第23話 急転
再び壁時計の鐘が鳴り響いた頃、武はようやくノートを写し終えた。ぐっと背を反(そ)らしてから立ち上がり、音を立てないよう静かに布団の傍に歩み寄る。
布団に横たわった愛音の体からは強張りが抜けて背が丸くなり、その顔は幾分か安(やす)らかなものになっていた。『ジュース』を口にした後自力でここまで歩いてきた事と併(あわ)せて考えると、今回の被害は比較的軽度だったようだ。
そっと愛音の頭を撫でる。さらさらとした黒髪を手で梳(す)いている内に、愛音が小さく呻(うめ)き声を上げて目を薄(うっす)らと開けた。
「…………たける?」
「うん。具合はどう?」
「大丈夫……」
「そっか。とりあえず起きて着物を直そう。立てる?」
「うん」
愛音は武の手を握って上半身を起こす。着物がはだけて見方によってはひどく危なっかしい格好だった。覗(のぞ)いたうなじが妙に艶(なまめ)かしく、武の心臓が強い鼓動を打つ。
愛音は立ち上がると武に背を向け、帯(おび)を一旦解(ほど)いて手早く着崩れを直し、帯を締(し)め直す。
そして武のほうに向き直ると、すとん、と布団の上に座った。愛音は立ったままの武の手を引っ張り、もう片方の手で布団を叩く。隣に座れ、ということだろう。武が布団の上に座ると、愛音は武の肩にしなだれかかってきた。
「うにー」
「はいはい。どうしたの?」
じゃれついてくる愛音に武は苦笑してそっとその頭を撫でる。撫でられた愛音は猫のように目を細めた。
愛音がここまで武に甘えてくるのは実に数年ぶりだ。背の高さにコンプレックスを持っている愛音は、可愛いという言葉が自分には当てはまらないと思い込んでいる。また甘えるという行為も可愛い者の特権だと思っているらしく、背が高い事を気にし始めた頃から愛音は甘える姿を見せなくなった。
しかし今、とろんとした目つきをしている愛音は、半(なか)ば正体を失って武の肩に頭をすり寄せている。酔っているのか寝ぼけているのか、はたまた幼児退行でも起こしたか。食(しょく)した物が物だけにどれもありえそうで怖い。
「うにゅ……」
眠(ねむ)た気(げ)に目を擦(こす)り、頭を武の太腿(ふともも)の上に移して布団に横になる愛音。口元に小さく笑みを浮かべて目を閉じた愛音の顔は、六花に引けを取らないくらい可愛らしかった。胸ポケットに入れていた携帯を取り出し、カメラ機能を選択。軽快な効果音と共に愛音の顔が携帯のメモリーに保存される。
そこでふと武はクリス達との会話を思い出した。今の愛音なら何でも素直に話してくれそうだ。
「ねえ、愛音。将来の夢ってある?」
「夢? えっと…………」
何を思いついたのか、愛音はふにゃっと柔らかく笑った。そして、聴き取りづらい小さな声でぽつりと呟く。
「……お嫁(よめ)さん」
「お嫁さんになりたいの?」
思いもよらなかった可愛らしい夢を聞いて、武は頬(ほほ)を緩(ゆる)めて愛音の頭を撫でようとする。その時――
「お嫁さんー、お嫁さんー。武はあたしのお嫁さんー」
思わず武は噴(ふき)出(だ)しかけた。モーニングコートを着た愛音とウェディングドレスを着せられた自分が並んで立っている姿を想像する。武はウィッグをつければどうにか、愛音はそのままで充分様(さま)になりそうだ。
硬直した武の耳に、さらに愛音が小さく歌を口ずさんでいるのが聞こえてくる。
「あったまーにねーこみーみくーびわにてーじょう、しーつけはしっかりいったしーましょー」
武の背筋を冷や汗が伝(つた)った。猫耳、首輪、手錠、躾。目を瞑(つむ)った幸せそうな愛音の顔には到底似つかわしくない単語が、のんびりとしたテンポで口ずさまれる。
「くーさりーにしっぽ、ちゅーしゃにろーや、やーさしくかってあげましょうー」
鎖、尻尾、注射、牢屋、飼う。歌は段々犯罪の匂いが濃くなっていた。武は黙って愛音の口に人差し指を当て、これ以上歌うのを止(と)める。
愛音は不服そうに武の腹に額をこすりつけてくるが、やがてそのまま静かに寝息を立て始めた。
武は引きつった笑いを浮かべて愛音の寝顔を見る。先程の危険な歌からは想像もできないほど穏やかで無防備な表情だ。
長い息を吐(つ)き、体から力を抜く。現実から逃避して虚空を眺めていると、武の胸元から勇ましい音楽が響きだした。
「樹か……」
着信メロディでそう判断した武は胸ポケットから携帯電話を取り出し、通話ボタンを押して耳元に当て――
「…………え!?」
携帯電話の向こう側から聞こえてきた言葉に驚き立ち上がる。武の太腿から頭が落ち、愛音がわきゅっ、と小さな悲鳴を上げた。だが今はそんなことに構っている余裕は無い。樹の声が再び耳に突き刺さる。
『もう一度言うぞ。北がやられた。今鬼がお前の屋敷に向かっている。相手の狙いは屋敷の結界だ』
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