5・第5の人格=城紀明(じょう のりあき)

 外が騒がしい。ガラスの壁の向こうで人の出入りが慌ただしい。しかも、いつもは3人がこちらを観察しているのに、今は手術衣姿のサラだけだ。

「何があった?」

 部屋の中、目の前には大前がいる。ここの部署の責任者だ。つまり、俺を捕らえている張本人だ。

 我慢すべきなのは分かっているが、それでも腹立たしい。

 大前が言った。

「火災が起きている。心配するな、単なる事故で〝君たち〟とは何も関係がない」

 簡潔に説明したつもりなのだろう。その通り、これで充分だ。人間は、語ってはいない部分でこそ真実を雄弁に語るものだ。多くの人間は、そう〝プログラム〟されている。

〝単なる事故〟とあえて断るのは、そうではない可能性があるからだ。〝関係がない〟と強調するのは、関係しているかもしれないと思っているからだ。

「緊急事態なのか? ここで俺の相手をしていていいのか?」

「すでに多くの職員が消火に当たっている。消防署は遠いが、間もなく化学消火隊が到着するはずだ。僕たちにできることはない」

「普通の火災とは違うらしいな。燃料系統……いや、バッテリーか?」

 大前の顔に緊張が走る。

「なぜそう思う⁉」

 図星だな。

「化学消火隊が来ると言うからだ。彼らは通常、製油所などで水が使えない火災を担当する。ここにはそれほど大規模な設備があるのか? しかも〝俺たち〟みたいなアブない患者を隔離できる施設なら、すぐに消防署が駆けつけられる場所ではない。備蓄燃料ぐらいの量の石油類なら、独自に鎮火できる準備を整えているはずだ。それなのに、一般的な消火ができない火災が発生している。だとすればバッテリー――おそらくはバックアップ用のNAS電池でも発火したと考えるのが当然だ。このスケールの研究所なら、消費電力も相当なものだろう。大型の医療機器も多いしな。量子コンピュータも稼働していると聞いたから、その分の電力消費も上乗せされる。当然、バッテリーはかなり大容量にならざるを得ない。そういえば、さっきかすかな爆発音と振動があった。あの時だな。火が出れば、数日は燃え続けるかもしれない」

 最初は唖然とするだけだった大前が、みるみる顔色を失っていく。

「君は何か知っているのか……?」

「何か?」

「なぜそこまで分かる? この部屋から出てもいないのに……」

「ネットで研究所の情報は集めてある。その上で、あんたの言葉を分析してみただけだ」

「本当か……?」

 大前の表情には、恐怖に似た陰りが滲み出していた。

 俺を、いや〝俺たち〟を異様に恐れている。そうとしか思えない。

 なぜだ?

 これほど単純な帰納的推論を、恐れる必要などないだろうに。

 だとすれば、外の爆発と〝俺たち〟が関係していると信じ込んでいるのか?

 俺は、この部屋に閉じ込められていたし、外に出るのは厳しく監視されながら検査を受けるときだけだ。事実上の、囚人だ。

 なのに、なぜ爆発事故に関係できる?

 関係していると思い込んでいる?

 ここにいながら爆発を起こせるとでも考えているのか?

 いや……本当に起こせるのか?

 そういえば、この研究所には『超科学部門』という部署があると紹介されていた。一般的に超科学といえば、サイコキネシスやテレパシーなどの超能力や実現不可能な疑似科学をいう。サイトでは冗談めかして書いてあったが、国からの資金が投入されている研究所に〝冗談〟はふさわしくない。しかも旧型とはいえ、量子コンピュータまで設置されているということで、とうてい遊び半分では済まされない。

 超常現象を本気で研究しているなら、責任能力の有無を特定するという警察の要請に便乗して、多重人格そのものを調べる魂胆があったのだろう。深読みすれば、この体が犯したという猟奇殺人事件が、すでに超常現象がらみだった可能性もある。

 俺の体は、実際に超能力が使えなくても、何らかの方法でそう思い込ませることはできるのかもしれない。何しろ俺は、〝同居〟している他の人格の性格や能力については一切知識がないんだからな。

 なるほど。俺以外の人格が何かやらかしたのか……。

 例えば、自分はサイコキネシス能力を持っていると脅かす、とか……。

 面白い。ちょっとからかって、様子を見てみよう。

「まさか、俺が超能力を持っているなんて本気で考えてるわけじゃないだろうな?」

 大前は絶句した。

 ビンゴ。

 だが、すぐに気を取り直したようだ。

「君は、この研究所についてどんな知識を持っている?」

 ん? 何か特別な知識があると考えているのか?

