第7話 黄泉戸喫

 それは武が児童養護施設に住み、一ノいちのせの苗字を名乗っていた頃の事だ。二週間に一度、施設にボランティアとして訪れる少女がいた。外見はいくら高く見ても高校生程。名は坂上優江。炎のような赤い瞳と髪の色が印象的で、子供達にとってはアイドルのような存在だった。


 優江がいつからボランティアを始めたのか武は知らない。武が物心付いた頃には既に優江は施設に出入りしていた。


 そして施設の子供達の中でも、優江は武と二人の女の子に目をかけてくれていた。優江にどのような意図があったのかは判らないが、今となってはそれも大した問題ではない。親が子供にするように、優江は何らかの期待を武達に向けていてくれたという事なのだから。


 武は、優江のことが好きだった。優江の澄んだ歌声が、屈託の無い笑顔が、頭を撫でてくれた暖かい手が好きだった。それはもしかしたら、武にとってはその感情こそが初恋と呼べるものだったのかもしれない。


 だから武が四歳の時、女の子達と武の三人を引き取りたいという優江の申し出に、武は一も二も無く武は頷いていた。


 そして施設を出て山奥に在るという屋敷へ向かう途中、武達はピンポン玉程もある赤いあめを渡された。


「向こうに着くまでそれを舐めていて。でも、絶対に噛んじゃだめよ」


 優江の言葉に従って、武達は飴を口の中で転がす。赤い飴は余り甘くはなかったが、代わりにそれを舐めている間、清水を飲むような清涼感を武は感じていた。

 後にも先にも、優江に何か処置を施されたような憶えはない。だからきっと、この時の飴こそが武達の神気への抵抗力と特異な能力を獲得した原因なのだろう。

 そして武達は優江に導かれるまま、この広大な屋敷に呑み込まれた。







 朦朧もうろうとする意識が段々透き通ってくる。薄く開いたぼんやりした視界には、金色の髪をした女の子が今にも泣きそうな顔をしているのが映った。


 クリスだ。クリスが上から武の顔を覗き込んでいる。回転しない頭は情報を整理できないままクリスの頭に手を伸ばし、髪をく様に撫でた。


「武、さん……!」


 頭を撫でたのは失敗だったらしく、クリスは嗚咽を上げながら武の身に抱きついてきた。どうしたものかと周りを見回すと、すぐ傍に向かい合うようにして置かれた二つのはこぜんがある。そこで武は、自分が倒れる前にしていた行動を思い出していく。


 未だ女中というものが存在している建物も住人も古いこの屋敷において、テーブルを囲んで食事をするという習慣は存在していない。この屋敷ではそれぞれの器に盛られた料理を各々おのおのの部屋で食事をするのが普通だった。


 そして冥月に体を揺さぶられて目を覚ましたばかりの武の部屋に、クリスが箱膳を運んできた。クリスは一人では寂しいからと共に夕餉ゆうげを取る事を提案し、武もそれを承諾。二人は箱膳を挟んで向かい合わせに座り、漆器しっきに盛られた料理に手をつけた。


 クリスが勧めて来たのはその中でも彩り鮮やかな肉と野菜の炒め物だ。クリスが作ってくれたと言うそれを頬張ほおばって噛み締めたその次の瞬間、武の口内でビッグバンが炸裂した。


 吐き出さないよう意地と根性で口の中の炒め物を飲み込む。そして、そこからの先の記憶は失われていた。


 ということは、それから今まで武は気を失っていたのだろう。自分の料理を食べた直後に意識不明となられては、クリスがパニックを起こすのも不思議は無い。


「ごめん、クリス。もう大丈夫だから心配しないで」

「ご、ごめんなさい! 私、料理を失敗していましたか……?」

「いや。今のは『爆弾』だよ。調理じゃなくて材料の問題だから、クリスは気にしないで」

「材料……?」


 武の言葉を聞いてクリスがとりあえず泣きんでくれた。武は炒め物の中にあったピーマンの切れ端を箸で摘み、クリスへと差し出す。


「はい、クリス。あーん」

「あ、あーん……」


 小さく開かれたクリスの口の中に小さなピーマンの欠片を入れる。それを一噛みした瞬間、クリスの体がビクンと跳ねた。


「これは、神気――?」

「そう。神籬ひもろぎのあるこの屋敷の庭で作った野菜の事を、僕達は『爆弾』って呼んでる。今ので分かったと思うけど、この野菜には莫大な神気が濃縮されてる。だから一口で多くの量を取ると僕達の抵抗力を超える神気が口の中で炸裂して、意識がしばらく飛ばされるんだ。忘れた頃にやってくるのがいつものパターンだったけど、まさかこんなやり口で攻めて来るとは……」

