3・第3の人格=朝比奈純礼(あさひな すみれ)
男の体なんて、うんざりする。
自分が他人の心に湧いて出た〝架空〟の人格だってことは、イヤってほど説明された。それ、信じるしかないことは身に染みてる。だって、実際に体は男なんだから。
なのに、全然慣れない。納得できない。
だったらあたしは、誰なの? いいえ、なんなの?
人間じゃないの?
なのに、なんで自分が女だって自覚してるわけ?
そもそも、どこか別の場所に本当の体があるの?
どんなブスでも構わないから、せめて女の体が欲しかった。トイレや風呂に入るたびに、泣きたくなってくる。男性器は好きだけど、自分に付いてるのはうんざりだし、しなびた年寄りだってのも許せない。
とはいえ、苛立ちにも耐性がつく。慣れはしないけど、だからといって逃げる方法もない。我慢するのが当たり前になった。
意識が戻るたびに絶望的な気分になるのは確かだけれど、ため息をつくだけで受け入れられるようになった。
要するに、諦めたんだ。〝自分〟を生きるってことを。
そして、あたりを観察する。自分を守るために。諦めていたって、心を切り刻まれるのは不愉快だから。
何も置いていないテーブルを挟んだソファーの向かいに、女が座っていた。真っ白に感じる部屋の中だ。
ああ……座ったまま、入れ替わったんだ……。
「あんた、誰?」
言葉にして、また絶望感に襲われる。嫌な声だ。なんであたし、男の声で喋ってるのよ……。
目の前の、緑色の手術衣の女が穏やかに答える。
「初めまして。わたしはサラ・ドーハム。名前はアメリカ人だけど、中身は全部日本人よ。養子に入っただけだから」
いろいろ、いつもと違う。
面接は3回目だけど、白衣の男ばかりだった。この女、医者じゃないのかな? しかも今回はあたし、ガラス窓に背中を向けて座っていた。つまり、この女がガラス窓に向いている。
なぜ?
すぐに答えを思いついた。ガラス窓の連中と、アイコンタクトで〝連絡〟するために違いない。
何を企んでる?
そう考えてから、不思議に思った。
あれ? あたし、なんで勝手に状況を推理しようとしてる? そこまで頭を使うなんて、ろくにやったことないのに。
とっくに諦めてるはずなのに。
しかもすぐに自分で答えを出して、納得してるなんて……。
え? まるであたしじゃないみたい。検査のせいで、急に賢くなったわけ?
ちょっと不安になったけど、まあいいや。閉じ込められて妙な検査ばかり続いてるんだから、おかしくもなるわよね。でもなんで、今回はこの女が来たのかな?
あれこれ検査をしてた時に会った医者は、男ばかりだった。たまにナースもいたけど、この女と顔を合わせるのは初めてだ。どうせ隠れて監視カメラとかで覗いていたんだろうけど。
悔しいけど、美人。ほんと、イラつく。
でもこいつ、顔、いじってるね。きっと。美人すぎて、どこか不自然だもの。化粧のせいか? 手術衣の下のバストもそれなりの大きさだけど、なんか固そうな印象。腕組みをして目立たせようとしているけど、豊胸手術してたりしてね。
まあ、ただの勘だけど。
学者のくせに、女を使ってのし上ったわけ? それとも、ありふれた見栄っ張り?
