鍵を開ける音などしない。おそらく指紋か掌紋を使ってるんだろう。
なのに鍵を使うのは、生体認証ができないからか?
なぜ? 停電か?
だとしても、なぜ俺の部屋に入る?
他害確実な異常者を閉じ込めているんだから、わざわざ開ける必要などなかろうに? 火事でも起きたか?
そういえば、妙な物音がしたような気もするが……。
まあ、理由なんかどうでも構わない。俺はここでゆっくり、血まみれのリビングを反芻しながら朽ちるつもりでいた。だがこれは、その諦めを打ち破る〝イベント〟なのかもしれない。
ベッドを出て、ドアの前に立った。
音が止んで、ドアが開く。
誰かが、LEDライトで足元を照らしていた。その奥も真っ暗だ。やはり停電のようだ。電灯の光がかすかに壁に反射して、人影がぼんやりと浮かび上がる。黒っぽい手術衣のようなものを着ているようだ。
ナースか? 医者か?
しかも、1人で?
その瞬間、下腹部に炎のような衝動が湧き上がる。
なら、殺そう。
どうせ俺は、ここから出られない。ここで誰かを殺したところで、変わることは何一つない。
いや、あるな。
俺の〝戦果〟がさらに増える。
LEDライトが、俺の顔を突き刺すように照らす。
「南……だよね」
は? こいつ、何か変だ。
最初は女だと思ったが、何か、匂いが違う。体つきは華奢で女にしか見えないが、柔らかさが漂ってこない。妙に鍛えられている感じがする。
その辺の感覚は鋭いつもりだ。人を殺して逃げきるには、そんな動物的な勘が必要なんだ。
何者だ? 警官か?
だが、どうでもいい。どうせ、殺すんだから。
大体、筋肉を付ければ体格も変わる。オリンピックのレスリング選手の中には、女に見えないのも多い。ボディビルをやってるツワモノだっている。
それでも、女は女だろう? 心臓をえぐる楽しみに変わりはない。
俺は、笑った。
「そう。南哲二。人殺しだよ」
その時、何が違うかに気づいた。俺が一度も感じたことがない〝殺気〟を放っていた。
え? 人殺しの俺に向かって?
何だよ、こいつ。まるで、幽霊にでも取り憑かれてるみたいじゃないか……。
✳︎
椎名は考え込んだようにつぶやく。
「捜査はまだ始まらないのかね……?」
龍ヶ崎の部屋のテーブル周りは、電池式のLEDランタン1つで照らされているだけだ。
ぐったりとソファーにへたり込んでいた龍ヶ崎は言った。
「近くの街には駐在所があるだけです。この件に割ける人員はありません。しかも県警本部ではここでの殺人を重大視しています。先ほど鑑識を加えたチーム編成を終えて本部を出たという連絡があったそうです。先遣隊の到着まで1時間ちょっとかかると思います」
「そうは言ってもな……」そして小さなため息を漏らす。「待つしかないということか……」
椎名は大前が自室にこもってからずっと、不安を隠そうともしなくなっていた。
「まだ夜も明けていませんからね。こう事故が続いた上に明らかな殺人――それも異常な殺し方を見せつけられては、不安になるのは分かりますけど」
「他のスタッフにも危害が及ばないかが心配なんだ……」
「研究所の中に殺人犯が潜んでいることは間違いなさそうですからね。しかし私たち以外は全員自室に戻るように厳命しましたから、新たな犠牲が出る恐れはないと思います。住居フロアの廊下は田中警部補の指揮で保安部員たちが重点的に見張っていますから、勝手に出ることはできません。朝になれば窓から光が入ってきますから、不安も和らぐでしょう」
椎名が唐突に尋ねる。
「君は超能力を信じるか?」
龍ヶ崎の答えは自信なさげだ。
「まあ、それらしい現象を立て続けに見せられていますからね……。不可解なカマイタチ現象と言い、予言や爆発といい……。あなたは、全て薬師寺の超能力の仕業だと?」
「否定できないだろう? 我々は、彼に対してやや踏み込んだ検査を進めた。その結果、複数の人格が融合して特殊な能力を獲得してしまったことも考えられる。もしくは、薬師寺が封印していた能力を強制的に引き出してしまった、とか……」
