第4話 はじめての(吸血)行為

 頭の中が真っ白になり、思考が停止する。代わりにクリスが車にかれてからの場面シーンが走馬灯のように頭の中を流れていく。それが現在に辿り着いた所で、ようやく武の頭はまともに物を考えられるようになった。


 目の前には頭を下げているクリス。その両肩に手を置くと、ようやくクリスが顔を上げてくれた。


「クリス。悪いけど、いきなり結婚してと言われても無理だよ」

「……やっぱり、私では嫌ですか? あなたに人間をやめさせて、吸血鬼にしてしまった私では――」

「違う!」


 自分を責めるクリスの言葉をさえぎる。決してクリスの事が嫌な訳ではない。見た目は文句の付けようが無い美少女で、会って間もないが嫌な性格というわけでもない。

だが、そう簡単に結婚を了承することは、武には出来なかった。


「僕はクリスの事が嫌いな訳じゃない。だけど、つぐないのために結婚っていうのは嫌なんだ。そういうのは好きになった人とするものだと思う」


 武の言葉にクリスは一瞬目を丸くして――その後に花のほころぶような笑みを浮かべた。思わず武はその笑顔に見惚みとれてしまう。


「それでは、私をお傍に置いて下さい。結婚についてはとりあえず保留して、好きになるかどうか、それを一緒に暮らす事で確かめましょう」

「あー……。それはもしかして、屋敷うちに住むってこと?」

「はい。昨日母と武さんのお母様の二人に事情を説明して、坂の上のお屋敷で暮らす事になりました。武さんの許婚いいなずけとして」

「許婚、ですか」

「です」


 クリスが小さく微笑む。保護者二人に外堀から徐々に埋められている気がするが、そこは気にしないようにした。どれ程他人が干渉してこようとも、好いたれたは結局当事者間の問題だ。


「クリスはいいの? 許婚だなんて」

「契約を行なう相手が結婚相手になる、というしきたりが私達にはあります。最初、契約を結ぶ時には結婚の事を考えてちょっと迷いましたけど、今は正しい判断だったと思います。こうしてお話しして、武さんがとても素敵な人だって判りましたから」

「……買い被り過ぎだよ。僕は単に堅物かたぶつなだけだ」


クリスから視線を逸らす。照れくさくてまともに顔を合わせていられなかった。


「でも、よく母さんに連絡がとれたね」

「心配して様子を見に来てくれたんですよ。私も武さんも重体で病院に運び込まれましたから。私の方は夜になると怪我は全部治ってしまったんですが、武さんは吸血鬼化が進んでいる最中で昏睡状態でした。それでどうしたものかとあたふたしていたところに、母とお母様がやって来たんです」


 武の義母はは坂上さかがみ優江ゆえ。この病院に勤める、世界にただ一人の魔法医ウィッチドクターだ。専門は脳神経外科。ただし三年前から外科全般を扱うようになり、それから一月ひとつきに二、三度しか家に帰ってこないほど多忙な生活を送っている。

 そんな優江が駆けつけてくるほど武の容態ようだいは悪かったのだろう。不謹慎ではあるが、そこまで想われていることに武は嬉しさを覚えた。


「それで、母さん達はなんて言ってた?」

「私が責任を取ると言った時、母はその……子供が出来るまで帰ってくるな、と」

「ゲホッ、ゴホッ!」


 クリスの言葉に思わずむせた。結婚を前提にするならそう突飛な事ではないかもしれないが、それでもその過程の事を考えると気恥ずかしくなる。見ればクリスもわずかに頬を染めていた。


「あの、お義母様かあさまは、結婚できる年になるまでは許婚として一緒に屋敷で暮らすのはどうか、とおっしゃって、手続きをしてくるからと母と二人楽しそうにここを出て行きました」

「何考えてるんだ、あの人は……」


 武が吸血鬼になって、許婚を連れて屋敷に戻る。それがどのような結果を生むのか分かった上で、優江はそう提案したのだろう。契約をした相手と結ばれるのは吸血鬼にとって当然な事だから、クリスの母親――エレンも快諾したのではないかと考えられる。


 だが、武の義姉妹きょうだいが武とクリスの事を知った時、どのような事態を巻き起こすか、まるで予測がつかなかった。基本的にとばっちりは全部武に降りかかってくるので、クリスの心配はしなくても平気だろうが。