「どんな? 公開情報ぐらいはサイトで調べたが?」

「それ以上の内部情報は知らない、と?」

「当然だ。知ってる可能性があるのか?」

 あるんだろうな。ということは、別人格の誰かが研究所内部の者と何らかの関係を持っていたということだ。

 さて、俺も知っているフリをした方が面白いだろうか?

「本当だな?」

 いや、止めておこう。得にもならないばかりか、墓穴を掘ることになりかねない。

「知ってるとするなら、他の人格だ。俺じゃない」

 大前はかすかに首を傾げて右耳に手を添えた。

 耳の中にスピーカーが入っているな。データ解析室で俺の言葉を分析して、リアルタイムで嘘かどうかを確かめているわけだ。

 答えが出たようだ。

 大前はうなずいた。

「分かった。信じよう」

 ま、嘘は言っていないから当然の反応だ。

「で、そんな大事故が起きているのに、呑気に俺の面談かい?」

「こちらにも手順があるのでね。一刻も早く君の特殊性を明らかにしないと、研究所の信頼に関わるから」

「そんなに急ぐことはあるまいに」

「マスコミがうるさいんだよ。何しろ君が起こした殺人事件は、イヤでも注目を集める。記者連中は研究所に近づけないが、警察署には連日団体で押しかけているそうだ。記者クラブとかの紳士協定も、どこかに吹っ飛んでいるらしい」

「俺は犯人じゃないが、この体は有名な作家らしいから、それもやむを得ないだろうな」

「ということで、僕たちも急かされている。数日のうちには何らかの発表をしなくちゃならないが、だからといって根拠のない情報は発信できないからね」

 正直に話しているのだろうか? それとも、偽情報で俺の本性を暴こうと試みているのか?

「そんな内幕まで教えるってことは、俺は殺人者ではないと確信してるのかな? 別の〝誰か〟が容疑者になっているのか?」

「まだ〝容疑者〟は確定していない。だから、君のことをもっと詳しく知りたいんだ」

 話の内容が真実かどうかは分からないが、俺の本性を暴こうとしていることは確かだ。マニュアル通りなら、多分これから俺を怒らせようとしてくるだろう。

「俺を怒らせても、大した情報は得られないよ。仕事はプログラマーだ。論理的思考には慣れている。本性を暴きたいのなら、論理的に追求してくれた方が確率が高いと思うが?」

 またぽかんと口を開く。思考を先読みされることに戸惑っている。だが、出てきた言葉は意外だった。

「君は……他人の思考を読む能力を持っているのか?」

 は? それ、脳科学者が口にしていい言葉か? それも、真剣な顔で。

「まさか。だから帰納的推論――いわゆる推理だよ」と言ってしまってから、気づいた。「本当に超能力を信じているのか?」

 大前は答えられない。これはいよいよ、本物らしい。あやふやな伝聞程度では、こうまで露骨にうろたえないだろう。

 大前は絞り出すように言った。

「すべての可能性を排除しない。そういうことだ」

 違うな。この男の反応は強烈すぎる。きっと自分で〝超能力〟とやらを体験している。

「つまり俺の体の中には、いわゆる超能力者がいるってことだな」

「僕はそんなことは言っていない!」

「いや、言ってる。君がそれほど恐れ、うろたえている事実が真実を語っている。科学者としての存在意義を打ち砕かれたっていう態度が隠せていない。確信は持てないまでも、極めて強い疑義を抱いている。つまり……俺たちの誰かが超能力を使い、君はそれを体感しているということだ」