「あ、あの、武さん。大丈夫なんですか? というか、こんな濃い神気を飲み込んだら体がおかしくなっちゃいますよ?」


 人ならずとも、濃い神気――神の霊威を受け続ければ変質を余儀なくされる。器物となるか、化生となるか、いずれにせよ人の姿のままでいることは難しい。だが、何事にも例外というものは存在する。


「クリス。ヨモツヘグイって知ってる?」

「よもつ、へぐい……?」

黄泉よみ――要するにあの世の食べ物を食べる事、それが黄泉戸喫ヨモツヘグイ。黄泉の食べ物を食べてしまったら、そのまま黄泉の住人になってしまうという日本の神話だよ。僕と後二人の人間がこの屋敷に住むことができるのは、この屋敷に着く前に飴のような何かを食べたせいだと思う。僕達は本質をこの屋敷に近しいものに変えられたから、これ以上おかしくはならないんだ」


 同じ釜の飯を食う、という言葉がある。日本には古来より同じ物を食す事でそのグループの一員に迎え入れられるというルールが在った。つまり武達はこの屋敷に関わる何かを食していたせいで人間の枠から外れ、この屋敷の住人として認められているのだ。


「この家にあるヨモツヘグイに使えそうな物は――お酒くらいかな」

「えっと、それは私がヨモツヘグイをするという事でしょうか?」

「うん。そうしないと、いくらクリスが吸血鬼でもこの神気を受け続けたら変質する可能性が高いと思うから。あのお酒は神籬ひもろぎの葉をかもして造った物だから、特殊な神気を含んでいるんだ。あれを飲めばきっとこの屋敷に体を馴染ませてくれるはずだよ。とりあえず『爆弾』は僕の方で処理するから、ピーマンだけこっちの皿に移しておくね」


 クリスが手出しするよりも早く、武はクリスの箱膳の上の炒め物のピーマンを自分のそれに移す。


「武さん、無理です! そんなに大きな神気を取り込んだら、吸血鬼の体でもどうなってしまうか分かりません!」

「大丈夫。言ったよね、僕はもうヨモツヘグイを済ませているって。だから、この程度の神気で体に異常は出ないんだ」


 クリスの頭をポンポンと軽くたたいて何とかなだめ、武は再びクリスと向かい合って食事を始める。それから武が肉野菜炒めをピーマンの量に気をつけながら完食したとき、二人はようやく安堵の息をついた。


「大丈夫ですか、武さん」

「ん、大丈夫。食べ方にさえ気をつければ神気は体を健康に保ってくれるんだ。ヨモツヘグイさえ済ませたら、体に悪影響は出ない……はず」

「でも、あの時武さんは気を失っていました」

「体に良いものだからって、一度に取りすぎると毒になるんだ。後、当然だけど『爆弾』を屋敷の外に持ち出さないように。ヨモツヘグイを済ませていない普通の人が『爆弾』を口にしたら、何が起きるか予想がつかないから」


 かつてこの屋敷で食事を振舞われた高僧は人ならざる身となり、今もこの屋敷の奥をさまよい続けている、と武は噂話うわさばなしに聞いたことがあった。つまり、この神気を浴び続ければやがて人間という枠を踏み外してしまう、という事も有り得るのだ。ましてやこの『爆弾』を口にしたなら、どのような変異が起こるか想像もつかない。ただ分かるのは、『爆弾』を食した者は人間としての生をそこで終えるという事だ。


 そして残りの料理を食べ終えた二人は、合掌してから厨房の洗い場に箱膳を持っていく。そこには茶色の着物を着た二十歳はたち過ぎ程の女性が、既に食事を終えたモノ達の茶碗や小鉢などを洗っている最中だった。


「美月さん、ごちそう様です」

「ごちそう様でした。あの、また明日もよろしくお願いします」

「どういたしまして。御膳はそこのテーブルに積んで置いといて下さいな。後でまとめて洗いますから」


 美月の言葉に従って水場と冷蔵庫との間に在るテーブルに箱膳を並べる。現在洗われている食器は三人分程度。この屋敷に住まうモノは武達を入れて三十余人。その内食事を必要とするモノの数は十人強。武の義姉妹きょうだいが明日までこの家にいないことを考えると、約半数のモノ達が食事を終えていることになる。


「美月さん。御神酒おみきを頂いてもいいですか?」

「御神酒……? ああ! クリスちゃんのお迎え祝いですね」

「はい。グラスは三つでお願いします」


 武の言葉に美月はほがらかに笑うと、タオルで手を拭いてから、二本の白い尾を振り厨房の奥へと入っていく。ややもしない内に美月は黒い一升瓶と盆の上に逆さに置かれた三つのグラスを持ってきた。


