4・第4の人格=岩渕剛(いわぶち ごう)

 僕にとってこの部屋は、決して居心地が悪いものじゃない。何より、清潔で余分なものがないのが好ましい。どこから光が入ってくるのか分からないけど、明るく白い部屋――。

 ナイスだ。

 余分なものがなさすぎて手持ち無沙汰になるのは、時計職人としては問題だけど。

 この部屋が被験者を閉じこめる檻だとは分かっているが、まあ我慢はできる。大量殺人犯だと疑われているのだから、この程度の不自由で済んでいることに感謝すべきなんだろう。

 ただ、本当に人殺しなら、僕は犯人の体に〝同居〟していることになる。しかも僕の他には4人の人格が存在しているらしい。それはかなり腹が立つ。

 というより、薄気味悪い。

 何より不愉快なのは、繰り返される検査だ。採血やらMRIやらCTやらポリグラフやら検体採取やら――とにかく、うんざりだ。今度の面接官――龍ヶ崎は、何やら年季が入った白木の箱を持参している。おそらく、時計職人の道具箱だ。

 また何か不愉快な検査をしようというのか?

 龍ヶ崎は警察病院の精神科医だという。だとすれば、人権を無視するような検査はしないはずだが……。

 僕は言った。

「その箱、なんですか?」

 龍ヶ崎は無言で蓋を開けた。箱を、私の前に押し出す。

 懐かしい香りがする。機械油の匂いだ。

 龍ヶ崎が言う。

「横浜の時計職人から借りてきました。他人の道具では実力は出せないかもしれませんが、これ、分解掃除ができますか?」

 さらに白衣の胸ポケットから出したのは、古風な蓋付の懐中時計だ。

 僕は懐中時計を受け取って蓋を開く。

「機械式。スイス製……1900年頃の作品でしょうね。さほど高価とはいえませんが、正直な品です。そこそこ、手入れもされている」

「分解、できますか?」

 これもテストだということは分かっている。僕は、自分が時計職人だと言っている。だとしたら、修理できないはずはない。できないなら、嘘だと言われても仕方ない。

 だが、本当にできるんだろうか……?

 彼らには話していないが、修理をしたというはっきりした記憶はない。時計を分解した感触が思い出せない。

 僕は本当に時計職人なのだろうか……?

 なぜ僕は、自分が時計職人だと信じ込んでいるのだろうか……?

 懐中時計を手にしたまま、かなりの時間考え込んでいたらしい。

 龍ヶ崎が痺れを切らせたように言う。

「できませんか?」

 ため息がもれた。

「できますよ……きっと……」

 道具箱が開いた瞬間、懐かしいと感じたことは事実だ。僕は、この世界を知っている。記憶はなくとも、経験はあるはずだ。

 時計を置いて、道具箱を引き寄せる。中の道具類をじっと見つめる。時計の裏蓋が『こじ開け型』であることはすぐに分かった。傷をつけずに開けるには、『こじ開け』と呼ばれるヘラのような道具が必要だ。自然に手が伸びる。

『こじ開け』を蓋の蝶番の反対側にそっと当てる……ここまでは、何の迷いもなくできた。力を入れて『こじ開け』をねじる……。

 弾けるように蓋が外れた。

「あ――」

 思わず声が漏れてしまった。これは、失敗だ。心臓の鼓動が早まるのが分かった。

「何か?」

 龍ヶ崎は、異変に気づいていない。だが、ごまかせない。

 蓋が開いた時計に目を近づけた。細かい歯車が複雑に絡み合った内部が露出している。だが、調べたいのは、『こじ開け』を差し込んだ場所だ。

 やはり、かすかな傷をつけてしまったようだ。力の加減ができていない。

「力を入れすぎました……。この体は、思い通りには動かせません。修理は無理かもしれない……」

 決してできないのではない。できないはずがないんだ。やり方も、その場になればきっと思い出す。

 だが、〝自分〟の体でなければ繊細な力加減など無理だ。機械式時計は、言うまでもなく極めてデリケートなものなんだから……。

「本当にできるんですか」

「できます。他人の体では自由に動かせないだけです」

 そう答えはしたが、やはり自信はない。

 僕は本当に時計職人なのだろうか……?

 いや、そうでないなら、なぜ懐中時計の裏蓋を開ける方法を知っている? 『こじ開け』などという道具を知っている? 

 僕は、正しい道具を迷わず選べたじゃないか。それは、正しい知識を持っているという証拠だ。僕が時計職人だという証拠だ。

 そうでないなら、僕は一体何者だというんだ?

