第4話 はじめての(吸血)行為
頭の中が真っ白になり、思考が停止する。代わりにクリスが車に
目の前には頭を下げているクリス。その両肩に手を置くと、ようやくクリスが顔を上げてくれた。
「クリス。悪いけど、いきなり結婚してと言われても無理だよ」
「……やっぱり、私では嫌ですか? あなたに人間をやめさせて、吸血鬼にしてしまった私では――」
「違う!」
自分を責めるクリスの言葉を
だが、そう簡単に結婚を了承することは、武には出来なかった。
「僕はクリスの事が嫌いな訳じゃない。だけど、
武の言葉にクリスは一瞬目を丸くして――その後に花の
「それでは、私をお傍に置いて下さい。結婚についてはとりあえず保留して、好きになるかどうか、それを一緒に暮らす事で確かめましょう」
「あー……。それはもしかして、
「はい。昨日母と武さんのお母様の二人に事情を説明して、坂の上のお屋敷で暮らす事になりました。武さんの
「許婚、ですか」
「です」
クリスが小さく微笑む。保護者二人に外堀から徐々に埋められている気がするが、そこは気にしないようにした。どれ程他人が干渉してこようとも、好いた
「クリスはいいの? 許婚だなんて」
「契約を行なう相手が結婚相手になる、というしきたりが私達にはあります。最初、契約を結ぶ時には結婚の事を考えてちょっと迷いましたけど、今は正しい判断だったと思います。こうしてお話しして、武さんがとても素敵な人だって判りましたから」
「……買い被り過ぎだよ。僕は単に
クリスから視線を逸らす。照れくさくてまともに顔を合わせていられなかった。
「でも、よく母さんに連絡がとれたね」
「心配して様子を見に来てくれたんですよ。私も武さんも重体で病院に運び込まれましたから。私の方は夜になると怪我は全部治ってしまったんですが、武さんは吸血鬼化が進んでいる最中で昏睡状態でした。それでどうしたものかとあたふたしていたところに、母とお母様がやって来たんです」
武の
そんな優江が駆けつけてくるほど武の
「それで、母さん達はなんて言ってた?」
「私が責任を取ると言った時、母はその……子供が出来るまで帰ってくるな、と」
「ゲホッ、ゴホッ!」
クリスの言葉に思わずむせた。結婚を前提にするならそう突飛な事ではないかもしれないが、それでもその過程の事を考えると気恥ずかしくなる。見ればクリスも
「あの、お
「何考えてるんだ、あの人は……」
武が吸血鬼になって、許婚を連れて屋敷に戻る。それがどのような結果を生むのか分かった上で、優江はそう提案したのだろう。契約をした相手と結ばれるのは吸血鬼にとって当然な事だから、クリスの母親――エレンも快諾したのではないかと考えられる。
だが、武の
そこまで考えたところでクリスの顔が曇っているのに気がついた。どうやら先の事を心配する余り暗い顔をしていたようだ。
「あの、許婚というのはお嫌でしたか?」
「い、嫌というか、突拍子もない事だらけでさ、正直実感が湧かないんだ。あ、でもクリスの事が嫌ってわけじゃないよ」
「そう、ですか」
息を
「ただ、僕には義理の姉と妹がいるんだ。今は修行で山籠りに行ってるから日曜まで帰って来ないけど、多分あの二人が帰って来た時いざこざが起きると思う。可能な限りでいいから、
「お
「いや、契約を結んで僕が吸血鬼になったなんて聞いたら、あの二人のことだから――」
そこまで言って一つ疑問がよぎった。それは、クリスが武と契約をした理由だ。
「クリス、どうして僕と契約をする気になったの? 僕は特に怪我をしていたわけじゃないのに」
そう、武の昏睡の原因はブドウ糖の血中濃度が著しく下がったためだ。それが生命の危機に瀕しているなど見た目からでは分かる訳がない。
「すぐに分かりましたよ。この人が私を助けてくれたんだって。意識を取り戻したら生気が空っぽの武さんがいて、私の中には武さんの生気が溢れていたんですから。きっと武さんも夜を過ごす内に分かるようになります」
夜を過ごす内に。窓がないこの部屋では分からないが、どうやら今は朝か昼であるらしい。
夜になって自分がどうなるのか、という不安が無いといえば嘘になる。だが、それも生きていられる今があってのものだ。この先何があろうとも、それは魔法を使ったあの時の選択の結果。クリスのせいにしてしまう事、それだけは出来ない――。
