第12話 春の間


 ふすまを閉めて、また開けただけで目の前の空間ががらりと変わるその神異を前に、クリスはただ目をしばたたかせる。武は繋いだままのクリスの手を引いて、ギシリ、ギシリと音を立てる階段を下りて行く。


「あの、武さん。ここは……?」

「あの廊下と同じ、っていないと入れない特別な領域への入口。僕達の秘密の場所なんだ」


 クリスの質問に武は小さく笑みを浮かべて答える。


 やがて螺旋らせん階段かいだんの行き着いた先には、四角い部屋の一面に桜が描かれたふすまが存在していた。


 武はクリスの手を離すと、ふすまを思い切り開け放つ。その向こうに広がっていたのは屋敷の一室でも廊下でもなく、屋外の光景だった。


 全身を包むぬるい空気が、散ることなく咲き誇っている幾本もの梅と桜の木が、遥か向こうで萌芽し青々とした葉を伸ばし始めた山の木々が、足元からは土の匂いと目覚めたばかりの見知らぬ草花の香りが、この目の前の景色を囲む様に立つ森林のどこからか聞こえてくる雪解け水の流れる川の音が、ここに存在しているあらゆる物がこの小世界の名を教えてくれる。


「クリス。ここがどこか分かる?」

「えっと……『春』、でしょうか?」

「うん、正解」


 クリスの答えに首肯し、新緑の絨毯じゅうたんに仰向けに寝そべった。ますます草花と土の匂いが強くなる。太陽の姿こそ無いものの、雲一つ無い青空から降り注いで温かく包みこむ陽光の中で、武はここに取り残された春の息吹を想う。


「ここはな、神によって遥か昔に切り取られた春の残滓ざんし、時を忘れ停滞した神代かみよの春だ」

「通称『はる』。武がよく昼寝してるから、玄関に靴が有るのに姿が見当たらない時はここを探すといいよ」


 六花、愛音が宙に浮いた襖の中から『春の間』に入ってきた。それに続いたクリスは武の頭の傍にスカートを調ととのえながら座り込み、六花と愛音は武を挟んで草花の絨毯じゅうたんの上に腰を降ろす。


「さて、対策会議を始めようか」

「対策って、あの廊下の?」


 聞き返す武に六花が頷く。武が体を起こしてクリスの隣に座り、そして全員が表情を真剣な物に切り替えた。


「まずは神籬ひもろぎの間への廊下に満ちた神気への抵抗力を身に付ける事。これはオレ達が容量キャパシティぎりぎりの神気を受ける事で、徐々にだが上げられるはずだ」


 頷く一同。体に神気への抵抗力をつけるためには、強い神気にあえて身をさらし、克服していくしかない。


「後は神籬ひもろぎの間に続く廊下だが、ある程度耐性が付いて来たらあの廊下の神気の中で耐久訓練を行なう」


 異論はあるか? とたずねる六花。そこで右手を挙げる者がいた。愛音だ。

 

「あのさ、あの廊下に入った時、体が勝手に奥へ進み始めたんだ。皆はそんな事なかった?」

「僕も同じ。必死になって廊下から出たけど、あれは危なかった」

「私もです。もし武さんに助けられていなかったら、あのまま帰って来られなかったと思います」


 武とクリスが愛音に同調し、三つの視線が六花に集まった。六花はそれに首肯する。あの廊下の危険度は並大抵のものではない、と改めて認識させられた。


「……仕方ない。あの廊下での訓練は保留にして、とりあえずみことさんに相談してみるか」

おさに、ですか?」


 六花の言葉に不思議そうな顔をするクリス。彼女が長と呼ぶ存在はこの神木町の異族を取り仕切る異族の長であり、同時に現町長でもある月宮つきみやみことという女性の事だ。


神籬ひもろぎまで辿り着けるのは母さんと命さんだけだからな。オレが相談に行ってくる」


 そう言って立ち上がった六花は宙に浮いたふすまの中に入って行く。残された武は再び草の絨毯じゅうたんの上に仰向けに寝転び、その両脇にクリスと愛音が寝そべった。そのまま二人は武と同じく雲一つ無い青空を見上げる。