 龍ヶ崎は納得できないようだ。

「だとしたら、その先の作業も続けられますよね」

「これ以上傷はつけたくありません」

「構いません。私が買い取ったものですから。作業を続けてみてください」

「体が思い通りに動かせないと言っているんですが……」

「完全じゃなくていいんです。手順や道具や部品の選び方が分かっているかどうか、それを確かめたいだけですから」

 もはや僕を疑っていることを隠そうともしない。

「貴重な時計を傷つけたくないんです!」

 龍ヶ崎が薄笑いを浮かべたような気がした。

「やりたくないんじゃなくて、やり方が分からないんじゃないんですか?」

「そんなことはない!」

 分からないんだろうか……。

「だったら、なぜ声を荒げるんですか? 焦ってるんですか?」

「僕を馬鹿にするな! そもそも、他人の手垢がついた道具を完璧に使えるはずがないんです。道具は職人の命です。長年使って手に馴染ませて初めて真価を発揮するもんです。いきなり渡された道具で完璧な仕事などできるはずがない!」

「いかにも職人が口にしそうな言い訳ですね。完璧じゃなくたって構わないんです。大した価値のある時計じゃありませんから。細かい傷ぐらい、どうでもいい。あなたの人格が本当に時計職人なのかどうか、それを確認したかっただけです。ですから、先を続けてくれませんか?」

 僕を挑発しているのか⁉

「断る!」

「なぜ?」そして身を乗り出して挑みかかるように私の目を覗き込む。「私は、あなたが何者か知りたい。あなたはどうですか?」

 僕は……私は本当に時計職人なのだろうか……?

 自信が持てない……。

「僕は……誰なんだ……? いや……なんなんだ……?」

 龍ヶ崎の表情が真剣になる。

「それを知りたいんです、私たちも」

 僕は振り返った。ガラスの壁の向こうに、数人の男女が並んでいる。いつもと同じ景色だ。いつもと同じように、実験動物を観察する視線だ。

 僕は……一体……なんなんだ……?

 だが、いつもと違う〝空気〟にも気づいた。私を見つめる目に、恐れのような色が滲んでいる。

 恐れる? 

 僕の、何を?

 当然、凶暴性だろう。だが、これまで彼らはあんな目をしたことはなかった。この体の中に殺人犯が潜んでいると確信しながら、それでも節度を保って接してくれた。専門を極めた医師たちだけあって、常に冷静だった。

 なのに、なぜ今になって?

 僕は人を殺してなどいない。だが、僕と肉体を共有する誰かが、何件もの殺人を犯したという。だから、こうして〝閉じ込められて〟いる。僕たちを隔てているのは防弾ガラスで、人の力で壊せる品物ではない。僕が他人に危害を加えないように、他にも万全の体制が敷かれているそうだ。

 そう、説明された。

 そこまで警戒しているのに、なぜガラスの向こうにいる彼らまでが恐れるというのだ?

 僕は、何者なんだ?

 なぜか、不意に試してみたくなった。

「龍ヶ崎さん……あなたは僕と同じ部屋にいて、怖くないんですか? 僕の前には、道具箱がある。中の道具を使えば、あなたの目を突き刺すことも可能ですよ。その傷はきっと、脳にも達します。多分、一撃で絶命しますけど」

 あれ……? 僕は、なんで心にもないことをしゃべっているんだろう……?

 それでも、龍ヶ崎がかすかに身を引いたことを見逃さなかった。顔には出さないように努力しているが、やはり怯えている。

 だが、怯えているのは僕自身も同じだ。なぜ僕は、龍ヶ崎を脅している? 自分でも分からない……。

 なんだか、他人に頭を乗っ取られているような気分だ……。

 こんな密室で、しかも大勢に見張られながら、それでも医者を脅してなんになる? ほんの少しでも、自尊心の傷を忘れられるとでもいうのか? そんな無茶をすれば、当然、僕の人格が殺人犯だと疑われる。それで得になることなど、一つもないのに……。

 龍ヶ崎が気を取り直したようだ。

「私を殺す気なんですか? だとしたら、あなたがすべての犯人だと断定されても仕方ないですよ」

 その通りだ。理性では、分かる。だが逆に、気持ちはどんどん高ぶってくる。

「でしょうね。だけどその先、警察には何ができるんでしょうね? 僕1人を分離して捉えることって、できます? その人格に、肉体はあるのかな? 体さえ持たない幽霊みたいなものを、どうやって処罰するんですか?」

 もうよせ! これ以上反抗的な態度は取るな!