声も、幼そうな顔と華奢な体格に似合わずハスキー。でも、あたしみたいなダミ声じゃない。男を誘うには都合がいい声だわよね。
学者のくせに。
あたしの仕事には、もってこいだけど。
ホント、悔しい。
「で、あんた、なんでそこにいるの?」
「わたし、脳科学者なの。あなた、自分が多重人格者だって知ってるのよね?」
「知ってるけど、できればやめたい。力を貸してくれる?」
なぜか、言ってしまった。本心なんて、初対面の相手にさらけ出すことじゃないわよね。しかも、手柄を立てるためにあたしの脳みそに手を突っ込もうと企んでいる医者に……。
だけどサラっていう女は、いきなり切り返してきた。
「人格が消えても構わないの?」
「全然平気。だって、痛くもなんともないんでしょう?」
「多分そうなんでしょうけど……体験したことはないから確証はないわ。それに、人格が消えるってことは、死ぬのと同じだけど?」
「男の体に耐えるのは、あたしにとっては拷問みたいなもんよ。楽になりたいって考えるのは、変?」
サラがうなずいた。
「嫌いなのね」
「あたし、女だから。しかも、商売女よ。知ってるんでしょう? 美少年ならともかく、こんな干からびた体でどんな商売しろっていうのよ」
「落ち込むのも分かる気がするけどね」
「ご冗談を。それが本当に分かるのって、性転換して後悔したままお迎えが来た奴しかいないんじゃない?」
「返す言葉はないわね」
あたしも、言い合う気はない。言い合ったところでどうもならないって分かってる。
だから、ほっといて。
「で、なんの御用? またいつもの質問攻め? 人が変わるたびに同じこと聞かれるのはうんざりだから、質問は良く考えてね。あたし短気だから、イライラすると反抗しちゃうから。これまでの答えは全部知ってるのよね?」
「まずはご挨拶しにきたのよ」そしてサラは、手術衣の胸ポケットから出したメモ紙をテーブルに出した。「わたしのサイトのアドレスよ。見にきてね」
「英語なんでしょう? 見たって分からないわよ」
言いながら、メモを受け取って読んだ。
おや? こんなもの、勝手に渡していいの?
目を上げてサラを見る。驚いたような表情を見せていたと思う。
すかさずサラが言いそえた。
「大丈夫。日本向けのページもあるし、ブラウザがすぐ翻訳してくれるから」
そういうことなら。うなずいて、メモをパソコンに挟んだ。
「で、挨拶は終わり? あとは何をするの?」
サラはニヤリと笑った。
「質問攻め」
「やっぱりね」
うんざり。でも仕方ないよね、諦めてるんだから。
サラはいきなり核心を突いてきた。
「暴力振るいたくなること、ある?」
面倒臭いけど、そっちがそう来るなら、こっちも。
「あるわよ。今もそう。そっとしておいてくれないなら、手を出しちゃうかも」そしてもう一度辺りを見渡す。「でも、武器になりそうな物はないみたいね」
サラは平然と言った。
「わたしだって、痛い思いはしたくないから。で、実際に暴力を振るったことはある?」
あるけどね。
「だから、昔の記録は知ってるんでしょう?」
「引っ掻いたり殴ったりじゃなくて、人を殺したことは?」
わ、またいきなり突っ込んできたよ。もう少し〝前戯〟があってもいいんじゃない?
なんか、男みたいなメンタリティね。学者だから? アメリカで働いてるから? 女同士で話をしてるって気になれない。
「あの、猟奇殺人ってやつ?」
「事件自体は知ってるのね」
「それもデータにあるんでしょう? 怒らせたいの?」
「そう。人間って、怒った時にしか見せない本性があるから」
思わず腰を浮かせてしまった。
「は? わざとやってるって⁉」
サラはまた、ニヤッと笑いやがった。
だめだ。ここは相手のペースに巻き込まれちゃまずい。こいつ、真剣の斬り合いが好みらしい。まどろっこしい言い回しが大好きな日本人の感覚とは、勝手が違う。やっぱりアメリカ仕込みのスタイルみたい。
しかも、頭がキレる。学者なら当然ともいえるけど、あたしが今まで相手をしてきた〝博士〟たちとは全然違う。奴ら、自分が何を言ってるのか分かってないんじゃないかってくらい、バカだったし。
だけど、なんでこの女のペースにはまったらまずいって思うの?
