6・滝沢真奈美(たきざわ まなみ)

 ほんと、イヤになる。

 椎名があの女の部屋に入って行くの見ちゃった。両手にボトルワインをぶら下げて。しかも、こんな夜中に。

 それだけ飲ませりゃ、気が緩んで股を開くかもね。それとも、薬でも仕込んで意識を失わせる気?

 てか、女の方から誘ったんじゃない? 医者だか学者だかのくせに、淫乱かよ。まだここにきて数日しか経ってないんだぞ。

 そのくせ、やたら馴れ馴れしいし。これまであたしがなんの仕事していたのかとか、病棟にはどんな患者がいるかだとか、根掘り葉掘り。

 考えようによっては仲良くしようとしてるようにも見えるけど、相手は博士様だからね。しかもアメリカ代表だよ。下っ端ナースにマウンティングしてるとしか思えないわよ。答えないわけにいかないじゃない。

 オカルト部みたいに秘密っぽい部署じゃないんだしさ。

 その上、施設中を案内させられたし、大して関係もない4階に長居された。所長から『アメリカの意向には逆らえない』なんてグチられたら、嫌ですなんて言えないしね。

 あんまり細かいとこまで詮索するから『何かの調査ですか?』って聞いてやったら、ケラケラ笑って『お友達になりたいだけよ』だってさ。あんなに美人じゃなかったら、本気にしたかもしれない。でも、嫌味なだけ。

 しかも、あっという間に椎名を手玉に取りやがった。いきなり正面突破だもんね。

 こっちは椎名に近づくのにどれだけ苦労してるか。薬師寺っていう気持ち悪いサイコさんの研究チームに入り込むのに、わざわざ大前に抱かれてやったんだから。まあ、正直言って椎名みたいな脂ぎったジジイを相手にするよりは我慢しやすいけどね。

 だってお金が要るんだから、しょうがないじゃない。老後に備えて、マンションでも買っておかないとさ。

 国からバカ高い補助金が出てる割には、この研究所の給料は大したことはない。とはいえ、最初はその金額に釣られちゃったんだけど。街からも遠いし、店だって敷地の中のコンビニとかレストランぐらいしかないし。いい男探さなきゃいけない年頃の女には、島流しも同然。

 それなのに、同じ年代の看護師がちょっと気張れば稼げる程度しか収入がない。宿舎や食堂が無料だっていっても、実家から通ってれば同じことだし。都心の大病院に務めていれば、多少忙しくても遊べる場所には困らない。出会える男の数だって、比較にならない。

 何しろここは、所帯持ちの医者と頭のタガが外れた患者ばっかりなんだから。せめて独身の天才さんたちと知り合いになれれば希望もあったんだけど、何度頼んでもそっちの専従にはさせてもらえなかった。

 1年は我慢したけど、限界だよね。夏休みに実家に帰った時には、真剣にもうやめようって考えた。

〝あの男〟が言い寄って来るまでは。

 あいつ、1億出すって言ってきた。

『超科学部門で何を研究してるか調べて欲しい』だとさ。しかも手付金は、別途で500万円。

 断れるわけないじゃない。

 だけど仲間内じゃ『オカルト部』って陰口を言われてるヘンテコな区画だよ? しかも、モグラみたいに薄暗い地下にこもって。そんなとこの何が知りたいんだろう。真面目な研究なんてやってるわけないじゃん。

 なのに1億円だなんて。

 理由を聞いてみたけど、答えなかった。なんで知りたいのか、誰が知りたがっているのか、そこも秘密。『詮索するならこの話はなしだ』って。逆に、役に立つ情報が得られたらギャラはもっと出せる、とか。

 多分、どこかの大手企業の産業スパイか、どこかの国の情報機関ってやつなんでしょうね。あたしは、CIAってやつだと思うよ。あいつはどう見ても日本人だけど、一流ホスト並みにカッコよかったし、身なりもお金かかってたしね。なんか、身のこなしとかアメリカっぽかった。時々ネイティブっぽい英語が混じってたし。

 最初は自信はないって逃げたけど、それでも試して欲しいってさ。考えときますねー、ぐらいのお愛想は言っておいた。

 次の日には、実家のポストに500万円入っていた。

 びっくり。

 実は大して本気にしてなかったから。こうなったら、一億狙うしかないわよね。

 改めて考えて見たら、確かにオカルト部って怪しいものね。スタッフは変人さんばかりだっていうし、初代所長の怖い噂も流れてる。超能力とかふざけた研究やってるって評判の割には、セキュリティはとんでもなく厳しいって聞いてるし。厳しくする理由を考えたら、やっぱり大事な研究してるんだろうな。

 そんなところに入り込めるんだろうか?