「十年か……」

「長いですね……」


 愛音のぼやきにクリスが相槌を打った。神気による変質はある程度までヨモツヘグイによって防げるにしても、あの膨大な神気を受け入れられるだけのうつわ作りとなると相当な時間がかかるだろう。無理にそれを短縮しようとするならば、きっとどこかでそのツケを払わされる事になる。


 それからしばらくの間三人で春の陽気に意識を微睡まどろませていると、宙に浮いていたふすまが開かれた。中から現れたのは六花と、ぞくに巫女服と呼ばれる衣装をまとった金髪の女性だ。本来胸のところが膨らんでいるのは不恰好ぶかっこうとされているのだが、太っているように見られるのが嫌、という本人の主張により胸が大きく強調された巫女姿となっている。


 陽だまりにうとうととしていた武は、ぼんやりと襖の向こうから出てきた二人を見ていた。が、やがて獣の耳を立てた巫女姿の女性の名前を思い出した瞬間、武は体を起こした。


「お帰りなさい、命さん」

「お帰り、命さん」

「お、おさ!? えっと、初めまして! クリスティーナ・槙原といいます!」


 武に続き愛音とクリスが身を起こして巫女服の女性に挨拶あいさつをする。対して女性はうむ、と得意気に頷いてみせた。


「ただいま、じゃ。それと、クリスティーナとは初顔合わせじゃの。知っておるとは思うが、わし月宮つきみやみことじゃ。よろしく頼む」

「こ、こちらこそよろしくお願いします!」


 クリスと命はお互いに頭を下げて礼をする。そして命は口端を吊り上げた笑みを浮かべて武の方に視線を送って来た。


「たまの休日と思って部屋でまどろんでおったのじゃが、六花から面白い話を聞いての。こうして急ぎ駆けつけたというわけじゃ」


 命の意地の悪そうな笑みが深くなる。どうやらこちらの事情は六花から聞いたようだ。


「で、どうじゃ武。三人もの女子おなごに想いを寄せられるというのは。もう誰かとねやを共にしたのか?」

「命さんが思っているような事はしてません。それより命さんは僕達の事情をもう全部聞いたんですか?」

「うむ。『みそぎ』を行なうそうじゃの。確かに神籬ひもろぎまで辿り着けぬ器では『みそぎ』の神気を受けきれまい。そこでじゃ」


 命が手を軽く一振りする。するといつの間にかその手には一升瓶いっしょうびんが握られていた。


神籬ひもろぎそびえる湖の水じゃ。毎日御猪口おちょこ一杯ほど飲むがよい。手間はかかるが、少しずつおのが器を広げていく事が出来るじゃろう」


 差し出されたその一升瓶を受け取る。次の瞬間、まるで中に砂鉄が詰まっているのかと思うぐらいの重さに危うく瓶を落としてしまいそうになり、慌てて武は両手でその瓶を両手で抱え込んだ。


「一度に大量に飲むと、この水はたちまち毒となる。急ぐなとは言わぬが焦りは禁物じゃ。後は、そうじゃの……くれぐれもこの酒瓶を割るでないぞ。この酒瓶は神籬ひもろぎもとの湖と繋がっておる。割ったが最後、世界が水に呑まれるぞ。まあ儂やあねさまの手にかかればそのようなあななぞ立ち所にふさいでしまうがの」

「それならそうと早く言って下さい! もうちょっとで落とすところだったじゃないですか!」

「なに、その瓶は大抵の事では割れたりはせん。なにせ儂のしゅがかかっておるからの」


 得意気な顔で胸を張って見せる命。その強調された大きな胸に視線を奪われそうになり、直後に武は視線を他に移した。視界の端で愛音がこちらをじっと睨んでいるのが見える。


 正面を再度見ると命が口元を手で隠し、くつくつと忍び笑いをらしている。武はそこでようやく命の誘いに引っかかったことに気が付いた。


「全く、いつうてもおぬしらは面白いのう」

「命さん、からかわないで下さい」

「ほほう? なら、儂が本気だとしたらどうする?」


 言うや否や一瞬の内に命は武の眼前に立ち、武の瞳を覗き込んでいた。武はあごに手を当てられて、くいっと顔を持ち上げられる。そしてその唇が武のそれに合わせられようとした――刹那、武が尻餅をついて命から顔を離した。武が足元を見ると、そこには武の影から生えた二本の白い手が武の足をにぎっている。


