第6話 月宮の屋敷 武の自室にて――



 武が退院した日の午後、獣の尾や耳を生やした引っ越し業者が帰って二時間。武は粗方あらかたの荷物を片付け終えたクリスと共に坂の上のお屋敷――月宮つきみやていの武の部屋で話しこんでいた。


 床にはたたみが敷かれ、部屋の中央には丸いちゃぶ台。向かい合って座布団の上に座る二人はみに入った煎茶に口をつけ、ほぅ、と小さく息をいた。


「やっぱり凄いですね……」


 武の部屋の中、というよりもこの空間をぼんやりと眺めるようにしてクリスが呟く。


むせかえりそうな程に濃い神気。本当にこんな神域に人間が住んでいるんですか?」


 神の霊威、神気を浴び続ければ、生き物もそうでない物も何らかの影響を受けることは避けられない。それを本能的に感じ取る普通の人間は、この屋敷の敷地内に足を踏み入れた瞬間に身を引くだろう。この屋敷こそが本当の神域であり、同時に禁域となっているのだ。そう、普通の人間には。


「この屋敷に住んでいる人間は僕を入れて三人だけ。僕達はちょっと特殊で、神気への抵抗力を持っているんだ」


 正確に言うならば、武達は特殊な処置を受けて神気への抵抗力を手に入れた。もし真っ当な人間がこの屋敷に踏み入ったならば、何らかの異常を引き起こすのは確実だ。ちなみに武達の義母ははである優江は、魔法使いとして数百年以上の時を生きているため人間のくくりには入れていない。


「でも吸血鬼がこんな神域に入れるのか、ちょっと心配してたんだ。僕は特におかしな感じはしないけど、クリスはどう? 苦しくはない?」

「大丈夫です。この屋敷の空気にも慣れてきましたし、清浄な地である事は私達にも好ましいことなんです。吸血鬼の始祖はあやかし零落れいらくした神霊だったそうですから」


 そこでクリスは視線を武から壁に移す。その壁の向こうにあるのは、今日からクリスが住む新しい部屋だ。


「でもいいんですか? あんなに大きな部屋を使わせて貰うなんて――」

「ああ、別に気にしないでいいよ。あの板張りの部屋はクリスのために屋敷が用意した物だし」

「屋敷が……?」


 不思議そうな顔をするクリス。だがそれも仕方が無い。初見でこの屋敷の正体を掴める者はまずいないのだから。


「この屋敷は生きているんだ。正確には内装なんかを含めた屋敷という空間が生きていると言っていい。この屋敷は初め神籬ひもろぎ――神木しんぼくと、そこに宿った神を囲うように造られた結界だったんだ」

「えっと……?」

「要は、この屋敷は家の形をした異界なんだ。マヨイガって言えば分かるかな? とにかく、この屋敷の中では起きるはずの無い現象が起こるし、出鱈目でたらめな事だって頻繁ひんぱんに起きる。さっき絶対に一人で入っちゃいけないって教えた戸があったよね」

「あ、はい。奥に続いてるって言ってたふすまですよね」

「あそこは本当にこの異界の『奥』に繋がってるんだ。『奥』に行くほど神気は濃くなるし、時間も空間もどんどん歪んでいく。迂闊うかつに入ると一生あの中で迷い続けることになるから、一人では絶対に入らないでね」


 念押しをする武に首肯しゅこうするクリス。この屋敷の一番表層であるここですら簡単に変異が起きているのだ。『奥』がどうなっているかなど、武には知る必要など無いし知りたくも無かった。


「で、クリスの部屋に話を戻すけど、実はあの事故があった朝にはこの向こうに部屋なんて無かったんだ」

「え、でも……」


 困惑するクリスについ武は苦笑する。確かに今在る部屋が数日前には存在していなかった、などと言われて納得出来る訳が無い。


「さっき言ったよね。この屋敷は家の形をした異界だって。新しくクリスが住人として招かれた時、この屋敷は自分の構造を変えてクリスのための部屋を作り出したんだ」

「でも、私がここに来たのは今朝が初めてですよ? どうやってまだ来てもいない人に合わせて部屋を造れるんですか?」

多分命みことさん――おさか母さんの仕業だと思う。屋敷が生きているとはいっても、人間のような思考能力を持ってる訳じゃない。そこには方向性というか法則らしいものがあるだけ。そんなこの結界とも異界ともいえる屋敷に意図的な変化を起こさせられるのは、あの二人ぐらいしかいないから」


 それは同時に、屋敷の最奥部まで辿り着ける者がその二名しかいないという事でもある。この地、屋敷の奥に封じられた神籬ひもろぎに宿る神。それが如何なる存在であり、何故異族を守護しているのか。神と直に会うことの出来る二人はそれに堅く口を閉ざしていた。