 どうやったら秘密を探れるの?

 でも、何かしら成果を渡さなかったら、お金にならないことは分かってる。まずはオカルト部のトップに取り入るのが定石。女の使い所よね。つまり、最初のミッションは所長の椎名を落とすってことよね。

 とりあえず、若さだけは自慢できるから。この研究所の中では――っていう注釈付きだけどさ。

 でも、下っ端の看護師がいきなり所長っていうのは、厳しい。そもそも、これまでろくに話もしたことないし。どうしたもんかって考えていたところに、『解離性同一性障害の猟奇殺人犯』が収容されるって話が持ち上がった。

 それ自体にはあんまり驚かなかった。だって、病棟の患者は多かれ少なかれ、そんなヘンテコな連中だし。いわゆる天才も入れ替わり立ち替わり検査に来るけど、あの人たちだって相当変人。あまり関わりはなかったけど、それでも相手をするのが疲れること疲れること。

 この研究所は、そういうところ。実際に、殺人犯の〝A級要注意患者〟も2人、措置入院してるしね。だけど他害の危険がある患者なら、充分以上の安全対策をとることも常識だから、怖くはない。顔を合わせれば、気持ちは悪いけど。

 それが分かっていても、大抵のナースはあいつらの世話はしたがらない。仕方なくやってるだけ。あたしだってそうだけど、患者の分析を担当するチームを椎名が仕切ると聞いたら、話は別よね。

 何とかチームに入って椎名に近づかなくちゃ。

 チームには大前も入るって公表されていた。だからあたし、入れてくれって頼みこんだ。『解離性同一性障害にすごく関心があるんですぅ』とか猫なで声出しちゃってさ。大前はまだ未熟な看護師が加わるのを嫌がってたみたいだけど、ちょっとコナかけたらあっさり入れてくれた。

 当然、寝るのは拒否できなかったけど。

 けど、薬師寺の検査が始まってからはビックリの連続。この話するだけでも、CIAがお金くれるんじゃないかな。

 だいたい、四肢に別々の人格を呼び出すスイッチがあるなんて、なんのアニメだよ。検査の時だってちょっと強く刺激すると人格が入れ替わっちゃう時もあるから、面倒だったらありゃしない。採血で痛点に当たっただけで人格変わるなんて、ほとんどお笑い。お笑いのくせに『特定の人格を呼び出さなきゃいけないのに、ヘマするな』って何回大前から怒られたか。

 あいつ、本気で怒るんだぞ。贅沢も言わずに抱かれてやってるのに。

 仕方ないだろうが。こんな妙な患者は、今まで誰も扱ったことがないんだから。

 あれに付き合わされてから、ちょっと考えが変わった。これほどおバカチックな現実があるなら、スパイが躍起になってオカルト部を探ってるのもリアリティがある。なんか突拍子もない秘密があったって、おかしくない。

 しかも1億円だし。少なくとも、500万円は本物だった。

 そう思って本気出して大前とかに探りを入れ始めたら、これもビックリなことが多かった。何より、セキュリティが桁外れっていうのが予想以上だって分かった。

 オカルト部の専従員は4人。医師は1人だけで、あとは量子コンピュータとか超弦理論の専門家だとか、この研究所にはそぐわないスタッフ。しかも居住区画はみんなとは完全に別で、病院の方とは行き来もない。唯一出入りしているのは、椎名だけなんだって。

 しかも研究室への入室は厳重にチェックされていて、指紋、掌紋、顔認証は当然、ありとあらゆる生体認証が必要で、DNAまで検査されるって。

 なんだ、そりゃ?

 たかが部屋の出入りにDNAまで調べるか?