(長。あまり主様で遊ぶのはおめ下さい)

「すまんすまん。つい興が乗ってな。許せ、冥月」


 冥月の非難にカラカラと笑って返す命。命が武から離れたところで冥月の腕も武の影の中に沈んでいった。


「……ところで武。あねさまはまだうちるのか?」

「あ、母さんなら神籬ひもろぎの間に向かいました」

「そうか。なら儂はそちらに向かうとしよう」


 その返事を聞いてきびすを返しふすまへと向かう命。武達はその背中に大きく頭を下げる。


「ありがとうございました!」


 命は武の言葉に振り向くことなく手を振ってふすまの向こうに行ってしまう。それを見届けた武は新緑の絨毯じゅうたんに腰を下ろした。その傍に他の三人も集まり、輪になって座り込む。


「あの……長は武さん達のお母様とどういう関係なんですか?」


 クリスの質問に武は頬を掻く。命が隠すことなく言ったのだから、クリスに隠しておく必要は無いだろう。


「命さんは母さんの義理の妹なんだ。世間的には長の命さんが神木かみきの最高権力者だけど、その命さんにお願いをごり押しできる母さんの方がこの町の事実上頂点トップに立ってる。ただ、母さんが神木の運営に関して口出しする事は滅多に無いけどね」

「初めて知りました……」


 武の説明に目を丸くするクリス。この事を知っているのは町でも極僅かな者だけなので驚くのも当然といえば当然だが。


「ところで、お母様は神籬ひもろぎへ何をされに行かれたんですか?」

「休憩……ううん、治療かな。病院から帰った時にはいつも弱っているんだけど、『奥』に行って戻ってきたらすっかり元気になってるの」


 愛音がクリスに簡単に説明する。とはいえ武達も知っている事は少ない。分かっているのは、あの憔悴しょうすいした優江が一変した姿で『奥』から戻ってくるという事だけだ。


 と、そこで武の左側に座っていた六花がぽん、と手をたたいた。


「『帰る』という言葉で思い出したんだが。愛音、報告しなくていいのか?」

「あ、うん!」


 六花の言葉に愛音が頷き、こほん、と一つ咳払いする。その口元には隠しきれない笑みが見て取れた。


「不肖、坂上愛音。初めてリカ姉から一本取る事が出来ましたー!」

「おおー!」


 今まで愛音が六花に勝てた事は一度も無い。それが今回の山籠りで遂に白星をあげたのだから、これはまさに快挙と言えよう。三人の拍手に愛音も照れくさそうな笑顔を浮かべる。


「まあ、持久戦に持ち込んでスタミナ切れを狙っただけなんだけどね」

「いや、そもそもリカ姉相手に持久戦なんて他の人にはできないから」


 思わず武はツッコミを入れる。六花、武、愛音はそれぞれ霊力や魔法とは異なる異能を有しているのだが、中でも六花の能力は反則だ。愛音でなければほぼ間違いなく初撃で倒される。多くの人外がつどうこの町の中でも六花に対抗できる者は片手で足りてしまうだろう。


「六花さんってそんなに強いんですか?」

「強いというか、ずるい……かな? 一方的に攻撃されて反撃の余裕も与えてくれない、リカ姉はそういう反則技を持ってるの。例えていうなら、格闘ゲームの無限コンボ」


 愛音の説明に首を傾げるクリス。いまいちイメージが掴めていない様だが、六花と愛音の異能は機密事項だ。余り詳しく説明する訳にはいかない。これ以上クリスに質問されない内に話題を変えておいた方がいいだろう。


「その話はそこまでにして、コレはどうするの?」


 瓶を指差して六花に声をかける。苦しい話題転換だったが六花は小さく頷いて応じてくれた。


おもてに戻って試し飲みしてみよう。こんな所で意識がぶっ飛んだら部屋に連れて行くだけで一苦労だ」


 腰を上げた六花にならって残りの三人も立ち上がり、『春の間』を後にする。ふすまの敷居をまたぐ刹那、空に広がっていく波紋を武は幻視した。

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