こっちに得があるなら、利用してもいいかもしれないのに。それで自分のことがもっと分かるなら……。
いや、違うわね。あたしの人格を消してくれるなら、が正解。
諦めるのにも、もう飽きたし。
サラは言った。
「わたしを殺したい?」
じゃあ、こっちはこの手で。
「殺されたいの? だったら、首を絞めてあげてもいいのよ。どうせあたし、幽霊みたいな人格なんだから、罰しようもないだろうし。あたしだけ消せるもんなら、やってみればいい」
そう。そうしてくれると、ホント、助かる。
サラはまた笑って、身を乗り出してきた。
「でもね、わたし、護身術は指導者クラスなのよ。2人で戦ったら、男女混合のプロレスみたいになっちゃうわね。観客は喜ぶかもしれないけど」
何よこの女! あたしをバカにしてんの⁉
けど、そう言いながらサラはあたしの後ろを指差していた。
振り返る。ガラス越しに、3人の白衣がこっちを見ていた。ま、いつも通りの風景だけどね。あたしはいつも、モルモット扱いだったから。
ちょっと冷静になった。面白いことにも気づいた。
端にいる年寄り、あたしの顔は見てない。ニヤつきながら、サラの方にだけ舐め回すような視線を向けてる。椎名って言ったけ。ここの所長らしいけど。
こりゃ、勃起してるね。お盛んなジジイだこと。まあ、しなびた爺さんの背中より若い女の乳を眺めている方が楽しいのは分かる。手術衣の下を想像していることも、あたしには分かる。
性欲を見抜くのも商売繁盛の秘訣だからね。
サラを見て、言ってやった。
「あんたがそんなに強いんだったら、負けちゃうわね。あたしの人格はともかく、体はガタがきてるジジイだから。あたし的には死にかけの爺さんでも舞い上がっちゃうぐらいのレズプレイを見せてあげたいけどさ。それを期待してる爺さんもいるみたいだし」
椎名の性欲を匂わせてやった。だけど、反応なし。何も気づかないみたい。
鈍いな、この女。まさか、処女?
サラの目は真剣にこっちを見つめ返すばかりだ。
「そうでもないかも。あなたの場合、人格が変わると体にも大きな変化が起きるから」
「なにそれ。ハルクかよ」
サラも軽く吹き出す。
「緑色にはならないけど、似たような現象ね」
わ。冗談にまともに答えやがった。
「馬鹿みたい。だったら、あたしも女になれるって?」
「そこまでは無理でも、多分、体力は格段に変わると思う。筋肉組成が微妙に変化することも検査で確認されてるから」
ホントか?
「あ……そういえば、血液だけじゃなくて、あっちこっちの臓器のサンプル、取ってたよね。そんな検査もしてたんだ」
サラはあたしを無視した。
「だから聞いてるの。あなた、人殺しなの?」
しつこい! 何でこんなにトゲのある聞き方ばかりするんだ? お前、学者だろう? まるで、〝悪い警官〟みたいじゃないか。
「そう思いたいならそれでいいって! どうせ、消えた方が喜ばれる人格なんだから!」
と、天井から声が落ちてくる。スピーカーが仕込まれている。当然、隠しカメラもある。
『サラ先生! 刺激しないで!』
お前が〝いい警官〟か?
サラはあたしの後ろを睨みつける。
「あなた方は黙っていて! 今は、わたしの患者なんだから!」
気が強い女だこと。こいつ、誰にでも当たり散らす跳ねっ返りなのかもね。
でもそういうの、嫌いじゃない。女としての魅力はゼロだけど。
所詮学者ね。頭でっかちで中性的な人間にしかなれないんでしょう。あたしをモルモットにして、手っ取り早く業績を上げたいわけね。注目されなくて焦ってるって感じだな。女の政治家によくいるタイプだよね。能力もないくせに、やたら重箱の隅ばっかり突っつき回してわめく奴。
かわいそうな女。せっかく見た目はいいんだから、別の〝売り方〟を考えればいいのに。
サラに同情し始めたときに、またスピーカーから声が落ちてきた。今度は威圧的だ。
『あんたはただのオブザーバーだ! 出しゃばるんじゃない! 言うことが聞けないなら、二度と部屋に入れさせないぞ!』
気が強い女は嫌いじゃない。だけど、高圧的な男にはムカつく。大金握らせてくれる客なら、我慢もするけどさ。
いきなりカッと頭に血が上った。
また振り返った。真ん中にいる男が、左手でスタンドマイクを握りしめて叫んでいる。顔つきがまた、傲慢そうだ。貧乏くさいし。
〝悪い警官〟はお前の方か⁉
切れた。
「あたしはサラと話してるんだよ! てめえはすっこでやがれ! インポ野郎が!」
あれ? あたし、なんでこんなに腹を立ててるんだ? さっきまで、何もかも諦めて投げやりになってたのに。学者同士の諍いなんて、関係ないのに。サラに加勢する義理もないし。
でも、怒鳴ってちょっとスッキリした。一瞬、男は息を呑んだようだ。
ザマアミロ。
と、男が奇妙な悲鳴をあげる。マイクから手を離して、腕を抱えるようにしてうずくまった。
は? なんだ?