 って思ったのが、顔に出たんでしょうね。大前はベッドの中で自慢げに言った。

「警備が厳重なのは、それ自体が研究の目的だからだ。何10もの情報を量子コンピュータを使って一瞬で照合する。最終関門のDNAロックでは、専用のスティックで口内粘膜を採取し、量産計画中のDNAチップで解析して100以上の指標で個人を特定する。その間約2分ほどだという。このシステムをもっと高精度に、効率的に行えるようにできれば、日本独自の技術として輸出することも可能だ。顧客も少なくないだろう」

 大前は鼻高々に話したが、その本人がオカルト部に入る権限を持っていないんだから茶番よね。椎名の話を聞きかじっただけでしょうが。

 男って、どうしてこう自分を偉そうに見せたがるんだろう。

 でも、これはこれで買い手が喜ぶ情報かも。これ以上は、椎名所長の懐に――じゃなかった、ベッドに入り込むしかないでしょうね。

 だけど、薬師寺のチームに加われてよかったこともたくさん。大体、病棟の個室患者の面倒を見ないで済むだけで大収穫よね。なんでもっと早く試してみなかったんだろうって、今更ながら思う。

 特に〝A級〟の南ってオヤジ。A級だけあって、目つきを見ただけで〝ぶっ飛んでる〟って分かるもんね。拘束衣を着せられてたって、近づくだけで寒気がしちゃう。何で早く死刑にしないのか理解できない。

 いくら頭がおかしいからって、死刑にできないから一生措置入院だなんて、わけ分かんない。狂ってるから裁判もできないし、本人には罪がなくて、それでも世の中に出したら何するかわからないから閉じ込めておくって……だったら、大した意味のない検査や日常の面倒まで見てるあたしたちの危険はどうしてくれるのよ。

 物理的危険はないっていくら言われても、実際にストレスで辞めてった仲間が何人もいるんだから。怖いに決まってるじゃない。

 死刑は残酷だとかデモってる奴ら、あんたらがA級と一緒に暮らして面倒見ろっていうのよ。全部自腹で、ね。

 しかも南ってサイコ、この研究所の初代所長の家族を皆殺しにしたっていうらしい。ここに入る前のことは噂でしか聞いてないけど、それって案外計画的だったんじゃないの? 自分の担当医を恨んでたから殺したっていう話も聞いた。

 あいつに見つめられると、それって本当なんだろうなって納得できちゃう。絶対、あたしのことも殺したがってるから。

 南の病名は双極性障害や多動性障害を併発してる統合失調症だけど、時々ものすごく冷たくて冷静な目をする。こいつ、詐病や虚偽性障害じゃないかって思えることも多い。検査や面談はいつも『責任能力なし』ってことになるけど、みんな怖いから触れたくないだけなんじゃないの?

 それぐらい怖いんだから。

 だから、病棟から離れられて感謝してる。それだけでも、大前に抱かれた価値はあるわよね。ここ最近、毎晩通って来られるのは鬱陶しいけど。たまにはゆっくり寝かせろよ、って。

 男は嫌いじゃないけど、セックスジャンキーってわけじゃないんだから。あいつ、ここ何日かは特にしつこいし。なんか、イヤなことを忘れたくて無理して夢中になったふりしてるみたい。

 家庭の事情か? そんなどうでもいいことに付き合わせるなよ。

 もう11時過ぎか。いつもなら、そろそろ来る時間だよね。今日は化粧落として素顔で抱かれてやろう。あたし的には悔しいけど、少しでもブサイクだって思えば、通って来る日数も減るかもしれないしね。

 あ、ドアのノック。そりゃ、来るよね。こんな山の中じゃ、他にすることもないんだろうし。やっぱり、実家に帰っても嫁とはうまくいってないんだろうね。

 気を取り直して、ドアに向かう。

「はい、今開けます」

 ドアを開けた途端、いきなり意識が遠くなった。

 自分がへなへな崩れていくのが分かる。気がつくと、ドアを引いた腕に注射針を刺されていた。

 あれ……? どういうこと……?

 そして目の前が暗くなっていく……。

 電気が切れたの? 廊下も真っ暗……。

 停電? こんなの初めて。

 意識が遠くなる……。


        ✳︎ 


 廊下は、暗闇に呑み込まれていた。常夜灯や非常口の案内も消えている。

 小音量で緊急放送が流れる。

『ただいま、原因不明の停電が生じています。予備電源も火災中につき、復旧の見通しは立っておりません。現在居室のドアも施錠不可能な状態となっております。安全確保のために保安部員が廊下を巡回していますが、特別の事情がない限り居室での待機をお願いします。なお、備え付けの内線電話や無線LANも不通となっています。また、保安部員および施設メンテナンスの係員に連絡します。各自居室備え付けのLEDライト持参にて1階中央管理室に集合してください。早急に原因の調査と復旧を行います。繰り返します……』

 研究が緊急性を伴わない高次脳科学研究所では、残業を強いられることはほとんどない。2階の研究区画の夜はほとんど人影もない。4階病棟区画にも一般患者はいないし、スタッフは措置入院患者対応のための当直に限られる。それでも10時ぐらいまでは1階の公共区域での交流が盛んだが、それ以降はほぼ全員が居室に戻る。

