第17話 安寧の夜

 武はお湯で体についた泡を流して湯船にかった。渇きによる疲労が湯に溶け込んでいくように体から抜けていく。長い、長い息を吐いて武は湯船の縁に頭を預けた。


 当面の課題は三つ。盗まれた『秋』の奪還、吸血衝動の抑制、そしてクリス達に対する自分の気持ちの確認。どれも一筋縄ではいかない問題だ。


 まず自分の気持ちに対しては最後に回す。一番身近な問題で、同時に一番難度が高い課題だ。ただし緊急性が薄いため、後回しにしても困らない。


 次に二番目は『秋』の奪還。これは向こうの意図が判らないまま後手に回るしかない現状から、命からの命令がくだるまでは放置しておくしかない。


 そして最優先事項に吸血衝動の抑制を持ってくる。これは定期的にクリスに血を吸ってもらう事が必要だが、度を越して生気を混濁こんだくすると酔って半日近く眠りっぱなしになるそうだ。おそらくは、それが今の冥月や愛音の状態なのだろう。何にせよ、吸血衝動の暴走が終わるまでの間はクリスに頼り続ける他に無い。


 風呂から上がり、寝巻を替えて居間に戻る。居間では二人が畳の上に敷いた座布団の上に大人しく座っていた。ただし、お互いに一言たりとも口を開いていない。不思議に思い近づくと、ちゃぶ台の上には武の携帯電話が置かれていた。


「僕の携帯がどうかした?」

「いや、さっき樹から電話がかかってきた。オレが代わりに出たんだが――かなり面白い事になりそうだ」

「面白い事……?」

「命さんの依頼で占筮せんぜいをしたそうだ。その結果を伝えてきた」


 占筮せんぜい。それは要するにえきせん――筮竹ぜいちくという五十本の竹ひごを使った占いの事だ。筒に立てられた捧をジャラジャラと混ぜている占い師の姿を思い浮かべれば分かりやすいだろう。


「北の要石に相手が来る場合、明日の夜五時から七時の間が最も可能性が高いそうだ。だが――」


 一旦六花が言葉を溜める。そしてその顔に不敵な笑みを浮かべた。


「あからさま過ぎる。『秋』の次は『冬』、そして冬の方角は北――なんて事は占うまでもなく想像がつく。だから命さんは真っ先に北に警備を付けたんだろう。だがわざわざ警戒中の北を攻めたなら、どれ程タイミングが良くても手痛い反撃を受けるのは確実だ。だから、樹にはもう一度占いを頼んでおいた」

「……何を占うの?」

「東の要石、『春』を奪いに来る時を、だ」


 そこでちゃぶ台の上の携帯が鳴り始めた。武はすぐさまそれを取り上げて開く。表示された名前は瀬川樹。武はすぐさま通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。


「もしもし、樹?」

『武。六花から事情は聞いたか?』

「うん。で、どうだった?」

『明日の朝九時から十一時の間だ。狙いが東ならそこが一番可能性が高い』


 明日の朝。そこで相手はこの屋敷から『春』を奪いに現れる……かもしれない。


「もう命さんにその事は話した?」

『いや、これからだ。そもそもこれは相手が全ての季節を奪う積もりであると仮定した上での話だからな。それにもし読みが当たっていても、そこで相手を倒す必要は無い。重要なのは情報を持ち帰ることだ』

「うん、分かってる」


 情報は力だ。敵の正体がどのような存在か、それだけで対策のり方が大きく変わってくる。動機を知ることが出来れば、戦うことなく問題を解決できる可能性も出てくるかもしれない。


『いつでも逃げ出せるよう余力は残しておけよ』

「……うん」


 危険を冒すのは気が進まない。だが、もし相手が全ての季節を――あの『春』の陽だまりを奪おうとしているなら、傍観しているわけにもいかない。


 明日の算段を確認し、樹との通話を切る。後は命から許可を取れば準備は整う。


 クリスと六花にも電話の内容を伝え、早い明日の朝に備えて眠るため自室へと戻る。一番近いクリスと武の部屋へ三人で向かう。お休みなさい、と挨拶を交わし、クリスが部屋に戻った後、六花に手を引かれて武の部屋に入る。


 畳敷きの和室。中央にはちゃぶ台が、部屋の片隅には木製のデスクが、そして部屋に入って右側に敷かれた布団には静かに寝息を立てる冥月が横たわっていた。


「って、どうしてリカ姉が一緒に入ってくるの?」

「ああ。オレは極度の武依存症だから、一週間に一度武と寝ないと欠乏症を起こしてしまうんだ」

「本音は?」

「愛音と冥月はお前に血を吸われて、クリスはお前の血を吸ってる。オレだけ何も無いのは平等じゃないだろ?」

「リカ姉、前に世界は不平等という平等に満ちている、とか言ってなかった?」

「それはそれ、これはこれ、だ」


 拗ねた表情から無邪気な笑みへと表情がころころ変わる六花。その様子がひどく可愛らしくて、気がつけば武は六花の頭を優しく撫で始めていた。六花も最初は不機嫌そうにしていたが、すぐに体から力を抜いて武の胸に顔をこすり付けてくる。恥ずかしがって怒ったりしないのは、他人の視線が無いからだろう。