 僕はなぜ、こんな挑発的なことを口走っているんだ⁉

 暴走していく自分が、自分で理解できない。ただ、苛立っている。苛立ちを何かにぶつけないと、頭が沸騰しそうだ。

 自分では止められない気がする……。

 龍ヶ崎がうなずく。

「できませんよね、今までの常識の範囲であれば。でも、あなたはすでに常識の外にいる。そしてあなたの場合に限って、特定の人格の出現を永遠に食い止めることが可能かもしれない」

 意外な――意外すぎる答えだ。

「え……? それって、どういうことですか……?」

「まだ必要な実験さえ行われていませんから、可能性があるというだけです。実験すべきかどうかすら、結論が出せていない。それほどあなたは、特殊な存在なんです。ほんと、あなたは一体、なんなんでしょう……」

 龍ヶ崎の体が緊張していることは手に取るように分かった。逃げたしたいのを必死にこらえているようだ。

 僕の体には殺人者が潜んでいる。それを怖がるのは、当然だろう。だが、僕は人殺しじゃない。そう分かって欲しいのに、なぜ気持ちに反することばかりわめき散らしているんだ……?

 と、不意に苛立ちの正体が分かった。

 自分が怖がられていることが怖いのだ。

 これまで冷静に振る舞っていた医者たちが、なぜか急に恐怖を隠せなくなっていることが怖いのだ。

 何があった?

 僕が〝いない〟間に、何か事件が起こったのか?

「僕は人殺しじゃない。分かって欲しい」

 龍ヶ崎は必死に平静を装っている。

「あなたの体が犯したという連続殺人、詳しい話は聞いていますか?」

「詳しい? 3人を殺した、ということだけですけど。誰が死んだのかも知りません。この体が殺したという証拠があるようですけど、それがなんなのかさえ教えられていません」

「犯行日時は伝えたはずですが」

「その時の記憶はないんです。3回ともね。この体を動かしていたのは、僕以外の人格ですよ」

「薬師寺氏には、もう少し詳しい犯行状況を知らせているんですがね……」

 僕の答えは、当然録音されている。録画もされている。声や表情の変化で嘘かどうかを見破る技術もあるはずだ。この会話は、僕の言葉を値踏みするためのテストの一環だろう。

 何度繰り返せば気がすむ? しつこい連中だな……。

「僕には、薬師寺という男が考えていることは分かりません。とっくに話しているはずですけど?」

「でしたね。でも、人は嘘をつくものです。意識していようがいまいが、ね。そもそもあなたの人格自体、見方によっては嘘のような存在のじゃありませんか?」

 傲慢な物言いだ。だが、真実でもある。自分が何者か確証が持てないのだから、反論のしようもない。

 一方で、腫れ物に触れるような龍ヶ崎も態度もより明確になっている。テストの必要上、質問で挑発しないわけにはいかないが、怒りを招くと危険なことを承知している――といった感じだ。

 だが僕には、衆人環視のもとで本当に〝武器〟を取るなどという無茶はできない。自分を追い込むだけなんだから。

 それは、龍ヶ崎だって分かっているはずだ。

 あからさまな攻撃などできないと確信しているから、こうして同じ部屋で対面しているんじゃないのか? 質問だけなら、防弾ガラス越しでもできる。

 この上、何が怖いというんだ?

 なのに、明らかに僕を恐れている。

「やっぱり僕が怖いですか?」

「怖いですよ。何者か、判断がつかないんですから」

「でも、ただの人間です。少なくとも、意識だけはね」

「本当にそうなんでしょうか……」

「人を化け物扱いしないでください」

「化け物かどうか、それを決めるのが私たちの仕事です」

 キレた。あくまでもそうくるのかよ。これだから、学者っていう奴らは……。

 僕はどこまでいっても実験動物でしかない訳だ。徹底的に小馬鹿にされている気分だ。

 とはいえ、彼らが僕を、あるいは〝僕たち〟を恐れていることは疑いようがない。だとしたら、少しは脅かしてやりたいものだ。

 それが無意味なあがきだと分かっていても、だ。

 と、不意に頭にあるフレーズが浮かぶ。

『大地より湧き上がる雷(いかづち)が背徳の城を密かに蝕むであろう』

 は?

 なんだ、この言葉? 何かの予言か?

 僕は一介の時計職人に過ぎない。予言の能力など備わってはいないぞ?