いきなり、どうした?
男はしばらくそのまま動けないようだった。
横の奴らは、何が起きたのか分からない様子でそいつを見つめている。
と、男がゆっくり体を起こした。その肘のあたりを凝視する。長袖の白衣に、一筋の血が滲んだ。血の跡はみるみる広がっていく。
ガラスの向こうの男たちに動揺が走る。マイクを切ったのか、男たちの声はくぐもって聞き取りにくい。だが、全員うろたえているのは確かだ。
振り返ると、サラが立ち上がっていた。あたしを見下ろして、つぶやく。
「あなた……何をしたの……?」
は?
「何を……って……」
ガラス越しで何ができるっていうのよ。
「何をしたの⁉」
サラの表情は、こわばっている。恐怖を感じてるみたいだ。
「あたしが……?」
「なんで……なんで、そんなことができるの……?」
なんのこと……? あたしが何をしたっていうの……?
✳︎
スタッフは、2階医務室に集まっていた。
大前の前腕は長さ10センチほどに渡ってすっぱりと切り傷をつけられていた。
傷の処置をした看護師の滝沢真奈美が言った。
「まるでカミソリで切りつけたみたいでしたね……」
治療を終えた大前が、ベッドに腰掛けたまま包帯を巻かれた腕を見てつぶやく。
「今になって痛みがひどくなってきた時がするよ。カマイタチ、ってやつだったのかな」
「まだ痛みます? 痛み止め、強くしますか?」
「いや、大丈夫。そんな気がするってだけの話だ」
サラがつぶやく。
「変な演技をお願いして、すみませんでした。あれで彼女を必要以上に怒らせてしまったようです……」
大前の言葉に力はない。
「いや、〝いい警官と悪い警官〟も実験の一環だし、怒らせたいと言い出したのは僕の方ですから……」
「でも、刑部さんと朝比奈さんの同時起動のすぐ後でしたし……。やっぱり、性急すぎたんでしょうか……」
「たとえそうだとしても、問題の本質は別のところにあります……」
大前を支えて医務室にきた龍ヶ崎が、丸椅子にへたり込んでうつむいている。体力を使ったからではない。状況が理解を超えているのだ。
「その通りだ。だが、なぜだ……? 腕はこれほど切れているのに、白衣は何ともない。まるで、手品だ……」
サラと朝比奈純礼のコンタクトを見守っていた椎名が、龍ヶ崎に目を向ける。
「さもなければ、超能力――といったところだが……」そして、真剣さを増す。「薬師寺氏が殺した被害者の状況は、私たちには知らされていない。だが、君は何か知っているんだろう?」
それは、サラを含めた担当者全員の感触だった。これまでは別分野の出来事として、また予断を避けるためにあえて追求せずにきたのだ。
龍ヶ崎は顔も上げない。
「また超能力ですか……飛躍しすぎじゃありませんか?」
だがその声は暗い。というより、何かに怯えているとさえいえそうだ。
椎名がそれを見抜く。
「では、何をそんなに恐れている?」
「恐れるって……?」
椎名が断言する。
「君は薬師寺を恐れている。誰が見ても明らかだ。薬師寺がとんでもない能力を隠し持っていることを知っているんじゃないのか? それを教えて欲しい」
龍ヶ崎は口をつぐんだ。
サラが控えめに言い添える。
「わたしも、同感です。朝比奈さんとの面談で考えが変わりました。オブザーバーとしても、ぜひとも殺害現場の状況を知っておきたいんですが……」
龍ヶ崎がか細い声でつぶやく。
「部外者に漏らすわけにはいかないというのが、警察の判断です……」
「薬師寺の正体を解明するためには、もう避けて通れないと思うんですけど……」
椎名がうなずく。
「サラ君の言う通りだ。我々に正しい調査結果を望むなら、情報はすべて開示していただかなければならない。初期情報が秘匿されていれば、判断の基準が狂う」
大前が包帯をさすりながら龍ヶ崎を見る。
