第28話 陽だまりにて



「ふぁ……」


 武は頭上に咲き誇る見事な桜を見上げ、武は春の陽気に欠伸あくびを上げる。


 九音の手によって、別たれた属性は屋敷に戻り、『春の間』はめでたく息を吹き返した。


 同時に要石を中心とした季節の異常も元通りになり、町はめでたく新たに起こった騒動のうわさに振り回されている。


 武は桜の幹に体を預け、せせらぎの音を聴き、草と土の香りを楽しむ。……目の前の惨状さんじょうから目をらして。


 赤い敷物の上にはからになった重箱が積み重ねられ、六花と愛音がコップを片手にうつ伏せに倒れ込み、クリスが何も無い空中にわった目で何事か文句を言っている。


「甘酒を神籬ひもろぎの水で割ったのが失敗だったかな?」

(それ以外に原因は無いと思いますが)


 頭の中に冥月の冷ややかな声が響く。そして武は今までの経緯いきさつを思い出した。



 日曜日。祝勝会という名目で『春の間』にやってきた武達は、六花、愛音、クリスら三人が合作した料理に舌鼓したつづみを打ち、最後に神籬ひもろぎの水で割った武特製の甘酒で揃って乾杯し――即座に四人ともひっくり返った。


 まず最初に目を覚ましたのが武だった。妙にふわふわした地面の感触に真っ直ぐ歩くことが出来ず、左右に揺れる景色の中で一際大きな桜になんとか近づき、足をもつらせながらその幹を抱きしめ、背中を預けて座り込んだ。


 それからようやく敷物の上に三人が倒れているのが目に入り、そのさまがひどく滑稽こっけいに見えた武は大声を上げて笑い出す。それからややもしないうちに強烈な眠気に襲われ、武は体から力を抜いた。


 やがて武が再び目を覚ましたとき、頭の中が今までに無いほどわたっていた。そして武の目は敷物の上で倒れ伏す六花と愛音、そして空中に向かって真っ赤な顔で何かくし立てているクリスの姿が映る。


 そこでようやく甘酒の存在が頭の中をよぎり――武は世界に満ちた春の空気を思い切り吸い込んで、現実から逃避したのだ。



「――武さん!」

「はい!」


 今までの経緯を武が回想している内に、いつの間にか敷物の上にいたはずのクリスが武の目の前に来ていた。突如怒鳴りつけられた武は大声で返事をする。


 一体何をされるのか――身構える武の前に立つクリスがにへら、と笑う。


「たーけーるーさんっ」


 次いでクリスは武の太腿の上に座り、両手を武の首に絡めてきた。そしてクリスの体から力を抜け、慌てて武はその体を抱き止める。


「……クリス?」


 声をかけるもクリスは返事をせず――やがて静かな寝息を立て始めた。安心しきった、安らかな顔で。


 二週間。僅か二週間程の付き合いだというのに、クリスの存在は今や武の中で六花や愛音と比較できるほどに大きくなっていた。


 ふとクリスの顔を覗いてみると、桜色の小さな唇をつい見つめてしまう。


 六花が、愛音が、クリスが幾度も求めてきたキス。されているときには驚きと混乱で頭が真っ白になっていたが、こうして無防備な寝顔を見ていると、武にもキスをしたいという気持ちが分かるような気がした。


 胸の奥が熱くて、溢れんばかりにつのいとおしさで頭がいっぱいになってしまう。それが暴れ回ってようやく見つけられた出口こそがキスなのだろう。いや、武を取られたくないが故のマーキングみたいなものが大半であったのだろうが。


 なら、人を好きになるという事はどういう事なのだろうか。相手を自分だけのものにしたい気持ち、相手の事を知りたいという気持ち、相手に触れたいという気持ち、相手の笑顔を望む気持ち。綺麗な感情ものみにく感情もの、近しい感情もの、相反する感情もの。それらがない交ぜになって熱を持った感情ものが、心の奥底で渦巻うずまいている。


 これが恋という物だとしたら、武は誰にその気持ちを向けているのか。腕の中で無垢な寝顔を見せているクリスに対してか、と自問する。その答えは――否。


 今クリスに抱いている気持ちは、クリスだけに向いているわけではない。六花にも、愛音にも、この愛おしさと欲望が混じり合ったような感情を向けたことがある。


 そもそも、恋という物はそんなに綺麗な物なのだろうかと武は疑念を抱く。恋をしたとして、その相手にどうしたいと思うのか。抱きしめる、キスをする。そして、更にその先は――?


 そして、答えらしい物を武は探り当てる。いとおしいという相手に与えようという心。欲求という相手に求める心。この両面が複雑怪奇にからまった気持ちが恋ではなかろうか、と。


 無論、今の武にそれが答えだと言い切ってしまうことは出来ない。もしかしたら、武は未だ恋をしていないのかもしれない。なら、どうなった時に好きだという気持ちを確かめられるのだろうか。


 ふと上を見上げる。散ることなく咲き誇る桜と、澄み切った青い空。春の世界。――陽だまりの、その


 恋という物はまだ武には分からない。だが、一つだけ目標が出来た。


(――陽だまりに、なりたい)


 クリスに、六花に、愛音に。武がいとしいと思う人にとって、この暖かで優しく大きな陽だまりのような存在になりたい。それが、今の武がいだく理想だ。


 決まってしまえば後は走り出すだけだ。これから過ごしていく時はながい。その中で起きる事はきっと綺麗なものばかりではない。それでも最後には皆で笑い合えるように、武は陽だまりを目指す。


 もぞもぞとクリスが身をよじる。どうやら目を覚ますようだ。

 夢に至るための第一歩。まずはこの挨拶あいさつから始めよう。


 いとしさを込めて、おはよう、と告げる。


 おはようございます、と彼女は柔らかく笑った。

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陽だまりの吸血鬼 mame @triptych

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