 そこまで考えたところでクリスの顔が曇っているのに気がついた。どうやら先の事を心配する余り暗い顔をしていたようだ。


「あの、許婚というのはお嫌でしたか?」

「い、嫌というか、突拍子もない事だらけでさ、正直実感が湧かないんだ。あ、でもクリスの事が嫌ってわけじゃないよ」

「そう、ですか」


 息をいて胸を撫で下ろすクリス。その仕草に妙なくすぐったさを覚え――刹那せつな、背筋を寒気が走った。


「ただ、僕には義理の姉と妹がいるんだ。今は修行で山籠りに行ってるから日曜まで帰って来ないけど、多分あの二人が帰って来た時いざこざが起きると思う。可能な限りでいいから、刃傷にんじょう沙汰ざたにならないよう気を付けて欲しい」

「お義姉ねえさんと義妹いもうとさんですか。分かりました。私、仲良く出来るよう頑張ります!」

「いや、契約を結んで僕が吸血鬼になったなんて聞いたら、あの二人のことだから――」


 そこまで言って一つ疑問がよぎった。それは、クリスが武と契約をした理由だ。


「クリス、どうして僕と契約をする気になったの? 僕は特に怪我をしていたわけじゃないのに」


 そう、武の昏睡の原因はブドウ糖の血中濃度が著しく下がったためだ。それが生命の危機に瀕しているなど見た目からでは分かる訳がない。


「すぐに分かりましたよ。この人が私を助けてくれたんだって。意識を取り戻したら生気が空っぽの武さんがいて、私の中には武さんの生気が溢れていたんですから。きっと武さんも夜を過ごす内に分かるようになります」


 夜を過ごす内に。窓がないこの部屋では分からないが、どうやら今は朝か昼であるらしい。

夜になって自分がどうなるのか、という不安が無いといえば嘘になる。だが、それも生きていられる今があってのものだ。この先何があろうとも、それは魔法を使ったあの時の選択の結果。クリスのせいにしてしまう事、それだけは出来ない――。


 じっとクリスの顔を見つめる。クリスと視線が合い、二人同時で声を出しかけ、二人共が硬直した。武は口から出かかった言葉を飲み込んでしまって頭が真っ白になり、何を口にしたらいいのかと焦る。だが、見つめ合ううちにクリスの顔が赤くなってきた。息が荒くなり身をよじり始め、瞳がいつの間にか紫がかった光を宿している。様子がおかしいと思った武が声をかけようとするが、行動に移ったのはクリスが先だった。


「あ、あの、ごめんなさいっ!」

「え――?」


 瞬く間にクリスは武に覆い被さり、その首元に顔をうずめる。鋭い痛みが武の肩に走り、熱くぬめる何か――おそらくは舌が肌を這い回った。一昔前の映画の吸血鬼は首筋のみ傷から全身の血液を吸い上げていたが、クリスのこれは傷から溢れる血を舐め取っているだけだ。しかも痛いのはまれた最初の一瞬だけで、後は傷口を通して二人の生気が通い合い、交じり合う不思議な満足感に陶酔とうすいしてしまう。けあって一つになっていく快感に酔いしれながら、武は頭の片隅で吸血行為というものが愛情表現であるという事に納得していた。


 やがてそのむつみ合いの時は終わり、クリスは武から身を離す。クリスが口元をハンカチで拭いている間に、噛まれた場所をそっと手で触れてみる。小さく表面が陥没していた場所があったが、傷に触れるような痛みはない。そういう能力がクリスにあるのか、それとも吸血鬼化した武の肉体に宿る力のためか、傷は噛み跡だけを残して塞がってしまったようだ。


 ハンカチを仕舞い、ほぅ……、とつやっぽいため息をクリスがらした。


「知りませんでした。他人の血ってこんなに美味しいものだったんですね」

「……クリス。もしかして、血を飲んだのは今のが初めて?」

「はい。私、血を飲みたいと思ったのは初めてなんです。自分の血なんて全然美味しくないのに、どうして武さんの血はこんなに甘くてさらさらしているんでしょう?」


 クリスの疑問に答えられる者は存在しない。吸血鬼の生態について最もよく知る者は吸血鬼自身でしかなく、それも積み上げられた経験則に基づく物でしかないからだ。


 吸血行為の余韻にしばし酔っていた二人だったが、やがて二人とも赤面してお互いの顔を見つめあう。


 武が何か声をかけようと口を開きかける。しかし、その言葉が音になることはなかった。

口を開こうとした瞬間、観察室の二つある扉のナースステーション側がノックされたのだ。


「あ、あの! また明日来ますから、今日は失礼します!」


 クリスは、ノックされたのとは反対側の戸から慌てて出て行ってしまう。同時に白い看護服を着た女性が、ノックされた戸から入って来た。武の顔馴染みの看護師、市原いちはら紫乃しの。魔法を使い、低血糖の急患として運び込まれる武の担当を任されている異族の女性だ。