「あの時……何か鋭利な刃物で切りつけられたような、冷たい感触がありました。なのに、衣類には何も痕跡がない。おかしいじゃないですか。常識外の事態が起きているのは間違いないんです。その原因は、どう見たって薬師寺氏だ。彼の中の人格が、超能力を……こんな曖昧な言葉を使うのは悔しいですけど、確かに超自然的な力を発したんです」
龍ヶ崎が顔を上げる。
「あなた方、科学者でしょう? 超能力、超能力って……。それじゃあまるで、粗製濫造のアニメじゃないですか……」
大前の目は真剣だ。
「体験しましたからね。腕を切られた瞬間、薬師寺氏の目から――あの時の人格は朝比奈さんでしたが、何かが飛んできたような……あれが殺気っていうんですかね、そんな気がしました。まるで、物理的な何かに襲いかかられたような……」
椎名が真剣な表情で言い添える。
「この研究所では、人間の脳やその潜在能力を研究している。研究のテーマにタブーを設けないのが私の方針だ。だから、一部の研究者は本気で超能力の研究も進めている」
龍ヶ崎が椎名の口調に驚きを見せる。
「本気で……ですか?」
「もちろんだ。君も承知しているとは思うが、現在では興味本位のオカルトとは一線を画する『超心理学』という学問分野が成立している。発祥は19世紀末から行われてきた神霊研究だが、厳密な科学的アプローチを取ることで学問として進化した。米国デューク大学のライン研究センターが世界的研究拠点と言っていいだろう。そこでは人工知能開発にも関わる認知科学などを深めようとしているが、超能力研究も排除していない」
「それって、いわゆるトンデモな疑似科学じゃないんですか……?」
「そう言って無視したがる科学者も多い。だが、たとえ少数であろうと、人間が未知の能力を発揮できるのなら、誰かが調べないわけにはいかない。頭から否定して調査すらしない方が科学的な態度とはいえない。超能力研究自体も、アメリカやロシアでは20世紀から実行されていることだ。アメリカの『スターゲイト計画』は有名だが、それは遠隔透視能力を軍事利用しようという作戦だった。他の研究も多くは軍事利用が目的だ。無論、それでいわゆる超能力の証明や利用法が実現したわけではないが、副次的な成果は大きかった」
「なんですか、成果って……」
「人間の意識に対する理解が飛躍的に高まった。脳の構造の解明が進み、様々な化学薬品との相互作用を追求することで、創薬などの事業に利用されることもある。錬金術と同様にね。歴史的な発明や発見というものは、往々にして一見無駄な研究から生み出されるものだからだ」
「ここでもそんな研究をしているんですか……?」
椎名はきっぱりと言った。
「専門部署も置いている。正式には『超科学部門』というのだが、そこでは一世代前の量子コンピューターを使って様々な研究施設に依頼した実験データを分析している。もっとも研究員は変人ばかりだし、開設以来メインの研究では成果が上がっていない。何より彼らは、他の部門のスタッフとの交流はほとんど持たない。だから超科学部門は所内でも『オカルト部』と揶揄されている。福利厚生目的のテニス部やダイビング部と一緒の扱いだよ」
「なのに、独立した部門を?」
「実際のところは、これまで解析不可能だった命題の解決にどうやって量子コンピューターを生かすかというノウハウを確立することが目的化している。量子コンピューターの基本構成やプログラムは既存コンピューターとは根本から異なるのでね。オブジェクト指向では全く長所を活かせないんだ。その点では、いくつか業績を上げたことも事実だ」
「でも、量子コンピューターって随分以前から商業化されていたのでは?」
「D―WAVEとかのことかな? あれは量子コンピューターの走りではあったが、完全な形とはいえない。既存技術のほんの一部に量子力学的な現象を取り入れただけなので、〝なんちゃって量子コンピューター〟とも陰口を叩かれた。しかしそれでも、最適化問題の計算に絞り込めば爆発的な能力を発揮した。従来型コンピューターの演算能力に量子素子の〝直感力〟を――〝曖昧さ〟と呼んでもいいが、それほんの少しブレンドしただけで、演算速度が跳ね上がったんだ。暗号化の技術でも商業的な成功を収めているようだがね」