「それで、クリスはこれからどうするの?」

「先程お会いした厨房の女中さん――美月みつきさん、でしたっけ?」

「うん、羽田はねだ美月みつきさん。そういえば家事を指導してもらう約束をしてたね」

「はい、花嫁修業です!」


 嬉しそうに、張りのある声で宣言するクリス。そのガッツポーズはとても可愛らしいものだったのだが、その宣言の内容に武は胸に小さなうずきを覚えた。


 契約を結んだ武がクリスの伴侶となるのは、吸血鬼側からしてみれば確定事項だろう。お互いまだ相手の事を余り知らないものの、どちらも相手の事を憎からず想っている。その上互いの親はこの婚約にかなり乗り気だ。それでも武が彼女と結ばれることを受け入れられないのは、武にはっきりとした好意を寄せてくる少女がいるためだ。


 いつまでも一緒だと思っていた義姉あね義妹いもうと。長く接して来た彼女達にいだいている想いよりもクリスにいだく想いが上回ってしまうことに、自分が変わってしまうことに武は怯えていた。


 とはいえ、武はもう人間としての生を全うすることはない。年を経て老いる彼女達に武は置いて逝かれてしまう。同じ時を生きられない事を思えば、彼女達を振り切ってクリスと共に生きていく事も決して悪い道では無いように思える。


 だから武は迷い続けている。どの道が全員にとって最良の選択なのか。自分が本当に好きなのは誰なのか。


「武さん、どうしました?」

「……え? 僕何か変な顔をしてた?」

「変という程でもないですが、何か考え込んでいるようでしたから」


 どうやら考えが顔に出ていたらしい。苦笑を浮かべて、なんでもないよ、と答える。


「ところでさ、クリス。契約の相手だからって無理をして結婚しなきゃいけないわけじゃないよね?」

「え……?」


 クリスの顔から血の気が引いていく。そしてその瞳に涙が浮かんだ。


「あ、あの、それは私なんかが嫁では嫌という事でしょうか……」

「ち、違うよ! そうじゃなくて、僕は契約を結んだからって理由で結婚することが嫌なんだ。結婚はもっと相手の事を知って、本当に好きな相手と幸せになる覚悟をした上でするものだと思う」

「……私は契約を結んだ時に覚悟をしました。それは武さんと結ばれることだけじゃなくて、私の全てを懸けて武さんを幸せにする覚悟です」

「でも、それは好きな相手と結ばれるって事とは違うよ。義務や罪悪感から一緒になるのは、きっとお互いに不幸になるだけだ」


 ひどい事を言っているな、と武は心の内で自嘲じちょうする。人ならざる高位のモノにとって、約束や誓いという物は重い意味を持つ。おのれの血に誓うという行為が吸血鬼にとってどれ程重い物か想像はつかないが、そう簡単に反故ほごに出来はしないだろう。


 恐る恐るクリスの顔を見る。だがその顔に浮かんだのは、武の想像とは真逆の淡い微笑みだった。


「分かりました。なら、絶対武さんに私のことを好きだって言わせてみせます。だから、覚悟していてくださいね」


 自信たっぷりに、どこか蠱惑こわくするような笑みを浮かべて武に近寄って来るクリス。その決意をたたえた瞳に武は囚われ、身動き一つ出来ずに迫り来るクリスを拒めないまま、頬に柔らかな感触を押し当てられた。


「それでは、私は美月さんの所へ行ってきますね」


 茫然自失となった武を置いて部屋から出て行くクリス。それからしばらくしてようやく再起動した武は背中から後ろに倒れた。


「やられた……」


 苦笑して武はぼんやりと天井を見つめる。思わず流されてしまうほどに今のクリスは魅力的だった。いつもあの調子でいられたら、武は彼女の為すがままにされかねない。


「ねえ、冥月」

(はい。なんでしょう、主様)


 声は聞こえど姿は見えず。ただ気配に敏感なモノなら、この部屋に確かに存在する何者かに気付いていただろう。


「僕が人間から吸血鬼になって年を取らなくなったことを知ったら、リカねえ愛音あいねはどう思うかな?」

(わたくしは主様より幼き身。故に的外れな意見かもしれませんが、あの御二人なら例え主様が人間でなくなっても、変わらず共にあることを望むでしょう。御二人がその程度の事で主様から離れていくという事はまずありえません)

「そう、か」


 小さく息をく。冥月がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。


(それより、主様が気に掛けているのはあの二人がどう感じるかではなく、あの御二人と同じ時を共有できなくなる自分自身であるように思います)

「僕が、僕を?」

(わたくしも、いつか主様を見送る事になると思うと胸がきしみました。ですが、病院で主様が永き時を生きられる体になったと聞いた時、いつまでも主様と共に在れる歓喜にこの身を震わせました。今の主様があの二人に対して抱いている気持ちは、かつてわたくしが心を痛めていたものと同じなのではないでしょうか)

「……でも、冥月はずっと僕の傍にいてくれたよね」

(いつか別れが来るとしても、限られた時間の中で悔いの残らぬよう今を紡いでいく。それがわたくしの出した結論です)