「嘘だ!」

「いや、帰納的結論だ」

 大前はしばらく俺をにらみつけた。核心を突かれた動揺を気取られまいと必死らしい。

 つまり、この体の周囲で起こっている〝事件〟とは、そういうことなのだ。猟奇殺人という過去の事件の検証ではなく、現在進行中の超常現象が研究所内に広がっているのだ。それは、彼ら研究者にとっても予想外の展開だったのだろう。

 同時に、この体に襲いかかる未来が、さらに不透明になったことも意味する。

 単に猟奇殺人を犯した人格を特定するだけなら、その人格だけを罰することは不可能だ。人格の分裂が薬師寺の虚偽ではないことはこれまでの検査で実証されているらしい。天寿を全うするまで措置入院を続けるしかないだろう。

 ならば俺は生き続けられるし、おそらく薬師寺も創作を続けることを妨げられはしない。それは決して、最悪の結果だとはいえない。

 だが、薬師寺か、他の人格の誰かが超能力を発揮したのなら、ただではすまない。文字通りに研究材料、実験動物として切り刻まれてしまう恐れすらある。この研究所はまさに、人間の秘められた能力を研究する専門の機関なのだから。

 カモネギってやつじゃないか……。

 俺は能天気なカモにすらなれない、添え物のネギかよ……。

 こっちが動揺している間に、大前は気を取り直したらしい。いきなり話を変えてきた。

「その話は、まあいい。今日は君の実力がどれほどのものかを検証しにきた」そして、傍のカバンから数枚の紙を出してテーブルに並べる。「さて、これらが何のプログラムか分かるかね?」

 そう言った大前の口元には、わずかに挑みかかるような笑みが浮かんでいた。

 その通り。俺は自分がプログラマーだと思っている。そう公言してきた。だが、実務的な知識はほとんど持ち合わせていない。現実に気づいた時は、相当なショックを受けた。だが、事実だ。

 当然、他人が書いたコードが何かなど、見抜けるはずもない。

 なのに、なぜ自分がプログラマーだと思う?

 なぜ、ここにいる?

 なぜ、生まれた?

 俺はまるで、幽霊のようじゃないか……。

 くそ、不意打ちを食らって形勢逆転かよ。

 俺は一体、何者なんだ……?

 と、いきなり奇妙な言葉が脳裏に湧き上がった。さらに奇妙なことに、その意味を考える前に口に出していた。

「ところで、家族写真の装飾は気に入ってくれたかい?」

 大前は口を半開きにして言葉を失った。その目の恐怖は、もはや隠しようもない。

 特大の一撃を食らわせられたようだ。再逆転の満塁ホームランってところか。

 だがその攻撃は、当然俺にも跳ね返ってくる。

 俺は、なんでこんな言葉を吐いた?

 それがどうして大前を直撃する?

 俺は、何かを知っている〝誰か〟に操られているのか?

 ちくしょう……俺は一体、なんなんだ……?


        ✳︎ 


 ベッドを出た椎名は二つ目のコンドームをゴミ箱に投げ入れると言った。

「念を押すまでもないだろうが、この件は一切他言しないように。特に、君の本国には」

 全裸のサラはうつ伏せになったままつぶやく。

「どの件? 大前先生は城が犯人だと疑っていること? オカルト部の秘密? それとも、わたしと寝たこと?」

 椎名はベッドに腰を下ろして、ひどく乱れた髪をなで付ける。

「どれも。特に、最後」

「他は優先順位が低いの?」

「いずれは公表しなくちゃならないことだからね」

「わたしのことは、隠し通すんだ」

「当然だろう? 単身赴任だが、家族もいるんでね。仕事も家庭も守らなくちゃならない」

「なら、こんなことはしなけりゃいいのに」

「男だからね。研究所から出る機会も少ない。それに、君も満足したんじゃないか? まさか、こんなに激しいとはね」

「でも、所員にも若くてかわいい子はいるじゃないですか。ナースの滝沢さんとか」

 椎名は皮肉っぽい笑みを浮かべる。

「誘われたよ」

「向こうから?」

「私は年寄りだが、権限はある。体を使ってでものし上がりたい女から標的にされることもある。彼女は大前君にも抱かれているようだ。我々のチームに加わるためだろう。そうすれば、私とも懇意にできるからね。だが、露骨すぎた。若いから、せっかちなのも仕方ないがね」