 やがて満足したのか六花は武からそっと身を離し、そして武の手を引いて布団の傍に寄る。武もこれ以上断る気概きがいは無い。


 そっと布団の端に冥月の体をずらし、布団の真ん中に横たわった武の隣に六花が入ってくる。そして六花は武の腕を枕にすると、全身を密着させてきた。


 薄布をへだてた胸の膨らみや足に絡められている太腿の柔かい感触がダイレクトに脳に伝わってくる。思春期の男子に、幾ら普段から慣れているとはいえ六花の『女』の部分を意識するなという方が無茶な話だ。この浅ましい思いが伝わってしまわないように、極力意識を別の方向に持って行かなければならない。


「リカ姉」

「ん?」

「明日、本当に来るのかな……」

「さあな。樹の占いも完全じゃない。愛音のような予知とは訳が違う。だが、相手が全ての季節を奪うつもりなら、明日一日張っていれば成果はあるだろう」


 六花の言葉には確信めいた含みがあった。相手の事を見透かしたかのように。


「どうして明日だって言い切れるの?」

「まだ今は異変が起きたばかりだ。満足な警備体制をすぐに構築できる訳じゃない。仕掛けてくるなら今の内に次を狙うのが定石じょうせきだ。逆に警備を整え終わったら、こちらの焦りと油断が現れるよう数日間を空けた方が効果的だろう。命さんが北に守りを集中させたのも、東と南に相手を誘導しているからだと思う」

「それなら今晩の内に仕掛けてくるんじゃないの? どうして明日に限定するのさ」

「異族の多くは夜行性だからな、吸血鬼のように昼間満足に活動できないモノも多い。当然昼間に襲えば数の差は減る。そもそも今回の事件が町にどんな影響を起こすのかも不明なんだ。今の段階だとまだ緊急きんきゅう招集しょうしゅうをかけるほどの事態じゃない。ま、もし今晩どの要石を襲ったとしても、命さんの配置した伏兵にやられてオレ達が出張る必要がなくなるだけだろうが、な」

「……そっか」


 安堵の息をつく。六花の言葉を信じるなら、今のうちに休んで英気を養っておくのが一番だ。


「武……」

「リカ姉?」


 六花の声のトーンが落ち、抱きついてくる力が一層強くなった。天井を見ていた顔を隣に向ける。そこにはいつになく真剣な六花の顔があった。


「話が、あるんだ」

「……うん」


 強い意志をたたえた瞳。これまでに聞いたことが無いほど緊張した声。その身に纏う空気に、これから話す事柄がどれほど六花にとって重いのかをうかがわせる。だからこそ、武は真っ直ぐに六花の瞳を見据え、話を聞く姿勢を作った。


「オレは愛音とお前と三人で死ぬまでずっと一緒にいる。ずっとそう思っていた。だから、それを壊して武を連れ去ってしまう奴が現れる事にずっとおびえていた。だけど、クリスが現れてオレは気付いたんだ」

「……何に?」

「オレがお前を好きだっていう気持ちの大きさに、だ。家族としても、女としても、オレはお前が好きだ。例え時間に引き裂かれても、お前がクリスと一緒になってオレ達から離れてしまう事になっても、この気持ちは変わらない。ただ――」


 そこで六花は一度目を伏せた。そして幾分朱に頬を染めて、意を決したように武の目を下から覗き込む。


「一つ。一つだけ、絶対に譲れない事がある」

「――教えて、くれる?」


 武の頬にその白い手が添えられた。六花のその幼く愛らしい顔に、無垢で、無邪気で、同時にひどく妖艶ようえんな微笑みが浮かぶ。


「オレは、お前の子供が欲しい。一緒に生きるにしても、お前と生きる道が手に入らないとしても、それだけは譲れない。それがオレの絶対の願いだ」


 六花の微笑みに魅入みいられていた頭にその言葉は静かに染み渡っていく。そして脳がその言葉の意味を理解した時、武は思考が真っ白になるほどのショックを受けた。六花からどれ程強い想いが自分に向けられていたのか、その重さの一端を思い知る。


「リカ姉……」


 瞳が潤み、自分の言葉に照れて顔を赤くして視線を有らぬ方向にずらす六花。その恥ずかしがっている様子がどうしようもなくいとしくて、気付けば武はその額にそっと口付けしていた。


「……たける?」


 狐につままれたような表情で恐る恐る声をかけてくる六花。その頬に空いているもう片方の手を添える。


「ごめん、リカ姉。今簡単には答えられない」

「……まあ、いきなり返事を求められても困るか。すまん、急ぎ過ぎだった」

「うん。……大人になって、責任を取れるようになったら必ず答えるよ。だから、それまで待っていて欲しい」

「……ああ、分かった。約束だ」


 六花の差し出してきた小指に自分の小指を絡ませる。それは、小さな誓いの儀式。交わされた誓約は重く、そして絶対の繋がりとして二人を結びつける。


 やがて六花が小さな寝息を立て始め、それを眺めていた武の意識もいつしか闇の底に深く沈んでいった。



 数刻後。ブランケットをめくり、上半身を起こした女が隣に眠る者達の顔をそっと覗き込む。そこには少年と少女が穏やかな顔で手を繋いだまま横たわっていた。二人の安らかな寝顔を見て女――冥月は淡い笑みを浮かべる。


「主様。わたくしも、そして他の者達もまた、あなたと共に在る事が何よりの安寧あんねいなのです。ですから、どのような形でも構いません。我らを共に、いのちつるまで共に歩ませてください」


 冥月はそっと武の体に腕を回し、その身を武の背中に密着させて横になる。そして優しく微笑みながら冥月は再確認した。自分の、そしてみなの安寧がここに在る事を。


 その心地よさの余り、三人とも寝坊してしまったのはまた別の話である。

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