 しかも、融通が効かない堅物としか評価されたことがない僕には縁がない、〝文学的〟な表現だ。あるいはこれが、昨今流行っているというアニメやラノベというやつの言葉遣いなのか。

 なぜこんな言葉を思いついたのか分からない。意味も分からない。意味があるとも思えない。

 だが、何でもいい。憂さ晴らしぐらいにはなる。せいぜい〝予言者〟を気取って大仰に振る舞ってやろうじゃないか。

 彼らが意味のある言葉だと考えれば、混乱するだろう。

 檻の中の被験者の、ささやかな逆襲といったところだ。猫の爪ぐらいの傷は残せるかもしれない。

 僕は丸めていた背中を伸ばして、龍ヶ崎を睨みつけた。

 そして、精一杯真剣な眼差しを装ってつぶやく。

「大地より湧き上がる雷が背徳の城を密かに蝕むであろう」

 僕らしくない芝居じみた言葉を口にして、改めて恥ずかしさがこみ上げる。照れ笑いでごまかしたくなる。

 だが、効果は絶大だった。

 龍ヶ崎は目を丸くして硬直した。もう、やせ我慢もできなくなっている。恐れを隠す努力も捨てている。吹き出す汗さえ見えそうだ。

 僕の小声が、爆発寸前の彼の〝恐怖〟に火を放ってしまったのだ。

 なぜ……?

 僕たちはしばらくにらみ合った。

 龍ヶ崎は呼吸を整えてから、言った。

「それは……何かの予言ですか?」

 言葉は要らない。僕はニヤリと笑って見せた。

 龍ヶ崎の顔からさらに血の気が引く。これは確かに、小気味いい。

 ざまあみろ。


        ✳︎ 


 医師たちは5号カンファレンスルームのテーブルを囲んでいた。重く沈んだ空気に、その狭さが拍車をかけている。

 サラがつぶやく。

「今度は予言ですか……」

 肩を落としたまま、顔も上げられない。

 その姿を見ていた龍ヶ崎が、同情するように言う。

「私たちは医師であり、科学者ですからね……。超常現象を素直に受け入れるわけにはいきませんよね……。受け入れるということは、これまで学んできた知識や経験を全否定することになりかねない……」

「超能力を頭から否定する気はありませんけど、こう次々に現れると逆に疑いたくもなります……」

 椎名はむしろ喜んでいるようだ。

「だが、これが真の超常現象なら、格好の研究材料だ。オカルト部の責任者としては見逃せない。事実だと検証できれば、華々しい成果を上げるきっかけになるかもしれない。まさに世界を変えることになるだろうからね。ニュートンやアインシュタインに並ぶことも夢じゃない」

 大前がつぶやく。

「この身で体験した僕がいうのも変ですが、あくまでも検証できれば、でしょう? あんな曖昧な言葉は、どうとでも屁理屈がつけられます。そもそも、岩渕の言葉が予言だとは限りません。いつ、どこで、何がっていう確定的なことは一切も言っていないんですから」

「そもそも予言とは、そんなものだろう?」

「そう言われたら反論もできませんけどね。しかし、心拍やら音声の分析データからすると、本人自身が自分の言葉に〝驚いて〟いる可能性さえある。単に思いつきで私たちをからかっただけかもしれません」

 大前の表情は暗い。否定的な言葉を使っているにもかかわらず、あえて自分に言い聞かせているといった様子だ。そうしていなければ、恐怖に呑み込まれてしまうとでもいいたそうに……。

 カマイタチで傷を負って以来、ずっとそのような〝迷い〟を感じさせていた。

 椎名が真面目に応える。

「〝驚いて〟いるから重要なのではないか? からかったのなら、なぜ驚く? 不意に思いついた言葉だからこそ、驚いたのだろう。予言が実在するのなら、おそらくそんなものなのだろう。『雷(いかづち)』が何を示すかは分からんが、『背徳の城』とはこの研究所だろうね。〝彼ら〟にとっては自分を閉じ込める理不尽な存在だろうから」

 サラは顔をあげない。

「やめてください……無意味な分析です。少なくとも、今の段階では情報が少なすぎます。断定的な判断は危険です。仮説を立てることさえ予断に繋がります」

 椎名は引かない。

「だが、大前君の怪我がサイコキネシスだとするなら、予知能力だって存在する可能性はある」

 サラが椎名を見て言った。

「バカバカしい……そもそも、念動力と予知は別の能力じゃないですか。一緒くたに考えるのは科学的じゃありません……」

 椎名が一層真剣になる。

「私の意見は逆だ。オカルト部では、PK、そしてテレパシーや透視能力を総称するEPSも、さらには予知能力も、根源は同じ原理によるものではないかと推論している。予知はある意味、時間を超越した透視だとも言えるからね。光子が周波数によって電波や可視光線に変わるのと似たような現象だともいえる」

「時間を超越だなんて――」

「量子理論の極微細な世界では、普通の考え方だ。超弦理論に至っては、この世は9次元の世界の投影に過ぎないとまで言い切る。そう考えなければ統一場理論が構築できないからだ。しかも、それが数学的に導かれる唯一の解だ」