「そんなに上昇志向が強いんですか、彼女?」

「さてね。別の目的があるのかもしれない」

「別って?」

「多分、オカルト部の研究を盗みたいんだろう。各国の情報機関は皆、何かとてつもない研究をしていると信じ込んでいるらしい。サイバーアタックやら所員へのソーシャル・エンジニアリング攻撃やらは日常茶飯事だ。中国、ロシア、統一朝鮮――それだけじゃない、ヨーロッパの国々や君の祖国も極めて熱心だ」

「そんな研究、してるんですか?」

「話せるわけあるまい?」

「でも、今の話だって秘密でしょう?」

「ギブ・アンド・テイクだよ」椎名は意味ありげに微笑む。「しかも画期的で軍事転用可能な研究を秘匿していると勘ぐられれば、君のような魅力的な女を抱くこともできる」

 サラは動じない

「わたしがスパイだと? まあ、そう勘ぐられても仕方ないですけどね。アメリカから送り込まれているんですから」

「君は別だ。たとえアメリカの情報機関の息がかかっていたとしても、オカルト部には絶対に入れない。しかも、ここにいるのは長くても数週間だろうからね。何より、オカルト部じゃ実際には大した研究はしていない。国から多額の研究費をむしり取るために、責任者の私が必死に知恵を絞って大げさに見せかけているだけだ」

「でも、龍ヶ崎さんには超能力のことを熱心に語っていたじゃないですか?」

 椎名は含み笑いを漏らした。

「無論、あれも演技だ。警察の医師がそう思い込んでくれれば、いずれ上層部にも伝わるだろう。高級官僚は横のつながりも強い。私が研究を信じ、没頭しているという噂が広まれば、今の地位も安泰だからね」

「そんなこと、わたしに話してもいいの?」

「あ、これはぜひ内密に。アメリカ側に知られるのは別に構わんのだが、日本政府に情報が逆流してくると厄介だ」

「それが政治力ってやつの正体なのね」

「その他にも、役得はいろいろある」

「秘密を探りにきた女スパイをちょっと抱いたり……ね。これまでもそんなこと、あったのかしら?」

「ご想像にお任せしよう。まあ、職員に手をつけると、あとあと面倒なものでね。この程度の情報では不満かね?」

「いいえ。研究者として関心がある情報はいただきましたから。おじさまへのご褒美ということで」

「もう一本のワインは次の機会に開けたいね」

「構いませんよ。でも、次はもう少し詳しいお話を、ね」

「アメリカ仕込みの感覚はドライで助かる」

「わたしも女ですしね。あ、それから、ちょっと気になっていたことが……」

 椎名は面倒臭そうに応える。

「なんだね?」

「大前先生のことですけど、なんだか急にひどく怯え始めたみたいで……」

「そりゃ当然だ。PK攻撃を受けたんだからね」

「あれ、本当にサイコキネシスなんでしょうか……?」

「疑ってるのかい?」

「信じたい気持ちはありますが、一応、科学者だし」

 椎名は目をそらしたまま、つぶやく。

「大前君が受けた〝攻撃〟はそれだけじゃないらしい」

「え? わたしは聞いてませんけど」

「所長の私にしか話していないようだね」

「攻撃って、どんな?」

「他人には話さないでほしい。知られたくないというのが大前君の希望だろうから」

「もちろんですけど……」

「大前君は、奥さんとは家庭内離婚のような状態らしい。だが、所内ではそれを知られたくない。で、誰かが部屋に来た時には円満な家庭だと思われるように、自室に家族の写真を置いていた。ところが腕を切りつけられた夜、食事に出かけてから部屋に戻るとその写真立てのガラスにヒビが入っていた。怪我をした腕の上に1つ。それと奥さんと娘さんに首を横切るように、さらに2つ」