「えっと、おはようございます、紫乃さん」

「ん。ようやく起きたわね。おはよう、武君。もうこのまま目が覚めないんじゃないかって心配してたのよ」

「あれ? 僕の昏睡の原因聞かされていないんですか?」


 低血糖で昏睡した場合、適切な処置が行なわれた上で昏睡から時間が経過し過ぎていなければ、すぐに意識を取り戻すものだ。だが武は長い間昏睡状態にあった。これは吸血鬼化の影響であるらしいが、低血糖症で昏睡した患者が長い間意識を取り戻さなかったのだ。死なずとも脳障害などを疑われるのが普通だろう。


「知ってるわよ。それについてはおさから戒厳令が敷かれたの。『外』には吸血鬼を異常なまでに敵視してる奴らや、吸血鬼を研究したがってる国までいるからね。まあ、長直属部隊の君なら簡単に返り討ちに出来そうだけど」

「まあ、この町の中でなら人間相手に負けることはないとは思いますけど……」

「うん。でも一応は気を付けておいてね。今この事を知ってるのは長と一部の異族だけだから、『外』に情報が漏れる心配はないと思うけど」


 そこで紫乃の瞳孔が縦に細まる。それは獲物を狙う獣の目だ。


「ところで、さっきまでこの部屋にいた女の子は誰なのかなー?」

「聞き耳立ててたんですか?」

「ううん。ここに入ろうとしたら女の子の声が聞こえてきたから。で、誰? もしかして彼女?」

「彼女候補、ですかね。ほら、僕を助けてくれた子です」

「ああ、あの子ね。武君が眠ってる間に何度もここに来てたわ。別に取って喰われるわけじゃないんだし逃げなくてもいいのに」


 クリスが逃げた理由。それは二人のあいだにあった何とも言い難い雰囲気のせいなのだが、流石にそれについては武も口をつぐむ。他人に話すにはなんだか気恥ずかしく思えたからだ。


「とりあえず、武君には後二日ほど入院してもらう事になるから。体に異常が無いか、一通り検査してもらいましょう」

「はーい」


 血液検査やCT、MRIなどで調べても何の異常も見つからないとは思うが、体を流れる生気の流れ――気脈を調べられたら何か分かるかもしれない。人間だった頃と今の自分の違いを出来る限り把握しておいた方がいいだろう。


「あ、そうそう。エレン先生から目が覚めたらこれを渡して置くようにって頼まれてたの」


 そう言って紫乃がポケットから取り出したのは、銀色の鍵。赤い紐が付いているだけのその鍵に心当たりはまるで無かった。


「どこの鍵なんですか? それ」

「屋上の鍵よ。夜になって血がたかぶるようだったら屋上で風にでも当たってみるように、だって」


 ありがたい心遣いだった。夜の屋上なら人も来ない。今の自分を確かめるにはもってこいな場所だ。


「ありがたく受け取っておきます」

「はい。鍵は退院する時に私に返せばいいから」


 屋上の鍵を受け取り、服の胸ポケットに入れる。


「じゃあ若先生に目を覚ました事教えてくるから、勝手に出歩かないでね」

「分かりましたー」


 いつもの低血糖だけなら簡単な問診と検査をして即日退院させてくれるのだが、今回の事例ケースではそうもいかない。この病院は異族、及び異族に接してきた人間ばかりのため、吸血鬼のサンプルとして人体実験、などという非人道的行為が行われる事はない。だが、異族特有の能力で様々な検査が行なわれるため、人間ドックをフルで受けるより時間をかけて検査データを取られることになる(しかも保険適用外)。正直うんざりするが、これからの生活に関わってくる事を考えるとおろそかにも出来ない。仕方なく若本医師――通称若先生――がやって来るのを武は待った。

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