第16話 暴走
天には弧を描く銀月。屋敷の瓦屋根の上で、武は空を見上げて物思いに
気のせいにしたい。忘れてしまいたい。そう願ってもこの事実からは目を
逃げ出す訳にはいかない。ただ武にできるのは、これから先をどうするのかを考える事だけだ。
冥月は今ここにはいない。武の悩みを解決しようと献身した結果、彼女は意識を失い武の部屋で眠ってしまっている。
一体これは幾度目の溜息だっただろうか。そんな事をふと思った瞬間、不意に武の後ろに気配が生まれた。
「武、どうしたの?」
「……月を眺めていたんだ」
振り返った先には白い
「それじゃあ聞き直すよ。武は何を悩んでいるの?」
「悩んでなんか――」
「嘘ばっかり。武が『春の間』じゃなくて屋根で考え事をするのは、悩みが有る時だけじゃない」
長い間共に居ただけあって、武の行動パターンはすっかり把握されているようだった。
何を言い訳しても無駄だと悟り、武は大人しく口を開く。
「昼にさ、静山で綺麗なものを見たんだ」
「綺麗なもの?」
「命さんの舞。もみじやイチョウの葉が降り注ぐ中で舞う命さんは、すごく神秘的で綺麗だった。たぶんあの時、僕の中の
武の隣に腰掛けた愛音が無言で続きを
「自覚したのは命さんの笑顔に
「……武、もしかして命さんのことが好きなの?」
愛音の問いに首を横に振る。武にとって命とは家族でありとても親しい女性で、今回初めて一人の異性として見てしまった存在だ。以前、武は吸血衝動を異性を求める感情と深い関わりがあるのではないかと考えた事がある。そしてこの一日を通して武はその考えが正しいと確信した。
「きっとさ、恋愛の好き嫌いの相手じゃなくて、相手にどきどきした時に血を飲みたい衝動に駆られるんだと思う。命さんは確かに綺麗な女の人だけど、僕にとって命さんは家族の一員で、そういう好きとは違うんだ」
「あの、じゃあ、さ……あたしは、どう?」
おずおずと恥ずかしがりながら愛音が尋ねてくる。恥らう愛音は、普段の活発な様子とのギャップもあってひどく可愛らしく、それを見た武の心臓がさらに鼓動を強める。何か言葉をかけようとして、武は必死に言葉を紡ぐ。
「好き、だよ」
言い終わって武はようやく自分の答えを認識する。火が出たかと思うぐらい顔と耳が熱くなった。頭の中が熱で
「じゃ、じゃなくて、いや、好きっていうのは本当だけど、今のは本音を
愛音の顔に朱が差す。薄暗い屋根の上でも、武の目にはその変化がはっきりと見えた。黙り込んだ愛音に武は更に
「あ、愛音はさ、昔から僕にとっては可愛い女の子だよ。今は背も高くなったし綺麗になったけど、照れ屋で意地っ張りな部分もあって、だけど芯の部分は女の子らしくて、やっぱり今も凄く可愛い子で、大切な存在なんだ」
「はぅ……」
そして愛音の顔が完全に真っ赤に染まった。しかし武が愛音の照れた顔に
「ごめん……!」
「た、武!?」
愛音の
「ん……ぅ、っはぁ、はぅ……」
くすぐったがるような声を上げる愛音。だが今の武に感じられるのは愛音との一体感と、今までの飢えから開放された快感だけだ。その上武は血を飲むことを
やがて武が正気に戻った時、その腕の中にはぐったりとして意識を失った愛音の姿があった。愛音の肩には幾筋もの線が出来ている。その
これで武はこの日二度目の暴走をしてしまった。一人目は冥月。二人目は愛音。ならば三人目は――
「おーおー。お盛んだな、武」
「リカ姉……」
いつの間にか武の背後の屋根の上に白い少女――六花が立っていた。その白いネグリジェの大きく開いた胸元とあまりにも短い
「おいおい、目が紫に光ってるぞ。二人じゃまだ満足出来ないのか?」
「僕――は、違う。欲しくなんて、ない。違う。僕は、ただ――」
自分を
異性を意識する瞬間、吸血衝動は発生する。そして
「武、落ち着け。愛音はオレが部屋に連れて行くから、お前は居間で待ってろ」
六花の言葉に頷いて答える。そして愛音を屋根の上に寝かせ、六花の血を求める衝動を振り切って屋根から飛び下りた。
夜を迎えた吸血鬼の体には、着地の衝撃も殆ど無い様に小さく感じられる。それがこの衝動の暴走と繋がっている様に思えて、武は自分が自分でなくなってしまう様な恐怖に
そして待つこと約十分、ようやく六花が居間に姿を現した。後ろに猫プリントのパジャマを着たクリスを従えて。
「今エレンさんに連絡を取ってきた。人間から吸血鬼になった後、
「父が吸血鬼になった時も、満たされない渇きに苦しんでいたそうです」
「何か、抑える方法は……?」
「大丈夫です。私がその
「はいはい」
六花が二人に背を向け、クリスは武に近寄り体を抱きしてきた。その髪から甘くいい香りが
牙が皮膚を突き破り、
やがてクリスが武の肩から顔を離した後、胸の中で激しく
「武さん、大丈夫ですか?」
「……あ、うん。ありがとう、クリス」
「ん、終わったか」
振り返った六花と恐る恐る聞いてくるクリスに精一杯の笑顔を見せる。
「父が吸血衝動の暴走を起こした時も、こうして逆に血を吸われる事によって
「という訳だ。これからは適当に血を抜いてもらえ」
「あ、うん……えっと、よろしくお願いします」
「はい。了承です」
クリスに笑顔で快諾された。この応急措置がどこまで機能するか分からないが、文字通りの血を吸う鬼に成るよりは何倍もましだ。
「じゃあ、汗をかいたしもう一度お風呂に入ってくるね」
「ならオレも一緒に入ろうか」
「り、六花さんずるいです! 武さん、私も一緒に入れてください!」
「す、ストップストップ! 僕は混浴なんてしないからね。クリスも流されないで。もしリカ姉がお風呂に入ろうとした時には
「は、はい。……うぅ、残念です」
暴走を起こしかけたクリスを
「武。オレのようなチビな女じゃ嫌か?」
むくれた六花は口を
「別に、そんな事で嫌だなんて思わないよ。ただ、その、恥ずかしいというか……とにかく、リカ姉はすごく魅力的だよ。もちろん、クリスだって。だけど、ううん、だからこそ、かな。とにかく一緒にお風呂に入るのはダメ。僕の方がドキドキしすぎて、どうなるか分からないから」
心の内を率直に述べる。そっと六花の様子を
「なんだか武さんがひどく可愛いらしく見えます」
「……言われたこっちも恥ずかしいがな」
武の言葉に文句を垂れる六花だが、それが照れた事を隠す強がりなのは明らかだった。クリスが武と六花の顔を見比べて苦笑する。
武はクリスに六花の監視をもう一度頼み、浴室へと向かった。
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