「あの、美月さんも一緒にお酒を頂くんですか?」


 受け取った丸盆に並べられた三つのグラスを見てクリスが質問する。美月は苦笑を浮かべて顔を横に振った。


「武さん。まだ冥月のこと教えてなかったんですか?」

「はい。これから顔合わせさせようと思いまして」

「めいげつ……?」


 武と美月の話についてこれなかったクリスが頭を傾げる。


「冥界の月と書いて冥月。簡単に言うと、僕のボディガードみたいな異族だよ。別に食事を摂る必要は無いんだけど、この御神酒の神気は冥月もお気に入りでさ。だから飲む時には必ず呼ぶようにしているんだ」


 異族の中には食事を必要としないモノも多い。人間から零れ落ちる精やこの地に満ちる神気を糧にしているモノなど、それぞれが様々な方法でエナジーを取り込んでいる。代表的なのは付喪神を初めとする器物の変化へんげだろう。冥月も生まれてから日は浅いが、この部類に入っている。


「あの、その冥月さんという方はどちらに?」


 グラスの載ったお盆を受け取ったクリスが尋ねてくる。


「すぐ傍だよ。今は姿を隠しているだけ」


 そう言って一升瓶を受け取った武は忍び笑いをする美月に礼を言うと、クリスを連れて厨房を出た。


「今日は晴れているから、月見酒と行こうか」

「月見酒、ですか」


 曖昧な笑みを浮かべるクリスに、武はふと吸血鬼の特徴を思い出す。吸血鬼は新月の夜に最も能力が強くなる。ならば一番能力が低い満月の夜は嫌いなのかもしれない。

 玄関で靴を履く際にそれとなく聞いてみると、次のような答えが返ってきた。


「別に力が弱まるからといって、それが好き嫌いにそのまま繋がるわけじゃないんです。私は満月もお日様も大好きですよ。この平和な町で能力が高くなければ困るなんて事は滅多にありませんから」


 その感覚は吸血鬼化した武にも分からないではない。太陽の下であろうとも、決して苦しさや虚弱感を覚えるわけではなかった。夜になると力の上限が大きく跳ね上がるだけで、基本的に人間の身体能力がベースとなっているらしい。


 庭の一角にある岩で囲まれた池。その岩の上に武とクリスは腰掛ける。池の中には、額に菊のような金の紋様を浮かべた、こいに似た黒い魚が一匹泳いでいる。


「武さん。あの魚は?」

「ああ。昔縁日で取ってきた金魚……だったモノ。五匹いた金魚が何を間違えたのか合体して一匹の魚になっちゃったんだ。何を起こすか――そもそも何が出来るのかよく分からないから気を付けてね」


 岩の上に一升瓶を置き、天を見上げる。東の空には満月が浮かび、空には雲一つ無く澄んだ夜空に幾つもの星がきらめいている。


「おいで、冥月」


 武が岩の上から足元を見て声をかける。その数秒後、無音で地面の中から一振りの太刀が浮かび上がった。


 宙に浮いたその刀は白い霧の様な霊気をその刃からはなち、その霧は膨れ上がったかと思うと人の形に集束する。霧が内側に引き込まれるように消え、刀のあった場所には女性が浮いていた。黒地に白い蝶の紋が入った着物を着込んだ、黒真珠のような髪と目をした女性――冥月。年の頃は十六、七といったところか。背の高さは武よりやや上ぐらいだ。


 冥月はクリスの前に浮いたまま移動すると、クリスに対して一礼した。


「初めまして。わたくしは武様をあるじとし、影にひそみて主の守護を任されし物。を冥月と申します」

「え、えっと、初めまして! クリスティーナ・槙原です! クリスって呼んでください!」


 わたわたと慌てるクリス。対して冥月は穏やかな笑みを浮かべてクリスの頭に手を軽く乗せ、ぽんぽんと優しく撫でる。


「そんなにかしこまらないで下さい。わたくしは主様のまもがたな。一振りの太刀に過ぎません」


 困ったように武の方を見るクリス。武は苦笑して説明する。


「まあ、余り畏まらない方が良いのは本当だよ。こう見えて冥月はまだ生まれて九年しか経っていないんだ」

「え……?」


 呆気にとられたようにクリスが固まる。当然と言えば当然だ。器物が人化するためには、永い年月の間に向けられた思念と、蓄えられた膨大な霊気が必要とされる。それが高々たかだか九年で達成されるのはまず考えられない。


「簡単にいうと、冥月は打たれた直後の空っぽな器に、神様がその力の極一部を、おさが知識を与えて作った神剣なんだ。生まれた時から高い神格と知性を持っている、付喪つくもがみの中でも特別な存在だよ」