 その中、LEDライトを持った保安要員に先導された椎名が廊下を急ぎ足で進む。

「君……名前は何といったっけ?」

「新垣です。保安部部長で、各フロアの主任を統括しています」

「素早い対応で助かった」そして、やや不安げに問う。「他の部屋のオートロックも全て解錠されてしまったのか? 病棟の患者が逃げ出さないか?」

 屈強な体躯の新垣が説明する。

「病棟区画の個室は、停電時は逆にロックされる仕様になっています。完全に電源がダウンしていますから、そこでは生体認証も不可能になっています。閉まっている鍵は、合鍵がなければ開きません」

 椎名は歩きながらの会話で、息が苦しそうだ。

「患者は脱走できないのだね?」

「それは確かです。しかも、ナースステーションには自衛隊などで訓練を積んだ保安要員が複数待機しています。仮に脱出できた者がいたとしても制圧可能です。そもそも、他害の危険を持つ患者は数人にすぎませんから」

 椎名は安心したような息をもらす。

「だが、なぜこんな事態になった? 停電など、これまで一度もなかったのに……」

「保安部では心配していましたよ。原発が満足に動かせないままですから、真冬や真夏の電力供給力はここ10年以上も綱渡り状態でしたから。いつぞやの北海道地震では、1か所の発電所がダウンしただけで全道がブラックアウトしましたしね。広域の停電が起きれば、この研究所も巻き込まれます。そのための備えとしての大型予備電源と自家発電機でしたが、昨日の火災で機能を停止しています。不運が重なったようですね」

「本当に不運なのだろうか?」

 今度は新垣が不安をにじませる。

「サボタージュ……ですか?」

「あるいは、テロ」

「可能性はゼロとは言えません」逆に質問する「しかし、テロリストに狙われるような研究をしているんですか?」

「最先端の研究所だからね。国から守るように指示されているから、君たちのようなスタッフも充実させた。それは、ガードを破りたいと考える不届き者を呼び寄せる原因にもなる」

 その時、新垣のヘッドセットに連絡が入ったようだ。

「部下から連絡です……分かった、君たちは2階の警備を厚くしてくれ……保安要員全員にスタンガンを渡すように。そして、電力会社の協力を仰いで停電の範囲と原因特定を急いでくれ」

 通話を終えた新垣に椎名が問う。

「通信はできるんだね?」

 新垣は不安そうだ。

「館内無線LANはまだ機能しています。しかし、装置付属のバッテリーは小容量ですから、間もなく使用不可能になりそうです。各コンピューターのバックアップが最優先されますから。館内放送もできなくなるでしょう。予備電源までがダウンすることは考えていませんでしたので……」

「仕方あるまいな。で、なんの連絡だったんだね?」

「他の地域では停電は起きていません。この研究所だけのようです。可能性としては電力線の切断、あるいは管理システムのハッキングなどによる電力遮断が考えられます。外部からの攻撃という可能性が高まりました」

「ハッキング……? そんなことができるのか?」

「オンラインで管理されているスイッチ類ならオン・オフが可能ですし、基幹部品に過重な負荷をかけて破壊する手口もあります。保安部員や事務のスタックも、たびたびソーシャル・エンジニアリングの攻撃対象になっていますから。もしそうなら、今回は保安部が兆候を見逃していたことになります。私の失態です。ですが、最も確実なのはやはり電力供給網の破壊でしょう。ここは市街地から離れていますから、10キロ近い共同溝によってライフラインが支えられています。その何処かが切断されていれば……」