 サラが薄笑いを隠す。

「9次元の投影って……」

「近似的な現象は身近に溢れている。例えば温度だ。物質には熱があるが、それは分子自身に備わっている属性ではない。分子の振動が、言い換えれば平均エネルギーが、マクロの世界に現れたにすぎない。分子レベルでは存在しない概念が、我々に〝幻想〟として認識されていると表現することもできる」

「それはミクロの話であって、わたしたちが直面しているのは現実の脅威です」

「その現象を引き起こす根源がミクロの世界なのではないのかね? 人間の脳は極微細の配線が複雑に入り組んだ量子コンピューターのようなものだ。その中で発生している現象がどうしてミクロの世界と無縁でいられる? 量子の捉えがたい性質は実験で証明されている。単一の粒子として発射された量子が2本のスリットを同時に通過し、しかも干渉して縞模様を作る。量子は粒子と波動の二重性を持っていて、観測者によって姿を変えるのだ。有名な『シュレディンガーの猫』という思考実験では、ある意味、生と死さえ共存可能になってしまう」

「だからといって、超能力と結びつけるのはどうかと――」

「物質の基本単位である量子が曖昧な性質を持っているなら、その曖昧さがマクロ世界になんの影響を及ぼさないと考える方が無理筋なのではないか? しかも『量子もつれ』などの現象は、はNASAなどの実験で何年も前から証明されている」

「それこそ飛躍が過ぎます」

 サラの手にはいつの間にか小さな関数電卓が握られていた。それを、せわしなくいじる。椎名との議論が噛み合わないことにイラついていたようだ。

 2人の議論についていけない龍ヶ崎が、あえて彼らに聞こえるように大前に尋ねる。

「量子もつれ、って?」

 議論の加熱を不安げに見守っていた大前が、ほっとしたように答える。

「量子に現れる、原理が解明されてない現象の一つです。2つの量子が量子もつれ状態にあると、離れ離れになっても密接に繋がっていて、一方に及ぼした作用が瞬時に他方にも現れます。一方の量子に情報を渡すと、瞬時に片割れの量子にその情報が伝わるわけです。ミクロの世界では、テレパシーとも呼べるような現象が実在しているんです。この仕組みが新たな情報伝達手段に利用できるのではないかというアイデアもあります」そして椎名の顔色を伺う。「オカルト部でも、そんな研究をしているはずですが……?」

 椎名は誰にともなく言った。

「PKやEPSをオカルトだと笑う人間も、多くは虫の知らせや死人が夢枕に立つことを否定しない。それは文化的な幻想だという意見もあるが、少なくない実例が積み重なるからこそ文化として定着する。いわゆるシンギュラリティやセレンディピティと呼ばれる現象、あるいは〝火事場の馬鹿力〟というやつも同様だ。その根源に脳科学が、そして量子の一形態である素粒子や、超弦理論があることをなぜ否定できる? そもそも、超能力といえども現実に力を及ぼす現象だ。ならばそれは、重力や電磁力と同一の地平にあり、大統一理論の中で解釈できなければならない。いや、できるはずだ。現在のところ、大統一理論に近づいているのは超弦理論しかない。そのミクロの世界が解明されれば、その時こそ超能力の本質が暴かれる」

 大前が力なく応える。

「所長が超能力を重視するのは分かります。オカルト部は鬼っ子の金食い虫だし、できれば中心的な研究での成果が欲しいでしょうから……」

 椎名は不服そうだ。

「確かに金は食う。量子コンピューターの維持費だって半端な額ではない。しかし、その分は成果を挙げている。ここでの自由な発想が様々な波及効果を産んでいる。元々がその効果を狙った研究だからね。その意味では、オカルト部は成功している」

「ですが、超能力の正体は今だに判明していないじゃないですか」

「正体は不明確でも、現象は実在をほぼ認められている。世間一般には〝オーラ〟や〝気〟の存在が当たり前のことのように語られているではないか。それは世界的に不変で、どんな文明でも経験則として承認されている。リンゴが落ちるように、〝気〟が実在するとしよう。それが何かしらの力を及ぼすものであれば、必ず〝場〟が生じている。重力場や電磁場のような構造があるのなら、それを生み出す素粒子は絶対に必要だ。逆にその素粒子を探し出せば、場の解明に近づく。場の構造を解き明かせれば、利用する方法も生まれるかもしれない。目的は違うが、国際リニアコライダーによって重力場の解析が進めば、反重力装置を作る可能性も生まれる。同様に〝気〟を解明できれば、誰でも超能力が使える日が来るかもしれない」