 サラが小さく息を呑む。

「うそ……だから城の言葉にあれほど動揺したんですね……」

「城はなんと言ったのかね?」

「家族写真の装飾がどうとか……。わたしには意味が分からなかったの、当然ですよね」

「私も写真の傷を確認した。大前君は、薬師寺が自分を脅迫しているのではないかと恐れている。これ以上関わると、家族が薬師寺の超能力に襲われるのではないかと……。まるで、彼が犯した猟奇殺人と同じように、ね」

「それで、データ解析をもう一度やりたいって……」

「1人で深夜の残業など、これまではしたことがないのね。他人には家族の事情は知られたくないんだろう。この件は、私たちの間で今後の方針を決める。だから、君は知らないフリをしていてくれたまえ」

「大前さんを大事にしてらっしゃるんですね。いずれは所長の座を譲るお考えですか?」

 だが椎名は、いかにも不快だと言うように唇を歪めた。

「まあ、有能な男だからね……」

 そして、肩をすくめて首を横に振る。大前には所長の度量はないと宣言しているに等しい態度だ。だが、さすがに口に出すのは憚られたようだった。

「そうなんですね……」

 椎名はその話題を打ち切るように言った。

「さて、シャワーを使わせてもらうよ」

「分かりました。でも、大前先生から城の解析報告を聞くときは、ぜひわたしもご一緒させてください」

「もちろんだとも。アメリカ様の意向には逆らえないからね」

 椎名はバスルームへ向かった。

 それを確認したサラは素早くベッドを出てガウンを羽織ると、脱ぎっぱなしの椎名の服を畳みながらポケットの中を探っていく。だが、財布や鍵、身分証明書やカードキーのようなものは全く見当たらなかった。スマホもない。

 サラの狙いは、所内の警備体制を確認することだった。

 そもそもこの研究所は一般の病院と似たような構造になっている。エントランスでの身分確認だけは過剰ともいえるほど厳重に行われるが、いったん内部に入ればほぼ自由に動ける。収容されている〝患者〟も措置入院か、研究目的だということを承知で自発的に来た者ばかりだ。その家族が研究所を訪れることもほとんどない。

 コンビニやバーなどで金銭のやりとりが発生しても、全て指紋認証で処理される。他害の恐れのある患者の病室、危険な薬品の保管所以外は、鍵すら付けられていない場所がほとんどだ。3階の個人の居室のオートロックも、指紋認証だ。

 特別なセキュリティ対策が必要な場所は存在しないということなのか。だが、オカルト部への出入りが厳重に制限されていることは医師や職員の会話を聞いていても分かった。ならば、そこを管理する椎名が何かしらの〝鍵〟を持っていてもおかしくはないのだ。

 やはり、全ては生体認証によって管理されていると考えるしかない。

 背後で声がする。

「すぐに着るから畳まなくて構わない」

 サラが振り返る。

「早いのね」

 椎名の表情は厳しい。

「本国に報告できるようなものは見つかったかね?」

「やっぱりスパイ扱いなのね。ちょっとペンを借りただけよ。たまには女らしいことをしてみたいと思ったし」

 サラは椎名の白衣に刺さっていたボールペンを軽く振って見せた。

「使うなら差し上げるよ」

「ありがとう。でも、スマホも持ってこなかったの? 火事だって鎮火していないのに」

 椎名は服を着ながら答える。

「通常は夜間に呼び出されることはないからね。今まで火災の対処に追われていたんだ、少しは休ませてもらっても構わんだろう? 完全鎮火はまだまだ先だが、延焼を防ぐ手段は講じた。保安部と消防署員が監視に張り付いているしね。彼らで処理しきれない重大事案が起これば、館内放送がかかる。で、私の何が知りたい?」