「ここの量子コンピューターは違うんですか?」
「詳しい話は省くが、量子ゲートを組み合わせて構成した、本格的量子チューリングマシンなのだ。まだ素子数は少なく、小型化も困難だった試作機だが、ここでの研究は次々に新型機の設計や製作に活かされている」
「しかし、脳科学の研究所になぜそこまで……?」
「人間の脳は、実は量子コンピューターのように機能しているという考えが主流をなしつつあるからだ。量子コンピューターの計算スピードは桁外れだが、それはある意味、正確さを捨てたからだともいえる。そもそも量子の振る舞いは確率的にしか語れない。1か0かの世界とは無縁だ。だからこそ逆に〝直感力〟を働かせることができる。当然、精度の高いAIを作る研究にも深く関わっているし、さらに研究を進めれば、〝想像力〟さえ勝ち取るかもしれない」
「人間が量子コンピューターだなんて……」
椎名の言葉が熱を帯びはじめる。
「事実、研究は急ピッチで進んでいる。脳内の神経伝達物質やシナプスの発火が常温下で複雑な『量子もつれ』を起こしている可能性は高い。ミトコンドリア内で同様の現象を観察しようという研究も続いている。脳のような極微細の回路で働く構造が素粒子の原理から外れられると考える方が、そもそも不自然だ。人間に限らず、全ての生物の記憶や本能は量子的活動に支えられていると言い切る研究者もいる。それを人工的に再現できるのなら、もはや人間の脳と同列に語られるべき存在も作れるのではないか? 脳の機能を探ることと、量子コンピューターの仕組みを突き詰めることの接点の一つが、超能力の探求でもあるのだ」
「なるほど、だからこその超能力研究、ですか……」
「これは絶対に口外しないでいただきたいが、オカルト部では量子コンピューターが脳波で制御できないかというアイデアも出ている。プログラムを〝書く〟のではなく、命令を〝考える〟ことで制御しようというのだ。今のところ実現可能なインターフェイスが見つかっていないが、そもそも量子コンピューターは生物の脳と親和性が高いようだ。もしも超能力が実用化できるなら、そのインターフェイスを見つけ出す鍵になるかもしれない。最も可能性が高いのが、テレパシーだ。オカルト部は、そう睨んでいる」
大前が椎名の饒舌を警戒するかのように話に割り込んだ。
「僕も正直言って、オカルト部をバカにしてました。何で大金を投じてまでこんな部署を維持するんだって、不満もありました。でも、今日の体験は超能力としか思えない。今じゃすっかり考えが変わりましたよ。ですから龍ヶ崎さん、あなたが知っていることを話してください。全て教えてください。薬師寺氏は――そして彼の中に潜んでいる朝比奈純礼は、本当に超能力者なのかもしれない。これがPK――サイコキネシスとか念動力と呼ばれるものだとしたら、架空の人格が超能力を持つという二重の驚異に遭遇したことになります。これほど貴重な被験者に遭遇した研究者は、おそらく皆無でしょう。しかもここには、研究者と設備が揃っている。これはまさに、神の技ともいえる奇跡です」
しかし、サラが不安げに付け加える。
「でも、わたし……どうしてもあの実験が気になっているんです……」
敏感に反応したのは椎名だ。
「同時起動のことかね?」
「はい……。表面上は刑部の人格に変わっただけだし、生体データにもこれといった変化は見られませんでしたけど、あの実験が彼らの深層に予想外のインパクトを与えていたんじゃないかって思えてならないんです……」
「わたしも考えていた。あの実験が何かの引き金を引いてしまった可能性はある。人格を強制的に混合することで、微妙な変化が生じたことも感じる。これまで薬師寺氏の人格は、誰も攻撃的な態度は取らなかったからね」