じっとクリスの顔を見つめる。クリスと視線が合い、二人同時で声を出しかけ、二人共が硬直した。武は口から出かかった言葉を飲み込んでしまって頭が真っ白になり、何を口にしたらいいのかと焦る。だが、見つめ合ううちにクリスの顔が赤くなってきた。息が荒くなり身をよじり始め、瞳がいつの間にか紫がかった光を宿している。様子がおかしいと思った武が声をかけようとするが、行動に移ったのはクリスが先だった。
「あ、あの、ごめんなさいっ!」
「え――?」
瞬く間にクリスは武に覆い被さり、その首元に顔を
やがてその
ハンカチを仕舞い、ほぅ……、と
「知りませんでした。他人の血ってこんなに美味しいものだったんですね」
「……クリス。もしかして、血を飲んだのは今のが初めて?」
「はい。私、血を飲みたいと思ったのは初めてなんです。自分の血なんて全然美味しくないのに、どうして武さんの血はこんなに甘くてさらさらしているんでしょう?」
クリスの疑問に答えられる者は存在しない。吸血鬼の生態について最もよく知る者は吸血鬼自身でしかなく、それも積み上げられた経験則に基づく物でしかないからだ。
吸血行為の余韻にしばし酔っていた二人だったが、やがて二人とも赤面してお互いの顔を見つめあう。
武が何か声をかけようと口を開きかける。しかし、その言葉が音になることはなかった。
口を開こうとした瞬間、観察室の二つある扉のナースステーション側がノックされたのだ。
「あ、あの! また明日来ますから、今日は失礼します!」
クリスは、ノックされたのとは反対側の戸から慌てて出て行ってしまう。同時に白い看護服を着た女性が、ノックされた戸から入って来た。武の顔馴染みの看護師、
「えっと、おはようございます、紫乃さん」
「ん。ようやく起きたわね。おはよう、武君。もうこのまま目が覚めないんじゃないかって心配してたのよ」
「あれ? 僕の昏睡の原因聞かされていないんですか?」
低血糖で昏睡した場合、適切な処置が行なわれた上で昏睡から時間が経過し過ぎていなければ、すぐに意識を取り戻すものだ。だが武は長い間昏睡状態にあった。これは吸血鬼化の影響であるらしいが、低血糖症で昏睡した患者が長い間意識を取り戻さなかったのだ。死なずとも脳障害などを疑われるのが普通だろう。
「知ってるわよ。それについては
「まあ、この町の中でなら人間相手に負けることはないとは思いますけど……」
「うん。でも一応は気を付けておいてね。今この事を知ってるのは長と一部の異族だけだから、『外』に情報が漏れる心配はないと思うけど」
そこで紫乃の瞳孔が縦に細まる。それは獲物を狙う獣の目だ。
「ところで、さっきまでこの部屋にいた女の子は誰なのかなー?」
「聞き耳立ててたんですか?」
「ううん。ここに入ろうとしたら女の子の声が聞こえてきたから。で、誰? もしかして彼女?」
「彼女候補、ですかね。ほら、僕を助けてくれた子です」
「ああ、あの子ね。武君が眠ってる間に何度もここに来てたわ。別に取って喰われるわけじゃないんだし逃げなくてもいいのに」
クリスが逃げた理由。それは二人の
「とりあえず、武君には後二日ほど入院してもらう事になるから。体に異常が無いか、一通り検査してもらいましょう」
「はーい」
血液検査やCT、MRIなどで調べても何の異常も見つからないとは思うが、体を流れる生気の流れ――気脈を調べられたら何か分かるかもしれない。人間だった頃と今の自分の違いを出来る限り把握しておいた方がいいだろう。
「あ、そうそう。エレン先生から目が覚めたらこれを渡して置くようにって頼まれてたの」
そう言って紫乃がポケットから取り出したのは、銀色の鍵。赤い紐が付いているだけのその鍵に心当たりはまるで無かった。
「どこの鍵なんですか? それ」
「屋上の鍵よ。夜になって血が
ありがたい心遣いだった。夜の屋上なら人も来ない。今の自分を確かめるにはもってこいな場所だ。
「ありがたく受け取っておきます」
「はい。鍵は退院する時に私に返せばいいから」
屋上の鍵を受け取り、服の胸ポケットに入れる。
「じゃあ若先生に目を覚ました事教えてくるから、勝手に出歩かないでね」
「分かりましたー」
いつもの低血糖だけなら簡単な問診と検査をして即日退院させてくれるのだが、今回の
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