「遮断されるのは電気だけではないのか?」

「そうなりますが、それほど大掛かりな攻撃なら破損箇所がすぐ特定できるでしょう。復旧も早いと思われます」

「分かった。そちらの対処は任せる。ただし、攻撃的意図を持った何者かの存在は想定してくれ」

「当然です。そのための保安部ですし、田中警部補からも指導を受けていますから」

 彼らは2階の薬師寺の元に向かった。

 面談室ではすでに大前が待っていた。手にしたLEDライトで、ガラス越しの薬師寺の部屋を照らしている。

 ライトを浴びた薬師寺は、ソファーに座って背筋を伸ばしている。その目はじっと、大前を見返している。

 2人の間の緊迫した空気を感じ取ったのか、椎名が新垣に命じる。

「君、ここはもういい。停電に対処してくれたまえ」

「ですが、あの患者は危険では?」

 大前が言った。

「ドアにロックはかかっているから彼は出られない」

「了解しました」

 新垣は面談室を去った。

 椎名はドアを閉めて大前に並ぶ。

「こちらの声は向こうに聞こえるのか?」

「小声なら届かないでしょう」

「あいつ、何をやってる?」

「ただ、座って僕を睨んでいるだけです。ここにきたときからずっと……おそらく10分以上あのままです」

「不気味だな……。まさか、この停電も奴が……?」

「同じこと、考えてますね。僕も、そんな気がしてきました。あいつの中には凄腕ハッカーも宿っています。もしも春日の霊魂が潜んでいて、他人格を操れるなら……」

「超能力で私たちに復讐しようとしているのか……」

 と、不意に薬師寺の首ががっくりと前のめりに崩れる。

 椎名がつぶやく。

「何だ⁉」

「ナルコレプシー……人格が変わる兆候です……」

 そして薬師寺は顔を上げた。冷たい目で大前を見つめる。そして、言った。ガラス越しの声がかすかに届く。

『次の次は、お前だ』

 一瞬たじろいだ大前が、叫ぶ。

「次の次……? どういうことだ⁉」

『楽しみにしていろ』

「君は誰だ⁉ どの人格なんだ⁉」

 薬師寺はニヤリと笑うと、再び首をうなだれた。そのまま、動かない……。

 そのとき、どこからともなく遠雷のようなくぐもった音が聞こえた。

 椎名が大前と顔を見合わせてつぶやく。

「何だ? 所内の音か?」

「まさか……また何か爆発が……?」

 2人は廊下に飛び出した。

 辺りの暗闇を見回しながら、スマホを取り出す。館内無線LANは早くも機能を止めたようだが、この場所には辛うじて研究所外からの電波が届いていた。椎名が保安室に連絡する。

「今の音は何だ⁉」

 返事が途切れがちだ。

『あ、所長――まだ不明です。所長に――聞こえましたか。今、どこ――か?』

「2階の検査フロアだ。予備電源がまた爆発したのか?」

『今、確認して――す。予備電源の再発火――ありません。所内――精査している――です――』と、マイクを抑える気配がある。そして口調が変わる『分かり――た! 3階の居住区域で小さ――爆発が――そうです。これから担当者――向かわ――す!』

「3階だな⁉ 私も行こう!」

 そして2人は早足で階段に向かった。

 3階の廊下に出ると、暗がりの中でスタッフが慌ただしく行き来している気配がある。その先に、かすかな光が見える。何かが燃えているようだ。

 椎名が足を早める。

「所長だ! 道を開けてくれ!」

 燃えていたのは、ナースの滝沢の居室だった。LEDライトのかすかな明かりでも、ドアが枠ごと吹き飛ばされて周囲が焦げていることは見て取れる。火は、ほぼ消えている。

 周囲の部屋のスタッフが消火器を持ち出していたようだ。

 その中には、両手でLEDライトを握りしめたサラもいた。

 大前がサラに気づく。

「何が起きたんですか?」

 サラが大前に目をやる。

「あ、大前先生……よくは分からないんですけど、爆発音がして……。停電もしてるみたいだし、廊下に出たらこんなことになっていて……」

 椎名が奥へ進もうとする。

「ここは滝沢君の部屋だよな。彼女は無事なのか? どこにいる?」

 サラが応える。

「まだ見かけていませんが……」

 すると、滝沢の部屋の奥から龍ヶ崎が現れる。

「あ、椎名所長」

「滝沢君は中に?」

「中には誰もいませんでした」

「だったら、なぜこんなことに?」

「事故じゃないようですね。爆発は、ドアの周辺で起きています」

「誰かが爆破したと⁉ まさか、滝沢君が⁉」

「その可能性も否定できません。彼女、姿を見せていないんで」

「だとしたら、なんのために……?」

「刑事じゃないんで、そこまでは分かりませんけど。今、田中警部補が保安部の専用無線で県警本部と連絡を取っています。数時間のうちには捜査が入ると思います」

「捜査……?」

「事故でないなら、破壊工作ですから。田中は、事態が明らかになるまではテロ事件として扱うと言っていました。ですので、この部屋とその周辺は立ち入り禁止にします。ご協力お願いします」

「それは私が決めることだ」

「いいえ、犯罪の可能性があるなら、権限は警察にあります。警部補が出向しているのも、そのためですから。ましてや、今は停電や自家発電機の火災が重なっています。偶然の一致とは考えにくい。何者かの意図があると仮定して行動するべきです」