「それはもう、お話ししてます。個人的にでも、オカルト部の仕事が見たいの。招待していただけません?」

 椎名の答えは素早い。

「無理だね。あの区画に入れるのはほんの数人だ」

「なぜ? 大した研究はしていないんでしょう?」

「大した研究はしていないという事実が、最大の秘密だ。しかも、君や君の国とは関係のない話だ」

「残念。この研究所に来られると分かった時から楽しみにしてたのに」

「申し訳ないが、それは諦めてくれ」

 椎名は服を着終えると、部屋を出た。

 だが椎名は、自室に入る寸前に大前に呼び止められた。小声だが、明らかに叱責している。

「なぜオカルト部の秘密を明かすようなことをしたんですか⁉ 僕にすら詳しいことは知らされていないのに」

 大前は、椎名の靴の中に仕掛けた小型の盗聴器を通じて2人の会話をすべて聞いていたのだ。性行為も含めてだが、無論、椎名の了解のもとで行なっている。

 椎名は肩をすくめると、ドアを開けて大前を部屋に押し入れ、リビングのソファーに腰を下ろす。

 大前が対面に座ると、言った。

「秘密があると知ったところで、彼女はオカルト部に入ることはできない。あそこは完全なスタンドアローンだし、DNAロックは鉄壁だからな。そもそも、あの女はオカルト部の秘密を探りにきたようだ。彼女の医学知識は本物だからプロのエイジェントだとは思わんが、CIAかNSAの息はかかっているだろう。ならば、私が話したことぐらいはとっくに知っている。肉体関係と引き換えに内部事情を打ち明ければ、こっちがハニートラップにかかったと思い込むだろうしな。油断を誘うことも、偽情報を送り込むことも可能になるというわけだ」

「だからあんなことを……」

「所長、だからな」椎名が身を乗り出して声を落とす「それより、君の方はどうだった? 何か掴めたか?」

「城は、一筋縄ではいきません。こちらの考えをことごとく見透かしてしまいます。なのに、時間をかけて丁寧に解析した結果も、予想の範囲内でしかありませんでした」

「それも超能力か?」

「自分では帰納的推論だと言っています。理屈も通っていました。頭のいい男です。プログラムの知識はプロレベルとは言えないまでも、それなりです。しかも量子コンピュータの理解では私を凌いでいるようです」

「君が認めるのか?」

「事実ですから。ただ、やはり得体が知れません。言い知れぬ不気味さがあります。他人の心を読む能力があると言われても信じてしまうでしょうね」

「嘘は言っていないのか?」

「音声データの再検証に今までかかりましたが、はっきり嘘だとわかる変化は見つかりません。逆に、ゆらぎの少なさが異常だと言っていいぐらいです。とてつもない自制心を持っているか、それこそ超能力的な何かで自己を抑制しているのか……。薬師寺氏の話とも齟齬はないようですし……。それより、城は私の部屋の写真に傷が入ったことを知っていました……」

 椎名の目が真剣を増す。

「サラ君が言っていたのは本当なんだね?」

「透視能力を持っているのかもしれません」

 椎名が考え込む。

「あれは私たちしか知らない事実だからな。あるいは……念力を使った人物が陰から他の人格を操っているか、だ……。一番恐れていたことが、現実になったな……」

 大前が首をうなだれる。

「もはや、超能力の実在は疑いようがありません」

「こうなっては、薬師寺の話も言葉通りに取ることはできない。あいつが全てを操っているという可能性も否定できなくなってきたな……」

「一体、何が本当なんだか……彼らの人格の中には、詐欺師まで潜んでいます。それぞれの能力が同時に発動できるなら、僕らが騙されている恐れも高まります……」

 彼らは城の面談を始める前に、薬師寺に春日を取材した理由を尋ねていた。その答えは明瞭だった。

 薬師寺は、自分をモルモット扱いして学会の晒し者にする担当医に不信感を抱いていた。そこで主治医の変更を打診した。変わり者だが実力があるという評判を得ていた春日を希望したのだ。しかしその要求ははぐらかされ、叶えられることはなかった。