「そもそもの猟奇殺人自体が、超能力でもなければ難しいですからね……。薬師寺が本当に超能力を持っているなら、あの時点で使っていたんでしょう」
「誰かがサイコキネシスを使えれば、そこに城のプログラム知識や岩渕の器用さが加えられて、様々な破壊工作も可能になるに違いない。刑部の詐欺スキルがそれを覆い隠していれば、見抜くことも困難だ。しかも朝比奈に透視や予知能力が備わっているとするなら、無敵じゃないのか?」
「架空の人格であっても、そのスキルを実際に使えるものなんですかね?」
「私にも分からんね。なにしろ、調べ始めた途端にこれだからな……。だが保安部からの報告では、ビル管理のプログラムにハッキングの痕跡らしきものが見られたということだ。管理コンピュータは小型バッテリーを予備に装着しているから、シャットダウンする前にそこまでは調べられたらしい」
「城……ですかね?」
「ハッキングは日常的に受けているから、彼らの仕業とは断定できない。電源が回復するまでは、これ以上の調査は不可能だしな。だが、そうではないというなら、あまりにタイミングが合いすぎる……」
龍ヶ崎は腹を決めたように聞き返した。
「あなたは必要以上に薬師寺を――彼の能力を恐れているように思えます。私が知らない事実を何かご存知なんですか?」
「超能力を信じていることか? そもそも私は、それを研究、解明する部署を任されているんだ。基本的に存在を信じていなければそんな仕事は受けられない。実際に次々に成果は上がっているしね」
「超能力研究の、ですか?」
「詳しくは話せない。極秘の研究だからね」
「極秘? それこそオカルトじみた話を、なぜ極秘に?」
「国家の安全保障に関わるからだ。しかも研究が実用化に近づいている。テレパシーを誰でも利用できるようになれば、通信手段が根底から変わるだろう。サイコキネシスで傷害や爆発が起こせるなら、軍事転用も容易い。軍事に限らず、民生品の世界も根底から変わるかもしれない。まさに電気や原子力の発見に匹敵するインパクトがあるだろう」
「国は、それを独占しようと?」
「他国に独占されることを恐れている。これまでの科学技術の蓄積が陳腐化してしまえば、日本が劣等国化する危険もあるからね。軍事的な危険も拡大する。テロに悪用される恐れだってある。少なくとも、開発競争の第一線に立っていなければ今後の外交交渉にも影響する。国力を維持できなくなる恐れも高い。だからこそのこの研究所だし、多額の税金が投入されている理由だ」
「実はオカルト部のスタッフに関して色々聞いてみたんですが、誰も正確なことは知りませんでした。今回の事件にも深く関わっているみたいなので、オカルト部について教えていただけませんか?」
椎名はしばらく考え込んでから、小さなため息を漏らす。
「確かに、こんな事態になってはな……。警察関係者にはこれ以上隠し通すこともできないだろう。だが、正式に許可が出るまでは絶対に他言しないでほしい」
「それは当然ですが……」
「もう気づいていると思うが、オカルト部は実質的に他の研究から切り離されている。そもそもが初代所長だった春日君に惹かれて集まった変わり者の頭脳集団で、普段の仕事はほぼブレスト――自由形式の討論ばかりやっている。問題点を洗い出し、仮説を立て、解決法を予測し、検証方法を考え、日本中の研究施設に検証実験を依頼し、そのデータを集積する……。最先端の量子物理学や大脳生理学、認知科学、超弦理論の異端児たちがインスピレーションを武器に斬り合うコロシアム――といったところだ」
「超弦理論……って、超ひも理論とか言われてるものとは別のものですか?」
「同じだよ。一般的には超ひも理論の呼び名が浸透しているが、英語ではどちらもスーパーストリング・セオリーだ。研究者は超弦理論と呼ぶし、その振る舞いもヒモというより楽器の弦に近い。基本単位は張力があって振動するストリングで、その状態によって様々な粒子が現れると考えられているからだ」