「持ち上げすぎです、主様」


 白い頬を淡く染めて、ふよふよと空中で浮き沈みしながら冥月が言う。どうやら照れているらしい。


「でも、どうしてそんな凄い剣を武さんが持っているんですか?」

「どうしてと聞かれても、元々冥月は僕の為に作られた刀だったからね」

「主様は尋常ではない霊力を持ちながら、その力の大きさ故に制御が利きませんでした。そこでわたくしは主様の霊力を元にわざを行使するという、いわば水道の蛇口みたいな役割を任されているのです」

「そうなんですか……」


 クリスが感心している間に武はグラスを二人に差し出す。その中に琥珀色の液体を注ぎ、自分のグラスにも神酒を注いだ。


「じゃあ、本日よりクリスが月宮つきみやていの一員になったことを祝いまして――」

『かんぱーい!』


 武の音頭に合わせて三人はグラスを鳴らし合い、その中の液体に口をつける。


 武は少しだけ酒を口に含み、その舌触りを楽しんでから飲み込んだ。同時に鼻腔に桃のような優しく甘い香りがただよってくる。そしてまるで生まれ変わるような爽快感が体の奥から全身に染み渡り、アルコールよりもその爽快感に酔い潰れそうになる。


 クリスはというと、最初は恐る恐る口をつけていたが、やがて大胆にクピクピと飲み始め、既に二杯目を注いでいる。この神酒は特別な物だとはいえ、飲み過ぎては体にどんな影響を引き起こすか分からない。余り酔い過ぎないうちに止めておくべきだろう。


 一方、冥月はちびちびと酒を舐めるように飲んでいた。通常の食べ物が必要でない冥月にも、この酒は滋養と成り得る。濃厚な神気を含んだこの神酒は、冥月を初めとした神気を糧とするモノ達には最高の馳走ちそうだ。


 空には金色こんじきの月と、またたきながら小さなきらめき放つ星々。一升瓶が空になる頃には月も随分上に上ってしまっていた。


 夏の夜空を見上げる武のふとももの上にはクリスの頭が乗っている。武が飲むのをめた時、クリスは呂律ろれつの回っていない舌で何事か言うと、武にしなだれかかるようにして眠ってしまったのだ。


 神酒に含まれるアルコールに酔ったのか、神気を多く摂り過ぎたために中毒でも起こしたのか。おそらくその半々ではないかと武は見ている。


 小さな寝息を立てるクリスのさらさらした金の髪を手櫛でくしけずる。そこにグラスや酒瓶などを厨房の水場に片付けに行っていた冥月が、宙を滑るように武の前に舞い降りてきた。


「ご苦労様、冥月。今何時だった?」

「十時過ぎです。湯浴みはどうされます?」

「うーん。とりあえず先にクリスの体を洗ってあげて。酔ってるから湯船には浸けないように」


 クリスの体を抱き上げて、岩の上から飛び降りる。人外の力を獲得かくとくした夜の武にとって、眠っている少女を持ち運ぶことくらい朝飯前だ。


「僕はこのまま湯殿の入り口まで先に行ってるから、冥月はクリスの部屋から下着と寝巻きを持って来てもらえるかな」

「承りました」


 武がクリスの靴を脱がせている間に、冥月は廊下を滑るように微妙に宙に浮いて武達の部屋の在る方へと消えて行った。


 先に湯殿へと辿り着いた武は、その入り口の前でじっと腕の中のクリスを観察していた。澄んだ翡翠色をした瞳は閉じられ、そのあどけない顔には幸せそうな笑みが浮かんでいる。可愛らしさと美しさを兼ね揃えた、思春期の女の子。武は抱き上げているその少女の顔に自分の顔を近づけ――


「主様?」


 突如背後から聞こえた冥月の声に気を取り戻す。


「主様。いくら許婚だからといっても、意識の無い女性に手を出すのはいかがなものかと」

「ち、違う! 僕はそういう事がしたかったわけじゃない。僕は、僕はただ――」


 そこから先は言葉にならなかった。ただ背筋に氷柱を入れられたような悪寒が武の体を震わせる。


「……ごめん、冥月。屋根の上にいるから、クリスを部屋に寝かしつけたら呼びに来て」

「はい、ではそのように。主様、心配事がございましたらどうぞ私に話して下さいね」

「ありがとう。じゃあ、また後で」


 クリスを冥月に渡すと、武は玄関まで走っていく。屋根の上まで跳び上がり、夜気を肺に吸い込んで大きな息をいた。屋根の上に座り込み月と星を眺める。そこでようやく胸の中でくすぶっていた欲求が如何なる物かを武は理解した。

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