「現実離れしすぎですって……」

 椎名の言葉はさらに熱を帯びていく。

「そもそも、超能力は人間にだけ備わっているものではない。それがある種の場によって生じるものなら、全ての生物に影響を与えていると考える方が自然だ。例えば……そう、原始的な生物の代表として、単細胞生物の粘菌を考えてみよう。粘菌は状況によって運動能力を獲得したり、大きな広がりを作る。迷路の中に広がらせてから入り口と出口に餌を置くと、粘菌は最短ルートに収斂していく。単細胞なのに、迷路を解くのだ。しかもこの性質を利用して、最適な交通網を設計するという成果もあげた。日本人の科学者が2度もイグ・ノーベル賞を獲得した実験だ。まあ、おふざけのような賞ではあるが、時に物事の本質を射抜くアイデアもある。この実験はまさにそれだ。粘菌に頭脳はない。なのに、最善の経路をあっさりと見出してしまう。まるで、量子コンピューターで計算したかのように、ね。ここに未知の感覚を想定することは、さほど奇異ではないと思うが?」

 サラが議論に加わる。

「だからと言って、それを超能力と呼んでいいものかどうか……。単に粘菌の性質がそうだというだけなのでは?」

「その性質が、場によって作り出されているとしたら? 確かに、こじつけと断じられても反論する証拠はない。逆に、明らかに違うと証明されているわけでもない。生物が時に不思議な力を発揮することは誰もが経験的に認めているだろう? そこには、共通の原理が働いていてもおかしくはない。その謎は、永遠に解明できないかもしれない。そもそも、統一場理論自体が未完成なんだからね。だが、飛行機もテレビも携帯電話も、かつては空想の産物でしかなかった。空想は時を経て実現することもある。実現を諦めさえしなければ、だがね。しかもオカルト部では、解明の努力を続けること自体で実利的な成果を産んでいる。そこに、薬師寺氏という奇跡が現れたんだ。私には、見逃すことはできない」

 再び椎名とサラが睨み合う。

 その瞬間、龍ヶ崎のポケットでスマホの着信音が鳴った。取り出してディスプレイを見る。

「失礼。田中警部補からです。緊急らしいので出ます。はい、龍ヶ崎です」

 椎名とサラは視線を外して黙り込んだ。

 その間、龍ヶ崎が電話の相手の話を無言で聞く。表情は変わらない。

「分かりました。今、医師たちが集まって事態を検討しています。5号カンファレンスルームにきてみんなに説明していただけますか? お願いします」

 通話を終えると、龍ヶ崎は内容を説明した。

「警察庁から薬師寺氏についての新たな発見があったという報告があったそうです」

 田中はすぐにやってきた。空いていた椅子に腰を下ろすと説明を始める。

「薬師寺氏は過去に、別名義で数本の習作を書いていたそうです。出版されていないものです。その作品の中に、売春婦、時計職人、詐欺師、そしてプログラマーを主人公にした物語があったそうです」

 サラが納得したようにつぶやく。

「別人格は、そこから……」

「しかも、取材先は他にもあったということです。中には、この研究所の初代所長である春日翔太氏にも詳しい取材をしていたようです」

 椎名と大前が慌てたように目を見合わせた。

 椎名が問う。

「春日君に? いつ頃のことですか? 私は何も聞いていませんでしたが……」

「詳しいことは調査中ですが、そんな習作を量産していたのは7年以上前らしいですね」

「研究所の計画が持ち上がった当時か……」

 大前も身を乗り出す。

「春日先生の取材をもとに書いた作品もあるんでしょうか?」

「そのような作品はまだ発見されていないということです。気になりますか?」

「もちろん。彼は極めて優秀な研究者でしたが、不幸な事件があって……。薬師寺氏には、なぜ春日先生を取材したのか理由を聞いてみる必要がありますね……」

 椎名が後を引き取る。

「今この研究所に措置入院している南哲二という男がいる。研究所が開設された当初から大前君の担当患者だったんだが、他害傾向が強いので春日君とチームを組んで徹底した精神分析を続けていた。多分南は、春日君の何かが気に障ったんだろう。セカンドオピニオンを得るための移送中に脱走して、春日君の自宅を襲って一家ともども惨殺した……」

 龍ヶ崎がうなずく。

「あ、あの事件ですか……。確かご主人の遺体はまだ発見されていないはずでは……?」

 大前がうなずく。

「その通りです。春日君の母親や、またまた居合わせた女兄弟、そして奥さんの死体は自宅に残っていました。春日君の車は海岸道路から海に転落していました。逃げ出そうとして運転を誤ったいうのが警察の見立てです。娘さんの遺体は車に残っていましたが、春日君は発見されていません。自宅にも本人の血痕が大量に残されていましたので、おそらく娘さんを車から救い出そうとして力尽きて潮に流されたのかと……」