「なるほどね。で?」
「4階に招かれる天才たちは各種の検査を受けるが、そのデータはオカルト部でも独自に解析される。彼らが注目する部分は、脳科学の一般的な切り口とは全く異なるからだ。オカルト部がこの研究所に設置されたのは、超能力を持つ可能性がある人材を調査するためだった。だが今では、オカルト部にフィードバックされるデータの多くは国際リニアコライダーやハイパーカミオカンデからの実験結果だ。基本的には重力や素粒子の構造を解明するために作られた施設だからね。それらの実験結果を量子コンピューターを用いて総合的に分析するのが次の作業になる。そして再び問題点を探し出す。その繰り返しが日常のルーティンだ」
龍ヶ崎の目が鋭く変わる。
「ただ漠然と超能力を調べているだけじゃないんでしょう?」
椎名はもはや、機密を守ることを諦めたようだ。
「今の目標は、テレパシーの実態を明らかにして利用法を確立することだ」
「テレパシー利用……ですか」
「実用化できれば、その波及効果は軍事から民生品まで無限に広がる。だから、世界各国が開発に躍起になっている。それが厳しいセキュリティーが必要な理由だ。専従スタッフの4人は、オカルト部以外では議論することを許されていない。だから公共空間では一緒に行動しない原則になっている。アイデアを思いついても、オカルト部以外では絶対に話してはいけないし、記録も残せない。他の部門のスタッフとも極力接触がないように居室も地下に固まっている。一連の事件が起きてからは警察の要請で4階に仮住まいしているがね。でもみんな研究しか頭にない変わり者だから、不満が出たことはない」
「なるほどね……研究の内容を理解できる知識はありませんが、大筋は分かりました。しかし、失礼ではありますが、あなたはそれ以上に恐怖を感じているように思えます。ハッキングやテロを警戒しているというのではなく、もっと、そう……生々しくて身近な〝外敵〟に怯えているような――」
椎名が声を荒らげる。
「さっきまで一緒に働いていたスタッフが無残な死体になっているんだぞ。怖がるのが当然だろう?」
龍ヶ崎が椎名の目を覗き込む。
「あなた自身も襲われるのではないか、と?」
「犯人も理由も分からないんだ。私だけじゃない。君だって襲われる危険がある。異変の元凶かもしれない薬師寺の調査チームの一員なんだからね」そして、話を変えようとするかのように付け加える。「それより、サラ君の居場所は分かったのかね? いつの間にか姿を消して、それっきりじゃないか。まさかとは思うが、彼女が次の被害者だという可能性だってある。――いや、もはや〝まさか〟などとは言えないな」
「ついさっきの電話、保安部長からの連絡でした。電波が悪くて聞き取りにくかったですけど、サラ先生は階段ホールで発見されたそうです。本国と連絡するのに、屋上に出て衛星電話を使っていたそうです。今は自室に戻っています。今後は誰かに一声かけてから出るように言ってもらいました」
「そうか……無事ならいいんだが、彼女だって狙われるかもしれない。しかも、アメリカの利益を代表しているわけだからな……」
「スパイかもしれない、と? まさか、犯人は彼女だと⁉」
「それだって、可能性はゼロじゃない。考えすぎならいいんだがな……」
「だとしても、ナースを殺してアメリカになんの得があります? 騒ぎが大きくなれば警戒心を強めることにしかなりません。機密を盗むのが目的なら、狙うのはあなたでしょう?」
「私はすでに狙われたがね」
「はい?」
「大丈夫。余計はことは決して話さないから」
龍ヶ崎はその言葉を深くは追求しなかった。
「しかも、立て続けに起きている事件はどれも不可解なものばかりです。ナースの死体だって、どうやればあんなに損壊できるのか……。人間業っていう気がしません」
「やはり、超能力だと思うかね……?」
「信じられませんけどね……」
そして椎名は頭を抱え込んだ。
「くそ……一体ここで何が起こってるんだ……? なんでこんなことに……」
