第20話 その夜――



 武が目を覚ましたのは、いつもの病院だった。


 消灯時間の様で部屋葉の明かりは落とされているが、病院特有のかすかな消毒液の匂いが武のいる場所を教えてくれる。


 とりあえず体を起こそうとして、胸の痛みが消えている事に気が付いた。寝巻とシャツの襟元を引っ張って胸元を見るが異常は無い。肋骨を押さえてみても、痛みは全く感じなかった。


「……冥月?」

(はい)


 状況を確認しようと、冥月の名を呼ぶ。すぐに頭の中に直接声が響いた。だが、その声に武は違和感を覚える。冥月の声がいつもより幾分近くから聞いたように感じたのだ。


(主様。あの戦闘、どこまで覚えていますか?)

「ん……愛音に抱えられて山を下りていくところ、かな」


 ばつの悪そうな顔をして武は宙に視線をさまよわせる。女の血を見た後、血をすする事に狂走した自分を憶えている。どこかもやがかかっている記憶だが、どうしようもない程に肥大化したかわきに突き動かされた感覚だけは、はっきりと憶えていた。


(教えてください。あの時何があったのですか?)

「……吸血衝動が暴走したんだ。あの人の血には遠目から見ても分かるぐらい濃い生気が混じってた。後はただ血が欲しくて、ただそれだけしか考えられなかったんだ」

(そう、ですか……)


 冥月が沈黙する。何か思案しているようだ。


(分かりました。わたくしが吸血衝動をどうにかします)


 そして冥月は、自信たっぷりに断言した。


「えっと、どうやって?」

(それを説明する前に、まずは目が覚めた事を知らせましょう)

「……うん。分かった」


 枕元のナースコールを手に取りボタンを押し、インターホンで目を覚ましたことを伝える。


 やってきたのは異族の医師と看護師だった。武が吸血鬼である事を命辺りから聞いていたのだろう。簡単な診察を終えると武が病院に担ぎ込まれてからの経緯いきさつを教えてくれた。


 病院に武が運び込まれたのが十二時過ぎ。主な外傷は肋骨の骨折とはい挫傷ざしょう。ICUで応急処置をほどこし日没を待ったところ、吸血鬼の復元能力が働き外傷は全て完治した。そのため武を救急の観察室に移し、意識を取り戻すのを待っていたという。


 現在時刻は午前三時二十六分。とりあえず再度CTを撮り、出血が無いことを確かめてから観察室に戻される。


 部屋に戻ってすぐ、武は枕元の壁に立てかけられた、紫の細長い布の袋に覆われた何かを見つけた。縛ってあるひもほどき中身を確かめる。そして袋から取り出されたものを見て武は眩暈めまいに襲われた。


 それは、一本の打刀うちがたなだった。誰よりもそのつるぎの事を知っている武だからこそ言える。その剣――冥月は、完膚かんぷなきまでに死んでいた。


 武はベッドに座り込みながら冥月を見る。生気が、気配が、息吹が絶えた刀は、何も宿さない空っぽの器でしかなかった。


「……冥月?」

(はい、ここに)


 だが、奇妙なのはこうして返事をする冥月の存在だ。部屋のどこからも冥月の気配がしない。しかしはっきりと頭の中に響く声は確かに冥月のものだった。


(主様。わたくしをお探しですか?)

「うん。刀の中にはいないみたいだけど……」

(そうですね。では答えを明かす前に一つ質問があります。わたくしが実体化するのと獣の形をとった式神では何が違うと思いますか?)

「えっと……実体化した冥月は人間に限りなく近いよね。式神は獣の形の表面の中に霊力が詰まった風船みたいな作りだけど、冥月は傷をつければ血が出るし、中身も人間と同じみたいだし」


 そう。ただ大きな霊力を持てば人間のような体が造れるわけではない。人間や獣の姿をとる式神も、表面を似せただけのつつけば弾ける風船だ。対して冥月は筋肉、骨格、内臓、神経、血管などの細部におけるまで限りなく人間に近い姿をとっている。


(わたくしと刀は表裏の関係。実体化は表である刀から裏であるわたくしに存在をめくり返したようなものです)

「えっと……つまり?」

(あれこそがわたくしの本体です。刀は私のしろにしてうつわ。刀の中に吹き込まれたる奇魂くしみたま、それがわたくしです)

「じゃあ今は刀から抜け出て別の依り代に入っているの?」

(ええ。その通りです)


 辺りを見回す。だがそれらしい物はやはり何も無い。首をひねる武に冥月の小さく含み笑いをらす。


「降参。冥月は今どこにいるの?」

(分かりませんか? わたくしは主様の体内なかにいます)

「僕の、中?」


 思わず体をあちこちぺたぺた触ってみる。寝巻をはだけて腹や背中の肌も見てみたが、特におかしな所は何一つ無かった。


(『かみろし』です。わたくしは元々神の一部を切り離して生み出されました。その本質は器たる刀に合わせられていますが、神霊としての側面も残されています。わたくしを身に降ろせば、内側より様々な支援を行う事が可能になります。今回の場合は、重傷を負った主様の生命維持のため神降ろしをおこないました)

「そっか。ありがとう」

(はい、どう致しまして。……ところで主様。これより一月ひとつきの間、この状態をたもとうと思うのですが)

「――え?」


 突然の冥月の申し出に戸惑う。武の怪我は完治している。ならば刀に戻った方が冥月も何かと自由ははず


「何をするの?」

(先に言った通り、わたくしが内側から吸血衝動を抑えます。此度こたびのような事態を再び繰り返さぬように)

「む、無茶だよ! そんな事をして冥月は大丈夫なの!?」


 武を襲った吸血衝動。他の感覚を塗り潰しながら肥大化する衝動は簡単に抑えきれる物ではない。それを武は誰よりも明確に理解していた。だが――


(わたくしの心配は無用です。正直、主様の霊力を制御する事に比べたら遥かに楽な仕事ですから)

「う……」


 武の心配は呆気なく一蹴される。しかし、全くってその通りだ。武とてどちらか選べと言われたならば迷うことなく吸血衝動の方を選ぶだろう。冥月と息を合わせずに『せん』を使えたのも、今となっては神業のようにしか思えない。


「分かった。よろしくね、冥月」

(はい、お任せください)


 抜け殻の刀を布袋に仕舞い直し、枕元に立てかける。

 あかりを消して眠ろうとして、武はふとある事を思いついた。

冥月にその考えを打ち明ける。すると――


(可能です。確かにその方が効率的ですね)

「後は、あの人にどこまで通用するかだね」


 思い出すのは全力で正面からぶつかり、僅かにしか傷つけられなかった女の姿。生半可な力では返り討ちに遭うのは必定だ。


(少なくとも時間稼ぎ程度にはなると思います。ただ、その――)

「えっと、何か問題ある?」

(わたくしに流し込む時には、どうか優しくして下さいね)

「……善処します」


 こればかりは猛省する。武の霊力は神霊である冥月と比べてさえけたが違う。衝動に呑まれていたとはいえ、無理矢理霊力を流し込むのは冥月に大きな負担を与えてしまった筈だ。事前に冥月に負担をかけないよう流す霊力を制限する訓練が必要だろう。


「じゃあ、明日にでも屋上で試してみようか」

(はい)

「お休み、冥月」

(はい。お休みなさいませ、主様)


 ベッドに横たわり、やがて小さな寝息を立て始める武。体に遅れて脳が自分の寝息を子守こもりうた代わりに暗闇へと沈んでいく。


 眠りに就く刹那せつな、自分の中にある暖かな存在――冥月と触れ合えたような気がした。

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