幕間

 白い霧に包まれた巨大な湖、そのふちに女が一糸纏まとわぬ姿で水の中に体をひたしていた。女が両手ですくった水の表面には、『春の間』から宙に浮いたふすまの向こうに入って行く四人の子供達の姿が映っている。

 だが女の前髪から落ちた一滴の雫が水面に波紋を生み、映っていた景色はらいで消えてしまった。


「……命?」

「はい。ここに」


 声が返って来た方向に女が向くと、そこには頭に大きな獣の耳を生やす巫女服の女性――命がいた。女はそこで苦笑まじりの小さな笑みを浮かべる。


「あら。私の勘もあながち捨てた物じゃないわね」

「む? あねさまなら勘などに頼らずとも、この神籬ひもろぎの間に踏み込んだ時点で気付くと思っておったのじゃが」

「いつもそんな風に気を張っていたら休めないじゃない。そもそもここにいる私が身の危険に気を付ける必要なんて無いでしょう?」


 そう言って女――優江は炎を思わせるつややかな赤い髪を手櫛てぐしいた。赤い瞳は星の輝きをたたえ、その顔には生気が満ち、あでやかな笑みを浮かべている。居間で武達に見せた弱りきった姿とは似ても似つかない回復ぶりだ。


「それで、例の話は本当なの?」

「うむ。陰陽院おんみょういんもぐっている『草』の話では、既に相当の手練てだれが町に入り込んでおるそうじゃ。結界に穴があるのは間違いないと見るべきじゃの」


 命の報告を聞いて眉間にしわを寄せ、優江は小さく嘆息する。


「二十年よくったというべきか、それとも陰陽院あいてが上手だったのか……どちらでしょうね」

「二十年間結界の穴を探り続けた連中の執念の成果じゃろう。あねさまに落ち度が有った訳ではない。気に病まれるな」


 ぼやく優江に苦笑して命がフォローした。神域を拡大したあの時から十年が経つ。町の敵、異族の敵を阻んできた結界は、十年もの歳月をかけてその網を潜り抜けようとした者達の妄執に遂にそのほころびを見つけられたのだ。


「それで、侵入した連中は何をしているの?」

「分からん。入り込んだという情報だけではこの広い町をくま無く探す事はできん。相手の出方をうかがうしかなかろう」

情報蒐集しゅうしゅうのために昔からもぐり込んで来ている連中は?」

「監視はしておるが、特に不審な様子は無いのう。少なくとも連中の『草』が誰かと特別な接触をとる様子は無さそうじゃ」

「ま、当たり前か。連中の所属は割れているもの。下手へたを打てば政府の秘匿ひとく組織そしきである陰陽院の存在がおおやけになった上、世界中から非難を受けることになるわ。連中にそこまでの覚悟があるとは思えないし」


 つまらなそうに言い捨てる優江。貴賎きせん国籍こくせき人種じんしゅの別無く患者を受け入れ続けてきた神木町中央病院は、今では世界最高の医療機関として名をせ、同時に異族達の自治を認めさせている。上手い汁をすすろうと画策する者は絶えないが、わざわざ異族に正面から攻撃を仕掛けてくるような愚者はまずいない。


「とりあえず監視は続けて。後の裁量さいりょうはあなたに任せるわ」

「うむ」


 短い返事を残して命は身をひるがえし、宙に浮いているふすまへと姿を消す。それを見送って優江はもう一度両手で身をひたしている水を両手ですくった。その水面には、ひっくり返っている六花と愛音を、慌てて介抱している武とクリスの姿が映る。子供達の傍に転がっているのは命から渡されていた一升瓶。おそらく二人が倒れている原因はこれだろう。


 ゆるめた指の間から水が零れ落ちる。そして優江は濃霧に覆われた空を見上げた。


「もしあなた達が辿り着けたら、その時は――」


 その口かられた一つの願いは誰に届く事もなく拡散していく。そして優江の心境を反映したかのように、ぽつり、ぽつりと天から雫が落ち、それはやがて小雨となって神籬ひもろぎの間の全てを濡らしていった。

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