龍ヶ崎は椎名の動揺を冷静に観察している。
「少しお休みになった方がいいようですね。県警本部のスタッフが着くまでは、何もできることはありません。私たちと保安部員だけで現状を維持しておきますから。県警が着いたら、おそらく休む時間はありません。今のうちに少しでも眠っておいてください」
「そうするよ。眠れるとも思えんがね……」
「外の保安部員に部屋まで同行させます」
「部屋に戻るだけで何か起きるかも、と?」
「あなたがそれを恐れているようなのでね」
椎名は肩を落としたまま力なく立ちあがり、廊下に出るドアを開く。
龍ヶ崎が背後から、ドアの横に立っていた保安部員に声をかける。
「椎名先生を部屋まで送ってください。お疲れのようなので」
保安部員は深くうなずいただけで、LEDライトで廊下を照らしながら先を進んで行く。椎名はまるで亡霊を思わせる姿でその後ろについていった。
部屋が近づくと、椎名が言った。
「大前君は、部屋にいるのかね?」
保安部員が振り返る。
「そのはずですが。全員、1人で部屋で待機するように指示されていますから」
「少し彼と話したいんだが」
「しかし、龍ヶ崎さんの指示が――」
椎名が力なく命じる。
「ここの所長は私だ。長くはかからない。君はドアの前で待っていればいい」
「分かりました」
椎名は大前の個室に入った。部屋は、テーブルに置いたランタンで照らされている。
気配を察した大前が横になっていたソファーで飛び起きる。相手が椎名だと気づいて、大きなため息をもらした。
「脅かさないでください……」
「眠っていたのか? よくこんな時に……」
「ちょっとぼんやりしていただけです。参りましたよ、まったく……」
椎名は大前の横に座って、小声で言った。
「なぜ滝沢君が殺されたのか、分かるか?」
「幽霊のやることなんか、知るもんですか……」
「だがこれは、我々への復讐だろう?」
「そうと決まったわけじゃありません」
大前はそう答えはしたものの、自分の言葉をまったく信じていないことは表情ににじみ出ていた。頭を抱え込む。
「滝沢君は、君と特別な関係だったのだろう?」
「知っていたんですか?」
「薄々、な。だとしたら、君を追い詰めるために――」
大前の声のトーンが上がる。
「変なことを言わないでください! なんの根拠があるんですか⁉」
「君がこんなに怯えているからだよ。確かに、薬師寺の中に春日の霊魂が潜んでいると考えるのはオカルトに過ぎるかもしれない。状況証拠がないなら、私だって真剣には取り合わない。だが君は、不可解な力で腕を切られた。写真にも原因不明の傷が入った。奇妙な予言の後に予備電源を無力化して、さらに停電。その間に君と関係する女性が惨殺された」
「何が言いたいんですか⁉」
「誰かが君を追い詰めようとしている」
「犯人が春日の霊魂なら、あなたこそが標的のはずでしょう⁉」
椎名がうなずく。
「その通りだよ。君を追い詰めるということはすなわち、私を追い詰めるということだ。本当に脅かされているのは、私だ。予言の〝次〟は滝沢君だった。だったら〝次の次〟は君かもしれない。そしてさらに〝その次〟は、多分、私だ……」
大前が顔を上げた。
「ずいぶん冷静ですね……」
「テレパシーはオカルト部が実証しつつある。だったら、もはや幽霊の実在も否定しきれない。だから、春日の霊魂が復讐を企てているという前提で動くことにした」
「それにどんな意味があるんですか⁉」
「逃げる方法がある」
「はい?」
「オカルト部だよ。あの部屋は、外界から遮断されている。中の量子コンピューターは完璧なスタンドアローンで、外部とのリンクは一切ない。壁は完璧に音声も電磁波も遮断する」
「だから幽霊も入ってこれない、と? でも、空気は取り入れなきゃならないでしょう?」