 椎名が言う。

「彼の意志を継いで、私が2代目の所長になったのだ。オカルト部も引き継いだ」

「そんなことが……。ですが、そういうことでしたら、薬師寺には精神医学やこの研究所についての知識もあると考えていいですね」

 大前が不安げに椎名を見る。

「死者の人格が憑依するようなことってあるんでしょうか……?」

 椎名もわずかな怯えを見せる。

「薬師寺の多重人格の背景が創作のための取材にあったのなら、憑依と呼べないことはない。オカルト部の研究課題としては、興味深い仮説だな……」

「しかし、なぜ薬師寺は春日先生に取材を……?」

 と、外から雷鳴のような音とかすかな振動が伝わる。

 彼らの話に聞き入っていたサラが、顔を上げてつぶやく。

「あら? 雷かしら? 晴れてるのに……」

 全員が窓の外に目をやる。確かに、天候が崩れる気配はない。

 田中が話を戻す。

「薬師寺氏の創作スタイルは、主人公を取り巻く世界を徹底的に取材してから物語を組み立てるようです。だとするなら、別人格が持っている知識は薬師寺氏本人が得たものだと考えていいでしょう」

 大前が話題を逸らすかのように、問う。

「確かに。ですが、なぜそれらの作品は別名義なんですか? しかも、プロの作家なのに出版されていないって……?」

 田中が答える。

「すべての作品が、極めて背徳的なSM的な志向の物語だということです」

「作家なら、別に気にすることじゃないでしょうに。薬師寺の印象を悪くするというなら、別のペンネームを使うことだって可能でしょう? むしろ、売れるかもしれないじゃありませんか?」

「一般書店に並べられる程度のソフトな内容じゃないらしいですよ。最近は、そんな著作物への風当たりも厳しいですから」

 サラが納得したようにつぶやく。

「それがおそらく、人格の分裂を招いた底流の原因でしょうね。薬師寺氏は根本的に犯罪的なSM志向を持っていた。理性ではそれを恥じて、隠していた。けれど、隠せば隠すほど、淫靡な欲求は肥大化していく。それを解放するために物語を書きはしたけれど、発表すれば社会的評価を破壊する。その二律背反に精神を病んでいたんでしょう。それが7年前ぐらいのことなら、人格の分裂がゆっくりと進行していたのかもしれません」

 龍ヶ崎が考え込みながらつぶやく。

「そこにさらに、精神の均衡を壊す何らかのイベントが発生した。そのインパクトから身を守るために、人格が分裂した――」

「そう考えれば納得できるわね。そのイベント、出版関係の事件だと思うんですけど。人格の分裂まで起こすほどですから、本人にとっては相当大きな事件でしょう」

 田中がうなずく。

「警察庁の部下が、すでにその線で捜査を開始したそうです。さっきのは、その報告です。なんらかの結果はすぐに出るでしょう」

 サラがにこりと微笑む。

「有能ですね」

 そして田中は、わずかに声を落とした。

「ですが、気になることは他にもありまして……」

 龍ヶ崎が訝る。

「他にも?」

 田中が龍ヶ崎の顔色を伺う。

「多少警察内の秘密に関わることなんですが……」

 龍ヶ崎も、警察には守らなければならない秘密が多いことは承知している。犯罪者のプライバシーといえども、みだりに漏洩はできない。それが単に取材先の情報だとするなら、扱いには慎重にならざるを得ない。

「だが、薬師寺氏にも関係しているのでしょう?」

「それはもちろん……」

「でしたら、皆さんに知ってもらった方がいい。精神分析に欠かせないデータかもしれないですから」

「ですよね……。なるべく黙っているように言われたんですけど……」田中は覚悟を決めたように続ける。「まず岩渕の元になったと考えられる時計職人ですが、彼には極左活動家の前科がありました。活動家時代は、手製爆弾の製作を得意にしていたそうです。可塑性爆薬の手製もできるそうです。公安の過去データから、極めて精巧な時限爆弾を作っていた記録が発見されました」

 声を漏らしたのはサラだ。

「爆弾魔……?」

 他の者たちは、真剣な眼差しで田中を見つめている。

「朝比奈の人格は売春婦ということになっていますが、占い師としても評価が高かった女が元になっています。政財界の有名人に密かな人気があった、カリスマ的人物です。むしろ売春の方が趣味の副業だったようですね」

 今度は椎名がうめく。

「予言者か……」

「さらに刑部。取材先は名うての詐欺師でしたが、病的な虚言症を持っていました。逮捕したことがある所轄に確認したところ、極めて手強い相手だったそうです。何を考えているか全くわからず、その言葉が嘘か本当か見当もつかず、泣き落としも通用しない……落としの名人が翻弄されて音をあげたようです。そして、城。かなり優秀なプログラマーで、凄腕のハッカーでもあります。警察庁から引き抜きのオファーを出したこともあるそうです。海外に修行に行くという理由で断られたそうですが。実際は、大手企業の情報を抜いたことがバレそうになって海外逃亡したらしいですね」