サラは目を伏せ、すぐには応えなかった。その手にはいつの間にか小さな電卓が握られている。使うためではない。心を落ち着けるために握りしめているようだ。
「わたし……少し、怖くて……」
椎名がその仕草に気づく。
「それは電卓かな?」
サラはうなずく。
「関数電卓ですけど……おかしいでしょう? 今時、スマホのアプリにだって入ってるのに。これ、養子に入った時に父さんからプレゼントされたものなんです。お守りみたいになっていて……」
椎名は慰めるように言った。
「不安になるのは分からんでもない。だが、仮にあの実験が薬師寺を攻撃的に変えたとしても、君が気に病む必要はない。全員が納得したんだからね。最終的な責任は、私が負う。むしろ、問題が明らかになったのなら歓迎すべきではないかな?」
サラはしばらく考えてから、意を決したように胸を張った。
「そう言っていただけると、助かります。科学者、なんですものね……」そして龍ヶ崎を見つめる。「わたしもここに来る前の薬師寺氏を比較してみたいんです。研究所に来てから生じた現象があるとすれば、比較しないと研究が進みません」
龍ヶ崎が再び目を伏せる。
「そうは言われても、権限が……」
椎名が詰め寄る。
「私はオカルト部の管理者でもある。PKなどという可能性が生じたのなら、無視するわけにもいかない。これまで何が起きたのか……残らず知りたい。いや、知っておく必要がある」
サラが念を押す。
「同意です。わたしも、アメリカ医学界の代表です。APA――アメリカ精神医学会を通じて日本政府に情報開示を要求しても構わないんですけど」
龍ヶ崎がさらに困惑したようにうめく。
「私の一存で決められるほど簡単な要求ではありませんが……警察としても、守秘義務を再確認した上で情報公開するしかないでしょうね。私もそれが正しいと思います」
椎名が首をひねる。
「だったら、なぜそんなにうなだれている? 君、やはり何か詳細を知っているのか?」
龍ヶ崎はしばらく考え込んでから目を上げた。
「研究にとっての重要性は理解できました。私も医者の端くれですから。でも、ここだけの話にしていただけますか? 私の職権を超えたことですので」
椎名がうなずく。
「無論だ。正式な情報提供があるまでは、私たちの間だけの話とする。それでいいね」
大前とサラがうなずく。
椎名は看護師の滝沢を見た。
「君は席を外してくれるかね?」
「あ、そりゃそうですよね。あたし、ただのナースですものね」そして一瞬、意味ありげな微笑みで大前を見る。「もし異変があったら、コールしてください。休憩室で待機してますから」
そして滝沢は医務室を出ていった。
龍ヶ崎が改めて念を押す。
「すべて、口外無用でお願いします。私も薬師寺氏が犯した殺人の事件の隅々まで知っているわけではないんですが、調書は熟読しました。3人のご遺体すべてが無残に傷つけられていたことはご存知ですか?」
椎名がうなずく。
「それは聞いています。被験者にそういった凶暴性が潜んでいることを知らないと、適切な対処が取れませんから」
「それ以上の事実が、いわゆる〝犯人しか知り得ない秘密〟がいくつかあります。まずは、ご遺体の関節がことごとく外されて、〝折り畳まれて〟いたということ。どんな目的でそんなことをしたのか不明ですが、科捜研の担当者ですら『人間技とは思えない』との感想を書き添えていました」
一同の間に緊迫感が高まる。しかし、言葉が出せない。
龍ヶ崎が続ける。
「さらに異常なのは、3件とも密室で犯行が行われていたことです」
大前がつぶやく。
「なんだよ、それ……」
椎名が真剣な表情で言い切る。
「その先は、私だけが聞こう。かなり重要で、センシティブな内容らしい。君達はこれ以上知らない方が、警察とのトラブルに巻き込まれずに済む」
サラが言った。
「そんな!」