「それも遮断している。何でも、潜水艦の空気循環システムを導入したらしい。基本的には化学反応で酸素を発生させ、二酸化炭素は薬剤入りのフィルターで吸収する。薬剤などの補給品は、スタッフが出入りする際に必要な分量だけ持ち込む。中には数週間は生命を維持できる酸素ボンベも用意されている。生体認証などのセキュリティー装置や量子コンピューターを1週間程度動かせるだけの専用の大型バッテリーも装備しているしな」
「そこに籠もれば逃げ切れる、と? 警察にはなんと言うんですか⁉」
「何も言わない」
「立て籠もるだけじゃ、外部の様子すら分からないじゃないですか! どうやって状況を知るんですか⁉」
「エアロック内には内線電話とトイレがある。数時間おきにエアロックに出て、電源が復帰したか確認すればいい」
「幽霊が怖いから逃げ込んだって言い訳するんですか⁉」
「それが事実だからね」
「でも、薬師寺が生きている限り幽霊は消えない!」
「これから、誰かに薬師寺を殺させる方法を考える。だから、君も協力しろ」
「むろん、するしかありませんが、アイデアはあるんですか?」
「保安部員の中には弱みを持っている人間もいる。薬師寺が脱走を図ったとか理由を付けて、射殺させる」
「そんな武器があるんですか⁉」
「機密、だがな。脱走よりも、産業スパイの侵入に備えた用心だ。保安部には、傭兵として人を殺した経験を持つ者もいる。それが役に立つ」
「でも、警察が力づくでオカルト部に入ろうとしたら?」
「DNAロックに登録されていない人間はエアロックを通過できない。バズーカ砲ぐらいになら耐える強度もある」
「DNAロックって……それじゃあ僕は入れないじゃないですか⁉」
「スタッフが補給品を運ぶと言ったろう? なんとか生体認証を欺く方法を考えて、一緒に入ろう」
「ですけど、電磁シールドがあるからって、幽霊が入ってこない保証はないでしょう?」
「オカルト部では、霊魂と呼ばれる存在の正体は電磁波に近いと考えている。100パーセントとはいえないが、生き残れる確率は今よりはるかに高い」
「本当に、外部とは何も接点がないんですか?」
「通常電源だけは外から取り入れている。電力線を使って侵入できるようならお手上げだが、それでも薬師寺を処分する時間ぐらいは稼げるかもしれない」
大前はしばらく椎名を見つめてからつぶやいた。
「なぜ、僕にそこまで……?」
「協力者がいなければ、警察を出し抜けないかもしれないからだ。しかも私1人がオカルト部に逃げ込めば、君が過去を暴くかもしれない。春日一家の惨殺が私たちの陰謀だと警察に自白すれば、幽霊も復讐を諦める――君はそう考える可能性がある」
大前があっさりとうなずく。
「確かに。いつ始めますか?」
「しばらく計画を詰める。携帯で連絡するから、それまで窓際の電波が届く場所で待っていてくれたまえ」
大前の表情に落ち着きが戻り始めていた。
「生き残れるチャンスはあるんですよね」
「抵抗できる余地は、ある。黙って殺されるよりマシだ」
「期待してますよ」
「我々は運命共同体だからな」
「共犯者と呼ぶよりは聞こえのいい、便利な言葉ですよね」
椎名はニヤリと笑うと、部屋を去った。
10数分後、大前の部屋のドアがノックされる。
大前はドアに向かう。
「所長ですか?」
ドア越しのかすかな声。
「サラです。ご相談したいことがあって……」
大前はロックを外してドアを引く。
ところどころにランタンを置いただけの暗い廊下に、サラが立っていた。
「どうしましたか?」
「中に入っていいですか?」
「ええ……。でも、警備に許可は?」
「取ってあります」
大前が廊下に首を出して確認する。傍に立っていた保安部員が、言った。
「緊急の用件だということで」
サラがうなずく。
「薬師寺氏の暴走、抑える方法があるかもしれません。大前先生にも検討していただきたくて」
大前の表情が一気に明るくなる。
「ぜひ!」
サラは部屋に入ると、なぜかドアに鍵をかけた。
振り返った姿がテーブルのランタンで照らされる……。
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