 椎名が不満げに応える。

「やむを得ないな……だが、私は中を見ておきたい」

「私の権限では許可は出せません」

「君が一緒に入ればいいじゃないか。中を見るだけだ。何も触ったりはしない」

「分かりました。それなら」

 2人は部屋に入っていく。

 大前は彼らの後ろ姿を黙って見守っていた。LEDライトの明かりの中でも、青ざめているのが感じられる。

 サラは言った。

「具合、お悪いんですか?」

「あ、いや……滝沢君がどこに行ったのか気になって……」

「変ですよね、こんな時間に部屋にいないなんて。まさか、本当に彼女が爆発させたのかしら……」

 大前がフラフラと力なく部屋の中に進む。

「僕も見ておきたい……」

 サラも続いた。

「ですよね」

 部屋の奥は全く荒れていない。龍ヶ崎が言う通り、爆発はドアの周辺でだけ起きたようだ。椎名たちが周囲をLEDライトで照らしている。やはり、滝沢の気配や痕跡はない。

 と、サラが玄関から入ってすぐのクローゼットの下に光を当てる。

 声をあげた。

「これ、なんでしょう……」

 男たちが走り寄って床を照らす。

 扉の下が、わずかに赤黒い筋になっている。

 龍ヶ崎がつぶやく。

「血痕……でしょうね」

 椎名がうなずく。

「下から染み出しているのか……」

 龍ヶ崎が緊張した口調で言った。

「廊下のスタッフに居室に戻るよう命じてください」

 椎名が顔を上げる。その先に、新垣がやってきていた。

「新垣君、皆を部屋に戻して待機させてくれ」

「了解しました」

 新垣はさらに部下に命じて、集まっていたスタッフを解散させた。彼らはすでに、使用不能になったヘッドセットを外している。

 そこに、田中警部補が戻る。

「1時間後には県警本部から応援が来ます」そして緊迫した空気を感じ取る。「何か見つかりましたか?」

 龍ヶ崎が床を示す。

「血痕のようだ。扉、開けていいね?」

「私がやりましょう」

 そして田中は、ハンカチを出して手を覆った。クローゼットの取っ手の端に指をかけて、引く……。

 何かが床に転がり出た。

 最初、彼らには、それが〝何〟か理解できなかった。LEDライトの明かりが集中する。

 真っ先に声をあげたのは、大前だった。

「まさか……」

〝それ〟は、ナースの滝沢だった。

 着衣のまま身体中を傷つけられ、腕や脚を不自然なまでに折り曲げられ、小さく折りたたまれた滝沢の体だった。180度まで捻られた顔が不自然に傾き、彼らを見上げている……。

 椎名がうめく。

「そんな……誰がこんなことを……」

 大前が振り返って廊下に飛び出す。LEDライトを捨て、壁に両手をついて体を支える。吐き気をこらえているようだった。

 サラが大前を追って、ささやいた。

「大丈夫ですか⁉」

「あ、いや……」

 そして、腹の内容物を吐き出す。ひとしきり体をひくつかせた後に、何回か唾を吐き出した。

 サラがつぶやく。

「大切な人だったんですか……?」

 大前が苦しそうにつぶやく。

「いや、そんなことは……ない……。ただ――」

 そして大前は言葉を詰まらせた。

 サラが小声で言った。

「すみません。見なかったことにします」

「君は……平気なのか? あんな彼女を見て……」

「ERにはよく出入りしてましたから。アメリカじゃ、銃で撃たれた患者だって珍しくありません。でも、平気だなんてとんでもない。ただ、どうしてこんなことが起きたのかの方に関心があります」

「冷静なんだな……」

「あなたにも、冷静に対処していただきたいですから」

「ありがとう……。努力はする。ただ、君の直感は内密にお願いする。家族もあるんでね……」

 大前はそう言ってサラを見た。

 サラには、大前が恐怖に囚われているようにしか見えなかった。

 椎名が背後から声をかけた。

「君たち、薬師寺の様子を見に行くぞ。ついて来たまえ」

 彼らは再び薬師寺の元へ戻った。

 面談室に入るなり、椎名が薬師寺をなじる。

「君がやったのか⁉」

 薬師寺はソファーに座ったまま、意識を取り戻していた。表情はいつもの薬師寺に戻っている。

「なんのことかね? 何があったんだ?」

「ふざけるな!」

 薬師寺は、呆けたように天井を見上げる。

「この部屋、なんでこんなに暗いんだ……?」

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