 背景には学会からの圧力があったらしいという。大学の系列が違うという陳腐な理由だ。一匹オオカミ的な春日の振る舞いは、当時から異端児扱いされていたのだ。

 そこで薬師寺はインタビューという形をとって春日に会っていた。正当な医療行為としてではなく、病院外で簡単な診察や日常生活のアドバイスを受けていた。作家としての関心とは無縁の、自己防衛が理由だったと説明した。

 薬師寺が春日と接点を持ったことに、不自然な点は感じられなかった。

 椎名はわずかに間を置いてから、さらに声を落とす。

「だが、それが原因で春日が憑依した……などということは考えられないか?」

「復讐のために……ですか? だとすれば、まだ姿を見せていない6番目の人格があることになります。そいつが、薬師寺本人を含めて、全ての人格を操っているわけですか……。これまでの検査では、それらしい兆候は一切ありませんでしたが?」

「春日が、他の人格を装っているのなら……」

「実は城が春日だ、とかですか? 薬師寺の人格の中では最も理論的で冷静ですから、ないとはいえないでしょうが……。そもそも僕は、憑依ということ自体が信じられません。過去に少しばかり接点があったからといって、春日が薬師寺の全てを乗っ取ることまでできるんでしょうか? しかも、診察を受けていたのはこの研究所ができる前ですよ。僕はオカルト部じゃありませんし、そこまで憑依説を信じるのは、どうも……」

「だが、架空の人格が肉体まで変容させていることは明確に計測されている。君自身も超常現象を体験している。予言と爆発事故の一致も、偶然とは思えん。全てが異常だ……。それを、どう説明するんだ……?」

 大前は椎名の目の中に恐怖を見た。

「あなたはどう判断しているのですか?」

 椎名はしばらく考え込んでから、絞り出すように言った。

「春日の魂が薬師寺の肉体に憑依し、誰かの人格の中に潜伏しながら我々に復讐しようとしている……」

「我々に?」

「君とて部外者ではないだろう? 私が所長の座を得るために協力したんだからな。紛れもない共犯者だよ。そして、春日もそれに気づいていたはずだ。あの惨劇を招いた責任は、同じだ」

「本気で憑依現象が実在すると考えているんですか?」

「馬鹿話として笑い飛ばしたい気持ちも分かる。だが、君の腕に巻かれている包帯は、なんだ? バッテリー火災の予言は偶然か?」

「それはそうですが……」

「サイコキネシスが実在するなら、あれは予言ではなく、サラ君が指摘した通りに予告だったかもしれない」

「念力であれほどの爆破まで……?」

 大前は恐怖をにじませて口をつぐんでしまう。

 椎名はあくまでも真剣そのものだ。

「オカルト部では、多額の国家予算を投入して超常現象を追求している。実際にミクロの世界では、これまでの科学的常識は次々に打ち破られている。オカルト部は具体的な成果を上げつつあるんだ」

 大前がわずかに首をかしげる。

「実際に? 予算獲得のためのフェイクではなく?」

 椎名の表情は真剣だ。

「春日が始めた研究テーマが、ようやく実証段階に入った。量子コンピュータの演算能力強化と国際リニアコライダーでの重力子研究がブレイクスルーをもたらしたのだ。私は今では、かつて超能力と呼ばれていた〝力〟の存在を確信している」

「まさか……。幽霊や霊魂も実在するというのですか?」

「人間の精神が素粒子の未知の作用と深い関わりを持っていてもおかしくはない。スタッフは、超弦理論の方が精神活動を説明しやすいとも考えている。薬師寺の人格分裂は、その実証例となるかもしれない」

「私はオカルト部とは無縁です。アクセス権限もなければ、情報も与えられていない。予算獲得のための看板でしかないと思っていましたから、研究内容には関心もありませんでした。ですが……改めてお聞きしたい。所長はオカルト部で、具体的に何を研究しているんですか?」