「私は所長だし、オカルト部の責任者でもある。聞かないわけにはいかない。だが君たちは別だ。ややこしい事態になると職を失いかねないからね。私は龍ヶ崎君と警察との交渉にあたる。何としても正式に調書を開示させる。それからなら君たちが見ても問題は起きないだろう。しばらく待って欲しい」
椎名は不満そうだ。
「ですが、危険を正確に認知していなければ薬師寺氏とどうやって対峙するべきかが――」
「長くは待たせない。まだ昼をすぎたばかりだ。今日中に結論を出させる。警察が渋るようなら、多少の政治力も使うことになるかもしれない。サラさん、もしかしたらあなたを通じてアメリカから圧力をかけてもらうことになるかもしれません。よろしいかな?」
サラは即断した。
「もちろん。いつでも言いつけてください。私も絶対にその調書が見たいですから」
椎名はうなずき、龍ヶ崎に言った。
「私のオフィスへ行きましょう」
2人が去ると、病室には大前とサラだけが残った。
ドアが閉まると、大前が吐き捨てるようにつぶやく。
「また手柄を独り占めかよ……」
その言葉に潜んだ激しい憤りにサラが気づく。
「どういうことですか?」
大前には、隠す気はないようだった。
「あの所長、ああやってのし上がってきたんだ。一応は量子物理学の権威ということになってるが、成果はほとんど部下が上げたものだ。量子コンピューターのプログラムだって、初歩的な原理しか理解してないって噂だ。今のことだって、まず自分だけが情報を握ってからどう生かせるか企むつもりだ。見え透いてるんだよ」
「だったら、なんで所長になれたの?」
「〝政治力〟だよ。政府のお偉いさんに知り合いが多い。そもそもここがこれほど巨大な研究所になったのは、政府が予算の引き締めをやめたからだ。そのこと自体は正しい。経済も活性化するし、研究者の生活も安定する。当然、日本の科学技術の水準が格段に向上する。実際に続々と成果も上がってきているし、将来にわたって日本に安定をもたらすだろう。だが所長はその方針につけ込んで、自分の権限をさらに大きくしようと目論んだ」
「どういうこと?」
「オカルト部だよ。あれは本来、研究所設立の当初の構想にはなかったことだ。実は一匹狼の研究者がテレパシーの実在を追求していてね。それを知った所長が『軍事技術の発展に寄与する』って触れ込みで設立計画に首を突っ込んで来たらしい。オカルト部の意義を過大に見せることでプランを拡張して、主導権を奪おうとしたというんだ。しかも実際に防衛予算からも資金を引っ張って来やがった。1世代前だとはいえ、量子コンピュータまでぶんどってきた。数人の研究者も丸抱え、でね。なかなかの力技だ。まあ、スタッフはみんな変わり者で、学会の嫌われ者らしいがね。実はオカルト部の初期リーダーは……ここの初代所長だった」
「初代? 椎名さんはそこまでしても所長になれなかったの?」
「政治力はあっても、実力がね。そもそも専門が畑違いだしな。この研究所に期待する同業者の支持を得られなかったんだ。だが、初代所長は事故で亡くなった」
「事故?」
大前がわずかに口ごもる。
「まあ……いろいろあってね。その結果、椎名所長は念願かなって研究所もオカルト部も管理することになった。今のところ量子コンピューター利用に関する研究では成果も上げているらしいから、政府は全く問題視していない。省庁の裁量範囲も広がって、役所も満足してるってことだろう。金が使えるとなった途端に気が大きくなるのが役人だ。研究費に困らないのは助かるがね。そこにこの被験者だ。本当に超能力が実証されたら、椎名の名前は科学史に刻まれることになる。僕らの頭を踏みつけて、ね」
サラはかすかなため息を漏らした。
「そんなことはどうでも……」
「大事なことだよ。科学者なんだから、研究成果には自分の名を残したい」
「わたしとしては、超能力が実在するかどうかの方が関心がありますけど」
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