 龍ヶ崎がため息を漏らす。

「全員、それぞれの世界での凄腕ってことですか……」

 大前がうなずく。

「しかも、危険人物……」

「はい。薬師寺はそういう人物を選んで取材に行ったようですね。だから、一般に公開するのをためらっていた面もあるんでしょう。取材元から公表を止められたっていう可能性もあります。作者自身にとってすら、あからさまにしたくない趣味を極めた作品群のようですから」

 室内が沈黙に包まれる。

 と、今度は椎名のスマホが鳴った。

「おっと、私か」スマホを取り出す。「椎名だ」

 途端に顔色が変わる。

「待て! スピーカーにする」

 スマホから相手の緊迫した声が漏れる。

『怪我人はありませんが、火災が発生しています!』

 大前が身を乗り出して叫ぶ。

「事故か⁉」

『あ、大前主任ですか? 別館地下のNAS電池が爆発しました!』

「バックアップ電源か⁉」

『はい! 併設の自家発電機も破損した可能性が大きいです』

「さっき雷のような音がしたが、あれか! だとしたら、ただの火災じゃなくて、本当に爆発したのか⁉」

『周辺は相当破壊されていて、近づけません。状況の把握もできません。単なる火災とは思えません』

「まさか、テロか⁉」

『え? なぜこんな研究所を標的に?』

 一瞬考え込んだ大前が、我に返る。

「対応は⁉」

『消防にはすでに連絡済みです。所内の消火チームはこれから作業に入るところです。ですが……』

「簡単には消火できないだろうな……」

『完全鎮火には数日はかかる恐れがあるかと……』

「分かった。すぐに現場に行く」

『よろしくお願いします』

 通話は終わった。

 と、龍ヶ崎がつぶやいた。

「地下電源……まさかそれが『大地より湧き上がる雷』なのでしょうか……?」

 椎名が放心したようにうなずく。

「予言だったんだ……やはり……」

 サラがつぶやく。

「それとも、予告……? まさか……同時起動実験が別々の人格が結びつけて、暴走し始めたのでは⁉」

 椎名の表情が凍りつく。

「朝比奈の予知能力と岩渕の爆弾スキル……。その融合を検査で見抜かれないように、刑部の嘘が覆い隠していた……とかか?」

「サイコキネシスも備わっているようですし……」

「遠隔地を透視して、爆破か⁉ だが、そのPKは一体誰の人格から?」

 大前が立ち上がる。

「考察は後で! 今は現場へ!」

 龍ヶ崎は言った。

「私も行きましょう」

「案内します」

 二人は駆けるように部屋を出て言った。

 彼らを追おうとする椎名の腕をサラが掴み、小声で尋ねた。

「オカルト部って、本当は何を研究しているんですか?」

 椎名が真顔になる。

「今はそれどころじゃない!」

「重要なことです」

「すでに説明したはずだが?」

「充分だとは思えません」

「君には関係ないことだ」

「テロの標的にされるような研究をしているんですか⁉」

「君に教えることじゃない!」

「アメリカ政府とは無関係だ、ということですか?」

 椎名が一瞬絶句し、浮かせていた腰を下ろす。

「私の一存で簡単に話せることではない」

「実は、わたしの――いえ、アメリカ政府の関心は薬師寺氏だけじゃありません。この研究所の存在そのものが興味を引いているんです。量子物理学の専門家がなぜ脳科学の研究所の所長をしているのか? オカルト部のような内部組織がなぜ存在しているのか? その管理を所長自らが行なっているのはなぜなのか? 研究しているはずの成果が国際機関にも一向に漏れてこないのはなぜなのか? それにもかかわらず、なぜ何年も存在し続けているのか? 説明していただけますか?」

「だから一存では――」

「決断できる立場の人物とコンタクトを取ってください」

「答えは、ノーだろうね。聞くまでもない」

「でしたら、できる範囲で構いません。個人的にでも教えていただきたいんですが」

 椎名の目つきが不意に俗人的な色を帯びる。

「個人的に、か?」

「わたし個人としても、強い関心があるんです」

「アメリカ政府とは一切関係なく? オフレコで、か?」

「それでも構いません。もう少し成果があれば、わたし、キャリアアップができるんです。所長のお力、貸してもらえませんか?」

 椎名はわずかに考えてから、舌舐めずりするようにかすかに微笑んだ。

「分かった。今晩、君の部屋でゆっくり相談しよう」

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