 椎名は口ごもった。

「それは……言えない」

 大前がため息をもらす。

「僕たちは共犯者ではなかったんですか? 本当に春日の亡霊が復讐を企てているなら、僕だって知っておかなきゃならないでしょう?」

「だが……それを知ったところで、復讐を防げるかどうか……」

「それは、僕に決めさせていただきたい。少なくとも、僕はあなたが犯した犯罪行為を知っている。身を守るためなら、公表も厭いませんよ」

 椎名が鋭くにらむ。

「脅迫か?」

「連帯の確認ですよ。秘密を持っていられたら、信頼できないじゃないですか」

「分かった……だが、これはオカルト部スタッフだけの秘密――国家機密だ。絶対に他人には教えるな」

「それは当然ですが、国家機密とは……」

「大げさな話じゃない。なぜオカルト部の情報管理がこれだけ厳格だと思う? なぜ中心の研究自体に目立った成果が発表されていないのに、潤沢な予算と設備が与えられていると思う?」

「所長の政治手腕では?」

「それはカムフラージュに過ぎない。国の命運を左右しかねない研究だからに他ならない」

「それって……なんなんですか?」

 椎名は覚悟を決めたように言った。

「テレパシーの実用化だよ」

 その一言で、大前には理解できた。

「龍ヶ崎に聞かせるためのフェイクではなかったんですね……。やはり、そうでしたか……軍事転用できれば、世界を一変させられますからね……」

「その通りだ。テレパシーを任意に扱えるようになれば、世界は大きく変わる。従来の通信手段とは全く違って、既知の技術では傍受も妨害もできない。暗号化も必要ない。一方で量子コンピュータの桁はずれの演算能力によって従来の暗号化技術は無意味なものになりつつある。機密情報を守り抜くには根本的に仕組みが違う通信手段が求められている」

「量子暗号がそれを可能にするのでは?」

「暗号自体は完成できても、通信手段を無力化されれば機能しない。戦時であれば海底ケーブルを切断されたり、EMP攻撃で電子機器を破壊されることもあり得る。テレパシーなら、物理的手段に依存せずにコミュニケーションをとれる可能性が高い」

「なるほど……」

「そのためのテレパシー研究に量子コンピュータが不可欠だというのは皮肉な話だがね」

「本当に実用化できるんですか?」

「光明は見えてきている。テレパシーはこれまでは特別な能力を持った個体にしか扱えない特殊能力だと考えられていた。だがオカルト部のスタッフたちは、その仕組みの解明が近づいていると自信を持ち始めている。1対1、1対多のリレーションの原理にもいくつかの仮説が立てられる段階まできた。補助的な薬品や機器を開発して自由に応用できるようになれば、軍用システムに組み込むことも可能だろう」

「応用分野も計り知れませんね……」

「その通りだ。その〝力〟の本質を追求すれば、サイコキネシスや他の能力との共通性も発見できる可能性がある。日本は軍事的優位に立つために研究しているわけではないが、攻撃からの防御手段としての有効性は期待できる。金融機関などの民間への技術転用の規模もどれだけ膨らむか予測がつかない。ハッキング不可能な通信網が確立できれば、世界ははるかに安定する。世界各国で密かに研究されているテーマだが、その最先端を走ることがこの国を強く、安全にする。予算をつける価値が認められているということだ」

「もしや、この研究所自体がテレパシー研究のために創設されたのでは……?」

「高次脳科学の研究は無論重要だ。医学や工学の発展にも大きく寄与する。だが、研究所自体がオカルト部を秘匿するための偽装だという側面もある。春日の発想がテレパシー研究を急激に進めた結果だ。同様に、世界各国も軍事利用のための極秘研究を推進している。この研究所へのスパイ行為も後をたたない。それだけセンシティブな研究なんだよ」

「そこに、今回の亡霊騒ぎですか……」

「だからこそ、笑い事では済まされないんだ。全てが私の妄想なら、それで構わない。だがほんのひとかけらでも真実が含まれているなら、危険であると同時に、研究対象として見逃すわけにはいかない。幽霊は、精神活動だ。その背後に物理的構造が隠されているのなら、なんとしても探り出したい。これは、紛れもなくオカルト部の案件なんだよ」

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