 その言葉を聞いた武の体から力が自然と抜けていく。先程までとは打って変わって、頭の中は不思議と澄んだ湖面のように静かだった。


「なら、僕は自分の心を探してみるよ。僕は誰が好きで、何を望んでいるのか。もう少しままに欲張って、僕なりの答えを見つけてみせる」

(分かりました。ただ一つ御注意を。主様は状況に流され過ぎです。気を付けていないと、強引に既成事実を作られて結婚を余儀なくさせられる可能性が高いです)


 冥月の言葉に胸が痛む。自覚がある分余計に心を容赦なくえぐられる。うめき声を上げた武は遂に最終兵器に頼る事を選択した。


「お願いだ、冥月。もしもの時は僕を守って欲しい」

御意ぎょい


 冥月の声ならぬ声が、忍び笑いと共に武の脳裏に響く。冥月はやや堅物で生真面目な嫌いがあるが、このような状況では誰よりも頼りになる。冥月は常に武と共にいる。武が雰囲気に流されそうになった時に茶々を入れて貰えば、押し倒されて関係を持つような事にはならないだろう。


 部屋の壁に掛けられている時計を見る。その針が指しているのは午後三時半過ぎ。今頃クリスは女中の皆と一緒に夕餉ゆうげ支度したくでもしている事だろう。


 武は体を起こすと机に向かった。机の上に広げられたのは先日買った問題集。武には特別な勉学の才能など無い。だから、夢を叶えるため少しでも人より多くの知識や問題のパターンを頭に詰め込んでおく必要があった。


 そしてもし今のまま勉学へ努力を向けられるなら、武の夢――魔法医ウィッチドクターへの道の入口には辿り着けるだろう。


 魔法医ウィッチドクター。それは現在の日本で優江のみが冠する役職名だ。医師免許を取得し、最先端の医療と限定的な治癒魔法の併用によって傷や病を治す、医師の中でも例外中の例外。


 ただし、その名が広がるにつれ、日本中、世界中から患者が押し寄せたために、優江は滅多に屋敷に帰れなくなった。


 だが、魔法は万能ではない。いや、万能に近づけることは出来るが、同時に多大なリスクを背負うようになるのが魔法という力だ。その危うさを理解できるが故に、武は優江の負担を減らすべく自身もまた魔法医ウィッチドクターを志し、神木町中央病院に併設された私立神木医科大学を目指していた。


 しかし、元々魔法使いというモノは殆どが錬金術師――研究者や薬剤師のたぐいだ。ゲームなどで登場する、手から火や氷を出せるような魔法使いは全体から見ればほんの一握り程度でしかない。さらにリスクの高すぎる治癒魔法を扱えるモノなど、世界でも両手の指で数えてしまえるだろう。それをよわい十二にして治癒魔法の習得に至った武の才能と執念は凄まじいの一言に尽きた。


 だが、優江の名が世界に知られるようになった今でも、魔法使いというモノは基本的に世間から疎まれている。魔法使いは時に禁忌を犯し、危険な事態を引き起こす事もあるからだ。


 無論治癒魔法の使い手である武も町に住まうことは許されず、坂の上の屋敷で町を見下ろしながら日々を暮らしている。


 それは神木町に逃げ込んできた魔法使い達も例外ではない。武が神木町にやって来てからの十年を振り返っても、魔法使いが小火ぼやを出す、家を爆発させるなどの事件はニュースでざらに聞いていた。そのため魔法使いは民家から離れた所でないと住む事を許されず、さらに研究内容の概要を町に提出するよう義務付けられている。


 だが彼らが町に冷遇されているのかというと、決してそんなことはない。正体を明かせば偏見や宗教的な理由で迫害され、場合によっては命の危険すらある魔法使いという存在であろうとも、この町に居を構えれば一人の町民。手出しする者からは町によって守られる事になる。


 とは言っても、逃げ込んで来たモノを追ってやって来る『外』の人間などいないのが現状だ。魔法のような神秘を扱える者など滅多にいない上、神木町を覆う結界の中では銃火器が使用できない。その一方でおさ――現町長の私兵部隊は、異族特有の優れた身体能力と異能を遺憾なく発揮する事が出来るのだ。


 そもそもそんな一方的な殲滅作業ワンサイドゲーム以前の問題で、町や異族への害意を持った存在は町に侵入できないよう、結界によって処理されてしまうのだが。


 そんな益体やくたいもないことを考えながら、高校受験の過去問を自ら課した問題数ノルマまで終わらせる。シャープペンシルをノートの上に置くと、椅子から立ち上がって畳の床に寝転がった。


 目を閉じて座布団を枕にし、体から力を抜く。その目蓋まぶたの裏に浮かぶのは、クリスの笑顔と義姉妹きょうだいの目だけ笑っていない笑顔だ。明日が日曜であることに武は感謝した。学校で問題を引き起こされても困るし、半日もかければ落とし所も見えてくるだろう。


「冥月。ちょっと寝るから日暮れ前に起こしてくれる?」

(はい。夕餉ゆうげ前には起こします)

「ありがとう。よろしく頼むね」

(お休みなさいませ)


 冥月の気配が部屋から消える。それからややもしないうちに、武は意識をまどろみの内に沈めていった。

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